第五十七話:逃走
急ぎ、息を殺して非常階段を駆け上がるセラフィナ。
しかし、四階の廊下をそっと覗き込むと、事態は最悪の展開を迎えていた。
病室の前にはすでに、制服姿の警察官が三名到着していたのだ。彼らはナースステーションの看護師から話を聞いている。
「……先ほど、一階のパソコンコーナーで見かけましたが」
「入れ違いか……俺は戻ってくるだろうからここで待つ。二人は一階を見てきてくれ」
二人の警察官がエレベーターに乗り込み、一階へと向かっていった。
病室の入り口付近には、体格の良い警察官が一人、壁にもたれて待っている。
(どうしたらよいでしょう……)
物陰に隠れながら、セラフィナは唇を噛んだ。
見張りの警察官に気づかれず、どうやって病室に入り、眠っているアイシャを連れ出すのか。
思考を高速で巡らせていたセラフィナの視界に、廊下の向かい側にある小部屋のプレートが飛び込んできた。
――『清掃用具室』。
何か使えるものはないか。セラフィナは音を立てずにその部屋へ滑り込んだ。
中はモップや洗剤の匂いが充満している。棚を物色すると、業者が使う水色の清掃員の制服と、三角巾が置かれていた。
(これなら……)
セラフィナは手早く検査着の上から清掃員の制服を羽織り、特徴的な銀糸の髪をすべて三角巾の中に押し込んで深く被った。
さらに部屋の隅には、うってつけのアイテムが置かれていた。
金属製のパイプフレームに、使用済みのシーツやタオルを回収するための巨大なキャンバス地の袋が取り付けられた『リネンワゴン』だ。
底にはキャスターが付いており、大人一人が丸まって入れば、すっぽりと隠れられるほどの深さと大きさがある。
(この中にアイシャを詰めて)
セラフィナはマスクを口元まで引き上げ、深呼吸をして平静を装った。
ガラガラとキャスターの音を立てながらリネンワゴンを押し、堂々と廊下へ出る。見張りの警察官の前を通り過ぎ、病室の入り口へと向かう。
背中に鋭い視線を感じるが、絶対に振り返るわけにはいかない。
「失礼します、シーツの回収に回っております」
少し低くした声でそう告げ、警察官の横を通り抜けて病室へ入る。幸い、止められることはなかった。
シーツを変える作業を装いながら、アイシャのベッドへと近づく。
カーテンを少しだけずらし、自分の身体の死角を作る。アイシャはまだ、点滴に繋がれたまま静かな寝息を立てていた。
「ごめんなさいね、アイシャ」
セラフィナは点滴の針を素早く引き抜くと、アイシャの身体をそっと抱きかかえ、そのまま巨大なリネンワゴンの中へと滑り込ませた。カモフラージュとして、丸めた使用済みのシーツを上からふんわりと被せる。
これでよし。あとはこのまま部屋を出るだけだ。
ワゴンを反転させ、出入り口へと向かった、その時。
「おい」
背後から、ポン、と肩を叩かれた。
心臓が跳ね上がる。
不審に感じた警察官が、病室の中まで入ってきてセラフィナの肩を掴んだのだ。
「あんた、まさか……」
万事休す。
髪の色は隠せても、瞳の色までは隠せなかったか。それとも、体格や挙動で怪しまれたのか。
ここを逃れられなければ、どうなることか。セラフィナの頭に、「無期限の収容施設」という絶望的な言葉がよぎる。
その瞬間、セラフィナの目に、ワゴンの側面に引っ掛けられていたボトルが飛び込んできた。
手指消毒用の、ポンプ式のアルコールスプレーだ。
(こうなったら……ッ!)
セラフィナはスプレーのボトルを引ったくると、振り返りざまに警察官の顔面へ向けて、アルコール液を勢いよく噴射した。
「ぐあっ!?」
目に強烈なアルコールを浴びた警察官が、悲鳴を上げて顔を押さえ、大きく怯む。
その隙を突き、セラフィナは全速力でワゴンを押し出し、病室を飛び出した。
「ま、待てっ!!」
背後から怒号が響く。セラフィナは振り返ることなく廊下を駆け抜け、角を曲がって非常階段の重い扉を押し開けた。
階段の踊り場に出たところで、ワゴンの中からシーツに包まれたアイシャを引きずり出し、己の背中へと力任せに背負い上げた。
(ルートは二つ。このまま階段を駆け下りて下へ逃げるか。あるいは――)
下からは、応援の警察官が上がってくる危険性が高い。
バンッ! と音を立てて、先ほどの警察官が目を真っ赤に腫らしながら非常階段へと飛び出してきた。
「こちら四階! 対象が逃走、非常階段を下に向かった!」
警察官は肩の無線機で仲間に怒鳴りながら、蹴り倒されたワゴンを飛び越え、足音を荒立てて階段を下へと駆け下りていく。
――一方のセラフィナは、息を殺していた。
彼が下っていく足音が遠ざかるのを、非常階段を『上』へと登った、五階の踊り場の物陰で。
「……ふぅ」
へたり込みそうになる足に力を入れ、セラフィナが安堵の息を吐いた時だった。
「……セラフィナ、様……?」
背中に背負っていたアイシャが、小さくうめき声を上げて目を覚ました。
「アイシャ! 気がつきましたか」
「私はいったい……」
状況が飲み込めず首を傾げるアイシャを床に下ろし、セラフィナは早口で現在置かれている状況を説明した。
魔法のない世界であること、国に捕まれば一生檻の中であること、そして今、警察の包囲網から間一髪で逃げ出したところであること。
「……いまいち、理解が追いつきませんが」
アイシャは眉間を揉みほぐした。
「私たちが、絶体絶命の非常事態に陥っているということだけは、明確に理解いたしました」
「飲み込みが早くて助かります」
「この後はどうしましょうか。私の力で、下の追手を突破しますか?」
アイシャが物騒な提案をするが、セラフィナは首を横に振った。
「駄目ですわ。今の私たちはこの検査着といい、容姿といい、目立ちすぎます。外に出ればすぐにまた通報されてしまいます。どこか空き部屋か屋上を探して、夜になるまで隠れて待ちましょう」
「夜闇に紛れて動くのですね。……ですが、ここを出て、何か行く当てはあるのですか?」
アイシャの真っ当な問いに、セラフィナは力強く頷いた。
もちろん、当てなどない。金も身分証もない。
しかし、セラフィナには『行くべきところ』があった。




