第四十九話:神降る島
距離にしておよそ二十里。帆船の速度で十二時間ほどの航海である。
朝に辺境伯領の港を出発した三隻の船は、夕暮れ時、海を朱に染める太陽を背にしながら、目的の島へとたどり着いた。
面積にしてわずか数平方キロメートル。端から端まで歩いても小一時間ほどの、岩とまばらな草木しかない小さな無人島だ。
上陸した一行は、波の穏やかな入り江に船を停泊させ、すぐさま海岸付近での荷下ろしと野営の準備に取り掛かった。
季節は春に向かっているとはいえ、北の海の夕暮れはまだ肌寒く、潮風が容赦なく体温を奪っていく。
砂浜に設営されたのは、騎士や水夫たちが使う一般的な天幕に加え、セラフィナたちのために特別に用意された、北方の遊牧民が用いる『ゲル』に似た天幕だった。
円形の頑丈な骨組みに、分厚い魔物皮とフェルトを何層も重ねて張ったそれは、外の冷気を完全に遮断する。天幕の中央には煙突付きの魔石ストーブが設置され、赤々と燃える火が室内を暮らしやすい温度にまで暖めていた。
その日の探索は行わず、野営地に留まることになった。
暖かな天幕の中で、セラフィナ、ガレス、そして従者のアイシャの三人は、簡素な夕食を終え、今後の旅程の確認を行っていた。
「島内の散策は明日から三日間を予定していますわ。そして四日目の朝には帰路につきます」
「三日間も、この何もない島を見て回るんですか?」
「何もないかどうかは、調べてみないと分かりませんわよ」
ガレスのぼやきに、セラフィナは鞄から一枚の羊皮紙を取り出してテーブルに広げた。
そこには、島の簡素な地図と、びっしりと書き込まれた古代文字の翻訳が記されている。
「これは、この『神降りし島』――神話における正式名称『アステリア島』に関する記述ですわ」
「神話、ですか。随分と長い文章ですね」
「ええ。古代文字を翻訳した結果、およそ二千字程度の記述になりました」
セラフィナは羊皮紙を指先でトントンと叩く。
「この二千字という数字。歴史の資料全体として見れば、たった数ページ分にしかならない、非常に少ない情報量です。しかし、『アステリア島という特定の地域に関する項目』として二千字が割かれていると考えると……かなり詳細に記述されたといえます。むしろ異常とも言っていい情報量になりますわ」
歴史書において、辺境の小さな無人島一つに数ページも割くことはあり得ない。つまり、それだけこの島には『書くべき重要な事柄』があったのだとセラフィナは力説する。
「この記述には、神が島のどこに降り立ち、どこで何をし、どこが何をするための場所だったのか……といったことが、驚くほど詳細に記されているのです。明日からは、この記述にある場所をそれぞれ巡ってみたいと考えていますの」
「ちなみに、その島に降りた神様って、どういう神なんですか?」
「神話によれば、天から炎の車輪に乗って降りてきた、光と影を司る双子の神だそうですわ。彼らはこの島に大いなる楔を打ち込み、神殿を築いたと」
簡単に神話の概要を解説しながら、セラフィナはふと、この世界の宗教観について思考を巡らせた。
前世の記憶を持つセラフィナから見て、この世界では『神』という存在の価値が驚くほど低い。
信仰心や祈りという行為自体は存在するが、それは絶対的な唯一神や、神話の神々に向けられるものではない。領地に住む者は領主家の立派な先祖を敬い、王都の者は王国の礎を築いた王族の先祖を奉る。特定の偉業を成し遂げた『個人』に対する祖先神崇拝、あるいは聖人信仰に近い。
現に、目の前にいるガレスも、時折祈りを捧げているのは、昔名を馳せた偉大な武人である。
その理由は、おそらく『魔法』という超常の力が一般的に存在しているからだろう、とセラフィナは結論づけている。
魔法によって奇跡に近い現象が引き起こせる世界では、天候を操り大地を揺るがす神の力も、単なる『高位の魔法使い』として片付けられてしまうのだ。
結果として、神話というものにはあまり目が向けられず、このアステリア島のような神話の舞台も、特に神聖視されることなく野ざらしにされている。
