第五十五話:電気羊の夢
……どれほどの時間が経ったのだろうか。
セラフィナは、頬に当たる滑らかで温かい風の感触で目を覚ました。
「ん……」
ゆっくりと重い瞼を開ける。
視界に広がったのは、石造りの天井でも、野営用の天幕でもなかった。
規則正しく並んだ、無機質な白い天井材。四角く切り取られた蛍光灯の白い光。鼻を突くのは、アルコール消毒液のツンとした清潔すぎる匂いだ。
耳を澄ませば、『ピッ、ピッ』という規則的な電子音が一定のリズムで鳴っている。
セラフィナは自分が、真っ白なシーツに覆われたスプリングベッドの上に寝かされていることに気がついた。左腕には細いチューブが繋がれ、透明な液体の入ったパックが金属のスタンドに吊るされている。
(ここは……病院……? の病室……?)
混乱する頭で、セラフィナはゆっくりと周囲を見渡した。
淡い緑色のカーテンで仕切られた空間。枕元の壁には見慣れた形状のコンセントやナースコールのボタンがあり、簡素な床頭台の上にはプラスチック製のコップが置かれている。
間違いない。魔法による治癒院などではない。前世の記憶の中にある、日本の近代的な医療施設だ。
「アイシャ……?」
隣のベッドには、同じように点滴を繋がれ、静かな寝息を立てるアイシャの姿があった。
傷一つない顔を見て安堵すると同時に、強烈な目眩がセラフィナを襲う。
(私は、どうなったの……?)
もしかして、あのファンタジー世界での生活は、すべて長い長い『夢』だったのではないだろうか。
自分は本当はこの世界の女子大生で、機械工学や先端技術を学び、「何か新しいものを作りたい」と夢見ているだけの平凡な少女だったのではないか。
何か事故にでも遭って昏睡状態になり、ベッドの上で魔法の世界の夢を見ていただけだとしたら。長い夢から覚めて、ついに現実へと帰還したのだとしたら。
心臓が早鐘のように打つ。
ふらつく足に力を込め、セラフィナはベッドから降りた。点滴のスタンドを杖代わりにしながら、病室の隅にある小さな洗面台へと向かう。
冷たい水で顔を洗い、恐る恐る、壁に掛けられた鏡を見上げた。
「……あ」
鏡に映っていたのは、黒髪のアジア人ではなかった。
透き通るような白い肌、宝石のように輝く瞳、そして見事なプロポーション。
それは紛れもなく、魔法世界でレオンハルトの婚約者として生きてきた、『セラフィナ』という絶世の令嬢の姿そのものだった。
夢ではない。
「あ、気がつかれましたか!」
不意に背後から声が掛かり、セラフィナはビクッと肩を揺らした。
入り口のカーテンが開き、水色のスクラブを着た若い女性――巡回中の看護師が現れた。
「よかった、先生を呼んできますね! そのままベッドで休んでいてください。あ、日本語、わかりますか?」
「に、にほんご……ええ、わかりますわ」
「よかったです! すぐ戻りますね」
数分後、看護師に連れられて白衣を着た中年の男性医師がやってきた。
医師は簡単な問診とペンライトでの瞳孔確認を行い、ホッとしたように息をついた。
「意識もはっきりしているようですね。どこか痛むところは?」
「あの、いえ、少し頭が重いだけで、痛みはありません。……あの、私たちはどうしてここに?」
セラフィナが流暢な日本語で尋ねると、医師は少し困ったような顔をした。
「昨日、市内の公園の道端で、あなたたち二人が気を失って倒れているのが見つかりまして。警察も呼ばれたんですが、外傷も、薬物の痕跡も見られず、何より意識が戻らないため、救急搬送されて当院へ入院となりました。丸一日ほど眠っていたんですよ」
「丸一日……」
「ええ。問題は、お二人が所持品を一切持っておらず、身分を証明するものがないことなんです」
医師はカルテを見ながらため息をついた。
「これだけ特徴的な容姿をされている外国の方ですから、大使館等から捜索願が出ているかとも思ったのですが、今のところ該当なしでして。警察も身元が分からず困っている状況なんです。日本の健康保険証や、パスポートはお持ちじゃないですか? お名前と国籍を教えていただけますか」
(……国籍)
セラフィナは内心で冷や汗をかいた。
日本の法律において、身分証もパスポートも持たない外国人は「不法滞在者」として扱われる可能性が高い。入国管理局に引き渡されれば、最悪の場合は収容施設送りだ。
かといって、「魔法世界ルミナス王国から次元のゲートを通って来ました」などと正直に言えば、間違いなく精神科へ回されるか、薬物使用者として警察の厳しい追及を受けることになる。どちらに転んでも、アイシャを守りながら行動の自由を確保することは不可能になる。
「……申し訳ありません」
セラフィナは伏し目がちになり、いかにも不安げな表情を装って震える声を出した。
「私、記憶が……曖昧で。自分が『セラフィナ』という名前であることと、隣にいるのが大切な妹分の『アイシャ』だということ以外……どこから来たのか、どうして倒れていたのか、どうしても思い出せないのです……」
記憶喪失。使い古された手だが、身元不明の急患が取る態度としては最も自然で、かつ時間稼ぎになる。
幸い、ここは病院だ。人命と保護を最優先とする日本のシステム上、記憶が戻らないと主張し続ける「行き倒れの外国人」を、今すぐ放り出すようなことはしないはずだ。
「記憶障害ですか……」
医師は同情的な目を向け、看護師に警察への連絡を指示した。しばらくは保護という名目で、この病院に留まることができそうだ。
医師たちが去り、再び病室に静寂が戻った。
セラフィナはベッドに腰掛け、これからどうやって警察の聴取を躱し、元の世界への帰還方法を探るか、フル回転で思考を巡らせていた。
「おじいちゃん、今日は調子どう? 着替え、持ってきたよ」
ふと、大部屋の向かいのベッドから、若い少女の声が聞こえてきた。
どうやら、同じ病室に入院している祖父の見舞いに、孫娘がやってきたらしい。
「ああ、悪いねぇ。わざわざすまないね」
「ううん、大学の帰り道だから平気。ゼミのレポートが溜まってるから、今日は着替え置いたらすぐ帰るけどね」
「そうかい。頑張りなさいよ」
他愛のない家族の会話。
しかし、セラフィナはなぜか、その少女の声にひどく気を取られていた。
耳の奥をくすぐるような、不思議な既視感。いや、聴視感というべきか。どこかで、毎日のように聞いていたような声。
「じゃあ、また週末に来るね。バイバイ」
カーテンの向こうで足音がし、少女が病室の出入り口へと向かって歩き出す。
セラフィナは、まるで何かに導かれるように、無意識のうちに少女の方へと視線を送っていた。
帰り際、少女はベッドの祖父に手を振るために、くるりと振り返った。
その瞬間。
セラフィナと、その少女の視線が交差した。
「……え」
少女は、ベッドに座る絶世の外国人美女と目が合い、少しだけ驚いたように会釈をして、足早に病室を出て行った。
しかし、セラフィナは会釈を返すことすらできず、息を呑んだまま完全に硬直していた。
「嘘……」
全身の血が逆流するような衝撃。
見間違えるはずがない。それは、かつて自分が毎日鏡の前で見ていた顔。
黒髪で、どこにでもいるような普通の女子大生。
それは紛れもなく、セラフィナが『前世の自分』として記憶している少女、そのものだった。




