第四十八話:少女アイシャ
港から離れ、外洋へと出た旗艦は、穏やかな波を切り裂きながら北へと進んでいた。
船室にて。
出港を見届けたセラフィナは、早々に窮屈なドレスを脱ぎ捨てていた。
「あー、やっぱりこれが一番落ち着きますわね」
お決まりの作業着に袖を通しながら、セラフィナは大きく伸びをする。着替えの手伝いを任されていた侍女たちは、主が勝手に着替えを進めてしまうため、慌てて後からボタンを留めたりシワを伸ばしたりと立ち回っていた。
「別に、私一人で着替えられますから、手伝わなくても構いませんわよ?」
「とんでもございません。これが私どもの仕事ですから」
侍女たちは苦笑しながらも、手際よくセラフィナの身なりを整えていく。
その様子を鏡越しに眺めながら、ふと、セラフィナは思いつきで雑談を投げかけた。
「ねえ、貴方がたは、何か信じている『神様』はいますの?」
侍女たちは一様に手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「神、ですか? 変なことを聞かれますね」
「我々の信心の対象はレオンハルト様と、そのご先祖様ですわ。この厳しい土地を切り拓き、魔物から守ってくださっているのは、他でもない辺境伯家ですから」
現実的な信仰心である。
「ですわね。当然の考えですわ」
セラフィナは小さく頷いた。これから『神降りし島』などという神話めいた場所へ向かうというのに、当の領民たちが神など信じていないというのは、なんとも皮肉な話だった。
着替えを終え、甲板の下にある広めの船室へ向かうと、そこにはガレスと、見慣れない一人の少女が待っていた。
「お待ちしておりました、セラフィナ様。今回の旅程で、セラフィナ様の身近なお世話を担当する従者を紹介します」
ガレスに促され、少女が一歩前に出る。
年齢はセラフィナよりも年下、リタと同じくらいだろうか。色素の薄い銀糸のような髪を肩のあたりで切り揃え、漆黒の簡素なメイド服に身を包んでいる。
よく礼節の身についた佇まいだが、ある意味で天衣無縫なセラフィナとは対照的に、まるで精巧な人形のように感情を表に出さない。
「アイシャと申します。道中、至らぬ点もあるかと存じますが、誠心誠意お仕えいたします」
「よろしくお願いしますわ、アイシャ」とセラフィナが挨拶を返すと、アイシャは一糸乱れぬ完璧な所作で深く一礼した。
「この子はどういう子なんですの?」
セラフィナが小声でガレスに尋ねる。
「昔から、レオンハルト様の一族に影のように仕えてきた従者の家系の娘です。レオンハルト様が気を利かせたようですよ。最近、セラフィナ様がリタと別れて気に病んでいたようでしたから、歳の近そうな彼女が選ばれたのだとか」
「変な気を遣わなくてもいいのに。別に病んでもいないですし」
セラフィナはアイシャに向き直った。
「アイシャ、ここは船の上ですし、そんなに硬くならなくていいわ。楽にしてちょうだい」
「お気遣い痛み入ります。ですが、これも私の仕事ですので」
アイシャは表情ひとつ変えず、椅子に座ろうともしなかった。
「やれやれ」と肩をすくめ、ガレスは自分の船室での作業に戻っていった。
ガレスが退室した後も、アイシャはセラフィナの世話係としてその場に留まり続けた。
波に揺れる船内だというのに、壁際に立つアイシャは微動だにせず、直立不動を貫いている。
「……まさか、移動中ずっとそのままのつもりですの?」
「はい。セラフィナ様がお休みになるまでは」
淡々と答えるアイシャ。
あまりにも機械的なその態度に、機械オタクであるセラフィナは、何となく親近感というか、奇妙な愛しさを感じてしまった。
(ふふ、なんだかからかってみたくなりますわね)
セラフィナはわざわざ自分の椅子を引きずり、直立するアイシャのすぐ隣にどっかりと座った。