(それは非常に勿体ないことですわ……)
セラフィナは内心でため息をつく。
古代の魔導帝国ゼニスの伝説が残っているのに、人々がそれをあまり重視しないのは、そうした神話や神に対する軽薄さから来るのだろう。
誤解してほしくないが、セラフィナ自身も、別に古代の歴史や神話のロマンに浸りたいわけではない。これが単なる『古代の石造りの遺跡』というだけならば、わざわざ海を渡って来たりはしない。
しかし、神話の裏に隠されたものが、『古代のオーバーテクノロジー』だとしたら話は別だ。
炎の車輪で降下し、島に楔を打ち込んだ双子神。それがもし、軌道上から降下してきた巨大なサイボーグや、地下シェルターの建造記録だとしたら。
想像するだけで、血がたぎる。
そんな風に一人で興奮の笑みを漏らしていると、静かに話を聞いていたアイシャが、すっと手を挙げた。
「質問よろしいでしょうか」
「ええ、何かしら」
「セラフィナ様は、何を信仰されているのですか?」
アイシャの真っ直ぐな問いに、セラフィナは虚を突かれた。
前世でも今世でも、特定の宗教を信じたことはない。この世界においては、科学と魔法の探求にのみ心血を注いできた彼女にとって、信じるべきものはただ一つだった。
セラフィナは少しだけ考えて、当然のように答えた。
「『再現性』かしら」
「……はい?」
見事に声が揃ったガレスとアイシャが、同時に首を傾げた。
条件さえ揃えれば、誰が何度やっても同じ結果が導き出されるという科学の絶対法則。それこそが彼女の信仰対象であったが、この世界で理解を得るのは少しばかり難しかったようだ。
翌日。
太陽が水平線から顔を出すか出さないかという早朝。
誰よりも早く目を覚ましたセラフィナは、すでに完璧な散策の準備を整え、意気揚々と天幕の出口に向かっていた。
彼女ほど、口から行動までが直結している令嬢はいないだろう。
レオンハルトには「絶対に単独行動はしない」と約束したが、それはあくまで言葉遊びに過ぎない。セラフィナの辞書において、『同じ領域(この場合は同じ島)に護衛が存在していれば、それは単独行動には該当しない』という、海より広い拡大解釈が適用されていた。
皆が寝静まっているうちに、少しだけ島の下見をしてこよう。
そう足取りも軽く天幕の入り口の布を捲り上げたセラフィナだったが――。
「お待ちしておりました、セラフィナ様」
外の冷気とともに、完璧な直立不動で待ち構えるアイシャの姿があった。
セラフィナは驚きに目を丸くする。
「アイシャ!? まだ皆、起きる時間じゃありませんわよ。どうして……」
「セラフィナ様がどのようなお方で、どういった行動に出るかについては、事前にレオンハルト様より詳細に知らされておりましたので」
「……レオンハルト様」
完全に手回しされていたことに、セラフィナは渋い顔をした。
しかし、ここで足止めを食らうよりは、ついて来てもらった方が早い。
「まあいいですわ。ついて来てくれる人がいるなら心強いですし、このまま行きましょう」
「お待ちください」
歩き出そうとしたセラフィナを、アイシャが静かな声で制止した。
「これを見ていただきたいのですが」
アイシャが差し出したものを見て、セラフィナは息を呑んだ。
それは、銀色の金属装甲で覆われた、どう見ても『ロボットの片腕』だった。
しかも、肩の関節にあたる部分からは火花が散っており、まだ内部の回路に通電しているのか、時折『カチリ、ジー……』と微かな駆動音を鳴らしている。
「こ、これは……! どこで見つけましたの!?」
「この先に、たくさん落ちています」
アイシャに案内され、セラフィナは野営地を見下ろす小高い丘へと駆け上がった。
そして、朝靄に包まれた島の中心部を見渡し――絶句した。
「嘘……でしょう……」
ごつごつとした岩肌が続く丘の向こう側。
そこには、アイシャが持っていたのと同じ金属の腕や、ひしゃげた胴体、光学レンズの割れた頭部など――無数のロボットの残骸が、まるで激しい戦闘の跡のように、至る所に散乱していた。




