第三十八話:変貌
とはいえ、大気を切り裂くような神速で縦横無尽に飛び回る動きの早い相手に対して、針の穴を通すように1点を狙って攻撃を直撃させるのは、至難の業であった。
レオンハルトが、ただ強引に肉体を強化して拳を振るうのみでは、攻撃のバリエーションと軌道に限界があることに代わりはない。圧倒的な力も、当たらなければ空を裂く虚しい風圧に過ぎない。
ましてや、先程試した簡易的な罠魔法では、この局面を打開するには役不足であった。
「――私が魔法で、奴の動きを止めてみます」
「できるか」
「もちろんですわ」
セラフィナは不敵な笑みを浮かべてみせたが、その実、これから彼女が行おうとしている演算処理は常軌を逸していた。
レオンハルトは知る由もないが、他人の魔力伝達を促す神経の電気信号に外部から直接干渉し、その出力をミリ単位で調整するなど、当然ながらこの世界においては存在しない、オーパーツにも等しい技術である。
髪の毛の五十分の一程度の極小のニューロンという、不可視領域一本ずつ視認して掴み取り、本来なら人間の無意識下で行われる反射動作のすべてを、意識下で手動制御する――文字通りの神業だ。
そのうえで、絶対的な繊細さを要する拘束魔法の構築と発現を同時に行うとなれば、それは頭の中で全く別々の複雑な幾何学の証明問題を同時に十数個解き続けるようなものであった。
セラフィナはドレスの袖を翻して右腕を高く掲げ、瞳孔を極限まで収縮させて、残像すら残さない標的の軌道に照準を合わせる。
「展開。シークエンス起動――」
虚空に幾何学的な魔力陣が浮かび上がり、そこから七本の眩い白い鎖が射出され、獲物を追いかけるように宙を這った。
しかし、結果から言えば、セラフィナの構築した魔法では圧倒的に速度が足りなかった。
相対的な速度差は、残酷なまでに明確であった。
音を置き去りにし、三次元の空間を重力から解き放たれたように跳躍するククルタの機動が「天空から一直線に突き刺さる落雷」であるならば、セラフィナの放った七本の鎖は「底なしの泥沼を這い進む、極めて重厚で粘り気のある水飴」であった。
いかに魔法の術式が精密で、完璧な追尾性能を持たせていようとも、絶対的な物理法則の壁――初速と到達時間の差――はいかんともしがたい。落雷の速度を、ゆっくりと伸びる水飴で空中で絡めとることなど、不可能に決まっているのだ。
逃げるククルタの残像を掠めることすらできず、白い鎖は虚しく空の彼方へと消えていく。ククルタを捕らえることができない。
「ちぃっ、なんてすばしっこい……!」
ポタリ、と。
セラフィナの鼻から、一筋の真っ赤な血が垂れ落ち、地面を濡らした。
脳を限界まで酷使した弊害である。通常の人体構造ではあり得ないレベルの莫大な脳神経のスパークが、セラフィナの頭脳を苛烈な熱で刺激し、医学的な「神経原性の炎症」を急速に引き起こしていたのだ。脳が、自らの異常な処理能力から生み出される熱で内側から焼き切れそうになっている。
セラフィナは乱暴に手の甲で鼻を拭い、鉄の味を噛み殺しながら、ふらつく身体に力を込めて、もう一度狙いを定める。
「これなら、どうですの……!」
今度は現在の動きを追うのではなく、相手のベクトルと初速から次の一手を三次元的に予想し、空間の死角へ先回りをするようにして鎖を射出した。
しかしそれでも、セラフィナの血を吐くような予測演算を嘲笑うかのように、ククルタは空中で不自然に軌道を捻じ曲げ、魔法の網の目を紙一重ですり抜けていく。
あまつさえ、魔法を避けつつも的確に、セラフィナとレオンハルトの急所を狙って鋭い風の刃による追撃を放ってきた。
「甘い」
レオンハルトが前に滑り出て、漆黒の魔力の障壁でその刃を簡単にいなすが、防御した直後に反撃に転じようにも、敵は既にその場にはいない。決定打となる攻撃が行えないまま、ジリジリと体力と精神力が削られていく。
ドロリとした温かい液体が、再びセラフィナの鼻孔から顎へと滴り落ちた。