そして、じっとアイシャの顔を見上げたかと思うと、唐突に彼女の銀髪を指でくるくると弄り始めた。
「何かご用ですか」
「いえ? 別に」
次は、白い頬をツンツンとつつく。
「セラフィナ様」
「なんでしょう。んー、なんというか……ちょっと可愛くて」
「左様ですか」
アイシャは完全に無反応を貫いた。瞬きすら一定のペースだ。
どうしたらこの子は何か人間らしい反応を見せるのだろうか。
セラフィナの探究心に火がついた。彼女はアイシャに質問攻めを開始した。
「好きな遊びは?」
「特にありません。鍛練が日課です」
「ご両親のお名前は?」
「父はゲルト、母はマリアです」
「好きな食べ物は?」
「栄養が摂取できれば何でも」
何を尋ねても、淡々と、即座に返答が返ってくる。
「じゃあ、好きな人はいるのかしら?」
その質問に、アイシャはわずかに目を伏せた。
「……結婚する相手は、領主様が選びます」
「え?」
「そうやって代々、優秀な血を繋ぎ、領主家に仕えてきたのが私の家系ですので」
さらりと言ってのけるアイシャに、セラフィナは絶句した。
「……それじゃあ、まるで奴隷じゃない! そんなこと、レオンハルト様にもしてほしくありませんわ!」
「いえ、そういう取り決めですので」
「まさか、あなたの結婚相手はもう決められているというの!?」
「はい。前領主様の時代に、私が生まれる前から定められております」
セラフィナはバンッ!と肘掛けを叩いて立ち上がった。
「許せませんわ! 今すぐ船を戻しなさい! レオンハルト様に直接文句をつけてやります!」
鼻息を荒くして扉に向かおうとするセラフィナを見て、いつもの氷の面影を崩し、アイシャが初めて焦ったように声をあげた。
「あ、お待ちください! 誤解です!」
「誤解?」
「れ、レオンハルト様からは、『当人の意思を無視した結婚など時代遅れだから、もう辞めにしよう』と、直々に撤回のお言葉を頂戴しております……!」
普段の無機質な態度とは打って変わって、必死に主の弁明をするアイシャ。
その様子を見て、セラフィナはホッと胸を撫で下ろした。
「あら、そうなの? よかったわ。レオンハルト様がそんな前時代的な悪習を強いるような人じゃなくて」
心底安堵したように微笑むセラフィナ。
すると、アイシャは元の静かな表情に戻り、ぽつりと言った。
「……セラフィナ様は、レオンハルト様が本当にお好きなんですね」
「んっ!?」
唐突なカウンターに、セラフィナは変な声を漏らした。
一瞬にして顔に血が上り、耳まで真っ赤に染まる。
「そ、そそそ、それは……えっと……」
「お顔が真っ赤ですが」
「うう……」
図星を突かれ、反論の言葉も見つからない。セラフィナは観念したように、小さくこくりと頷いた。
「……ええ。好き、ですわよ。文句あるかしら」
歯切れは悪かったが、はっきりと肯定した。
それを見たアイシャは、ふっと、ほんのわずかにだけ唇の端を緩めた。
「レオンハルト様は、貴女のような方が好きだったのですね」
「なっ……!」
今度はセラフィナが完全に追い詰められる番だった。自分で始めたからかいだったはずが、いつの間にか形勢が逆転している。
「きょ、今日はもう湯に浸かって休息を取ります! あなたも自分の部屋で休むように! 命令ですからね!」
これ以上ここにいては心臓が持たないと悟ったセラフィナは、バタバタと足音を立てて逃げるように船室を飛び出していった。
残されたアイシャは、閉まった扉を静かに目で追った。
「……貴女が、羨ましいです」
ぽつりと、誰に聞こえるでもない声で呟く。
しかし、彼女はすぐに首を振り、無表情な従者の顔に戻ると、主の命令を半分だけ無視して、セラフィナの背中を追って船室を後にした。




