第五十六話:公的権力
午後になり、昼食の乗ったトレイを片付けに来た看護師から、セラフィナは今後の予定について簡単な説明を受けた。
「セラフィナさんたち、お身体に異常は見られないので、明日には退院ということになります。ただ……身分を証明するものがないため、この後は『入国管理センター』という施設の方へ移動していただくことになるそうです。午後には警察の方と、入管の担当者がここへお見えになります」
「入国管理……センター?」
聞き慣れない単語に、セラフィナは首を傾げた。
前世の記憶の中で、その施設について深く知ることはなかった。自分が日本国民として生きていた頃は、まったく縁のない場所だったからだ。
「そこへ行けば、私は自由に外へ出て、調べものをしたりすることはできるのでしょうか?」
「ええっと……ごめんなさい、私では詳しいことまでは分からなくて。ただ、記憶が戻ったり、身元引受人の方が現れるまでは、そちらで生活していただくことになるとは聞いています」
看護師は申し訳なさそうに曖昧な返事をして、病室を出て行った。
(……なんだか、嫌な予感がします)
自分のこれからの扱いについて、相手の言うがまま何も知らずにいるのは危険すぎる。
看護師の話によれば、一階のロビーに患者や見舞い客が自由に使える共用パソコンが設置されているらしい。セラフィナはアイシャがまだ眠っているのを確認すると、そっと病室を抜け出した。
病棟の廊下を歩き、エレベーターで一階へと降りる。
その間、セラフィナは周囲から突き刺さるような強烈な視線を感じていた。
「ねえ、あの人……すっごい綺麗……」
「モデルさんかな? ハーフ? 髪の色、透き通ってるみたい……」
すれ違う医師や看護師、パジャマ姿の患者たちが、皆一様に振り返り、息を呑んで彼女を見つめていた。
セラフィナは、自分がこの国においてどれほど異質で、目を引く存在であるかを痛感した。透き通るような白い肌に、特有の神秘的な色彩を持つ瞳と髪。病院が貸してくれた味気ない検査着を着ていても、その絶世の美貌は隠しきれないのだ。
(これでは、どこへ行っても目立ってしまいますね……)
足早にロビーの隅にあるパソコンコーナーへと向かい、空いている席に座る。
便利なことに、最近はブラウザに統合されたAIに尋ねれば、複雑な法律や情報も分かりやすく要約して教えてくれる。
セラフィナは周囲の目を気にしながら、AIに質問を打ち込んだ。
『日本の入国管理センターの収容施設について。身元不明の外国人が収容された場合、自由に外出したり、調査活動をすることは可能か?』
数秒の演算後、AIから丁寧で無機質な回答が画面に表示された。
【回答】
日本の出入国在留管理局が運営する収容施設は、退去強制事由に該当する外国人を、本国へ送還するまでの間「一時的に身柄を拘束する」ための施設です。
したがって、施設に収容された外国人が、自身の意思で自由に外出することは一切できません。
携帯電話やパソコンの持ち込みは原則禁止されており、外部との通信は手紙か、監視下での公衆電話のみに制限されます。また、起床・就寝時間なども厳格に定められており、自由な調査活動等を行うことは不可能です。
「……っ!」
セラフィナの背筋に、冷たい汗が伝った。
外出不可。通信機器の持ち込み禁止。それは実質的に『刑務所』と同義ではないか。そんな場所にアイシャと共に閉じ込められてしまえば、帰還の方法など、調べるようもない。
焦る指先で、セラフィナはさらに質問を打ち込む。
『所持品がなく、国籍も不明な外国人が、記憶喪失だと主張して保護された場合、どのような扱いを受けるか? その対応はまずかったか?』
【回答】
記憶喪失を主張した場合でも、パスポート等の身分証明書を所持していない時点で、出入国管理及び難民認定法違反(旅券不携帯・不法滞在等)の疑いがかけられます。
警察および入国管理局は、データベース(指紋・顔認証等)と照合し身元の特定を図りますが、国籍が判明しない場合、「本国への強制送還が不可能」とみなされます。
現在の日本の法制度において、送還先が不明な外国人は、身元が判明するか身元引受人が現れない限り、収容施設への拘束が数ヶ月から数年単位、最悪の場合は無期限に及ぶリスクが極めて高いです。
法的な観点から見れば、身分を偽る、あるいは記憶喪失を理由に身元を明かさないという対応は、事態を著しく悪化させる非常に危険な選択と言えます。
「む、むきげん……!?」
セラフィナは思わず声に出してしまいそうになり、慌てて口を両手で覆った。
時間稼ぎのつもりで吐いた「記憶喪失」という嘘が、まさか自分たちの首をこれほどまで致命的に絞めることになるとは。魔法世界の常識や令嬢としての権力が一切通用しない、法とシステムに支配された現代社会の恐ろしさを、彼女は完全に舐めていた。
(まずい、まずい! 午後には警察が来ると言っていました! ここにいては確実に入管の施設へ連行されてしまいます!)
急いで病院を出なければならない。
通信を遮断された檻に閉じ込められる前に、アイシャを連れて逃げ出すしかない。
画面を強制終了させ、セラフィナは席を立ち上がった。
病室へ戻り、アイシャを起こして、目立たない服を調達して――。
思考をフル回転させながら、ロビーの巨大なガラス窓の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「……えっ」
窓の外。病院の正面駐車場に、けたたましいサイレンの音こそ鳴らしていないものの、見慣れた白と黒のツートンカラーの車両――パトカーが二台、滑り込むように入ってくるのが見えた。
後部座席からは、制服姿の警察官が数名降りてくる。
(もう来たの!? まだお昼を過ぎたばかりですのに!)
警察の動きは、セラフィナの想定よりも遥かに早かった。
エレベーターホールに向かう彼らの姿を見て、セラフィナの心臓が警鐘を鳴らす。
時間は、ない。
彼らが病室へたどり着く前にアイシャと合流し、この巨大な病院から脱出しなければならないのだ。
セラフィナは、来客の目を掻き潜るようにして、病室のある階へ向かうための非常階段へと走り出した。