同時に、視界が激しく明滅し、意識がブツリと途絶えそうなほどの激しい頭痛がセラフィナの脳髄を殴りつける。立っていることすら困難な痛みに、彼女の膝がガクンと揺れた。
その気配を感じ取ったレオンハルトが、鋭く振り返り異変に気づいた。
「おい、大丈夫か!? 血が……お前、顔色が真っ青だぞ」
「も、問題ありませんわ。……しかし、私の魔法単体では、あの異常な素早さを完全に捕らえることが難しいようです」
「そうか。ならば、俺が直接奴を叩き潰す。お前はもう、壁際へ下がっていろ」
「いえ、プランを変えましょう」
セラフィナが、庇おうとする大公の言葉尻を強引に捉えて制止する。
「レオンハルト様のスピードなら、あいつと肉薄することができますわ。ですから、貴方が攻撃を振り抜く瞬間に、私が外部から強制的に魔力量を増幅し、威力を局所強化しますわ」
「……俺の動きに、お前が合わせるというのか?」
「ええ。必ず合わせます」
作戦は決まった。
レオンハルトが石畳を砕くほどの爆発的な推進力で地を蹴り、ククルタへと肉薄する。ククルタもまた、迎え撃つように鋭い爪を振りかざして空中で交差した。
「そこだッ!」
レオンハルトが右の拳に魔力を込め、ククルタの胴体へと叩き込もうとする。その刹那――。
(今ですわ!)
セラフィナが魔力パスを繋ぎ、レオンハルトの拳へと莫大なエネルギーを注ぎ込もうとした。
だが、遅かった。
わずか〇・二秒の致命的なズレ。レオンハルトの獣のような本能的な踏み込みの速度と、セラフィナが視覚情報から状況を計算し、魔力を送るまでの「思考と通信のラグ」が、決定的な不協和音を生み出した。
以前、騎士クラウスの義手で行ったような、機械的な「無意識の自動同期」とは違う。これは、互いの呼吸を意識的に合わせる「手動同期」。
レオンハルトは無意識に「セラフィナからの魔力供給」を待ってしまい、拳を振り抜く速度がほんのわずかに鈍る。逆にセラフィナは
「レオンハルトのタイミングに合わせること」に脳のリソースを割きすぎたあまり、敵のカウンターの軌道から完全に目を逸らしてしまった。
「――ガッ!?」
「きゃあっ!」
合わせることに意識を奪われた致命的な隙を突かれ、ククルタの放った強烈な蹴りが二人を捉えた。直撃は避けたが、その衝撃波は、セラフィナもろとも容赦なく吹き飛ばす。
二人は無惨に石畳を転がり、連携の不手際から手痛い反撃を受ける結果となった。
荒い息を吐きながら立ち上がり、作戦を再考する二人。
レオンハルトの身体能力なら、敵の攻撃を躱しつつダメージを与えること自体は可能だ。しかし、この異常な機動力の標的を一撃で沈めるだけの「決定打」を当てる隙がない。
一方でセラフィナは、広範囲の魔法で攻撃・拘束することもできるが、彼女自身の魔力出力では威力が全く足りていない。拘束しようにも、魔法の展開が遅すぎて捉えられない。
完璧と思われた二人のコンビネーションは、ここに来て戦術的な袋小路に迷い込んでいた。
その膠着状態の最中、状況が突如として最悪の方向へと変化する。
敵であるククルタもまた、しぶとい二人を仕留めきれず、攻めあぐねていることを自覚したのか、不気味な低い唸り声を上げ始めた。
直後、ククルタが胸のあたりに格納しているペンダントが、心臓の激しい鼓動に同調するように、毒々しい紫色の光を放ち始める。
『ギ……ガァァァァァァァァッ!!』
ククルタの肉体が、内側から風船のように膨張し、骨の軋む嫌な音が広間に響き渡る。
端正で細身だったシルエットはドロドロに崩れ去り、無数の赤黒い肉の触手が背中から突き出した。四肢は丸太のように肥大化し、皮膚を突き破って漆黒の外骨格が形成されていく。
どす黒い瘴気を纏い、複数の眼球を不規則に動かすその姿は、先程の機動力特化の姿から一転して、圧倒的な質量と暴力性を内包した「より異形さを増した巨大な怪物」へと変貌を遂げていた。




