第五十八話:帰宅
太陽が完全に沈み、空が深い群青色に染まるのを待って、私たちは行動を開始した。
隠れ場所に選んだのは、病院から少し離れた場所にある、古びた雑居ビルの屋上だった。立ち入り禁止の札が掛かったフェンスを乗り越え、貯水槽の陰に身を潜めながら、私たちは息を殺して夜を待った。
やがて眼下に広がる街は、魔法の光ではなく、無数の人工的な光――街灯やビルのネオン、車のヘッドライトによって、昼間のように明るく照らし出されていく。
「星が、地上に落ちてきたかのようです……」
ビルの下を見下ろし、アイシャが感嘆の溜息を漏らす。
普段は感情をほとんど表に出さない彼女の瞳が、今は子供のようにキラキラと輝いていた。
「あれは電気による光です」
「でんき……」
「さあ、そろそろ移動しましょう。あまり大通りには出ず、ひと目のつかない裏道を行きましょう」
私たちは非常階段を音もなく下り、夜の街へと足を踏み入れた。
アスファルトで舗装された静かな住宅街の細い道を、影に溶け込むようにして歩く。アイシャは常に油断なく周囲へ視線を配り、わずかな物音にも鋭く反応していた。
「セラフィナ様。これほど明るいとはいえ、夜の道です。盗賊や、野犬などの危険はないのですか?」
暗がりを警戒するアイシャに、私は小さく首を横に振った。
「心配しなくても大丈夫ですわ。この国は、世界的に見ても驚くほど治安が良いのです。刃物を持って夜道を歩き回るような輩は早々いませんし、当然、魔物もいませんから」
「魔物がいない……。こんなにも豊かなのに、それを奪い合う争いも起きないのですね」
アイシャは歩きながら、目に入るものすべて――自動販売機の眩しい光、電柱に絡みつく無数の配線、静かに回る室外機のファン――を、まるで神話のアーティファクトでも見るかのように食い入るように観察していた。
そんなアイシャの姿に少しだけ頬を緩めながら、私は記憶の糸を辿って歩みを進めた。
私の前世は、理系の単科大学としては国内最高峰と呼ばれる『東工大』に通う大学生だった。
実家から大学までは、自転車でおよそ二十分。先ほどまで私たちがいたあの病院は、家から大学へ向かう途中、ちょうど中間あたりに位置する場所にあったはずだ。
頭の中に刻まれた地図は、間違いなく私の生きていた『現代日本』のままだ。
角を曲がり、見慣れた公園の横を通り過ぎる。
少しずつ、景色が私の記憶と完全に一致していく。胸の奥で、ドクン、ドクンと心臓の音が大きくなっていくのを感じた。
(ああ……同じだわ。何も変わっていませんの)
大学への通学路。徹夜でプログラムを組んだ翌朝、ふらふらになりながら自転車のペダルを漕いだ坂道。休日に家族三人で買い物に出かけたスーパーの看板。
前世の記憶として、頭の奥底に大切にしまっていた景色が、今、現実として目の前に広がっている。
やがて、私たちは閑静な住宅街の一角にある、小さな二階建ての戸建て住宅の前にたどり着いた。
「セラフィナ様……?」
ふと立ち止まった私を不思議に思い、アイシャが顔を覗き込んでくる。
私は答えを返すことができず、ただ目の前の家を食い入るように見つめていた。
コンクリートの低い塀。手入れされた小さなシンボルツリー。
カーポートの奥には、私が大学へ通うために毎日乗っていた、シルバーの電動アシスト自転車が停まったままになっている。
そして、門柱に掲げられた表札には、見慣れた名字が刻まれていた。
私が、父と母と共に暮らしていた家。
三人家族の、温かくて、何の変哲もない日常があった場所だ。
窓には、オレンジ色の温かい明かりが灯っている。
あの中に、両親がいるのだろうか。そして、昼間病院で見かけた『私』が、あそこに帰っているのだろうか。
「……アイシャ」
「はい」
「……いえ、何でもありません」
震える声で話すと、私の動揺を察したのか、何も聞かずに、ただ静かに私を労わるように寄り添ってくれた。
インターホンを押す勇気は、まだない。
自分が何者なのか、あの少女は誰なのか。この世界で自分がどういう扱いになっているのか。
真相を暴きたいという科学者としての知的好奇心よりも今はただ、真実を知るのが、ひどく怖かった。




