第三十六話:絶望の秒読み
怒りを感じていた。
目の前の敵に対してではない。他でもない、俺自身に対してだ。
理性を投げ打ち、激情に身を任せて奴に襲いかかろうとしたまさにその瞬間、俺の感情は奇妙なほど冷たく沈静化してしまった。
このまま正面から打ち合っても勝てない。俺の闘争本能が、瞬時にそう理解してしまったのだ。
たかがその程度の戦力差で、身体の動きが止まる程度の感情しか抱けないのか。セラフィナを傷つけられ、あまつさえ彼女を守るために命を懸けると決めたはずなのに。そんな己の底の浅さが、ひどく許せなかった。
魔力を全開にして放出するたび、頭の中に濃い霞がかかったように視界が暗くなる。
俺の身体に備わる『魔力生成器官』は、常人の出力を遥かに超える。その反面、魔力を放出する能力は人並み程度。そのいびつな構造ゆえに、高濃度の魔法を周囲にまき散らすことはできるが、魔力を発しようとすればするほど、排出しきれなかったエネルギーが体内に溜まり、己の精神を汚染していく。
セラフィナのあのふざけたシリンダーによる施術は、生成された魔力を強制的に吸い上げて圧縮することで、俺をこの呪縛から解放してくれていた。
俺は自らその枷を外した。あれは魔力の放出を抑制する。戦闘においては、手枷足枷をはめて戦うようなものだ。
全身を鈍い痛みが駆け巡るが、伝達系に無理やり流し込んだ魔力が、無遠慮に俺の身体を躍動させていた。
自身の限界が近いことは理解できている。気を抜けば、今すぐにでも血を吐いて倒れそうだった。だが、決めたのだ。限界を超えてでも、こいつをここで殺すと。
奴との戦いを通じて、一つ理解したことがある。
先ほどまで微かに感じられていた、奴の『人間性』が徐々に失われていることだ。
攻撃は単調で直線的になり、搦手を用いたフェイントにはすぐに引っかかる。知性が薄れ、より動物的な本能へと変貌しているのだ。直立二足歩行だった体勢はやがて前傾になり、バランスを取るように背骨の先から太い尻尾まで生え始めている。
相対する怪物は、もはやただの異形の獣だった。
——勝機を見た。
罠を仕掛けて動きを誘導すれば、上手く倒せるのではないか。
繊細な魔力操作は、昔からひどく苦手だった。
生まれた頃から膨大な魔力と暴走に悩まされてきたのだ。魔力を編み上げ、明確な『魔法』として形作ることなど、最近になってようやく習い始めたに過ぎない。
それこそ、セラフィナと出会い、あの鬱陶しくも温かい日常の中で、呪いの力から解放されてからのことだ。
ズキリ、と脳が割れるような酷い頭痛を感じた。
魔力汚染が、ついに頭の芯にまで進んできたらしい。
痛みを堪え、俺は手の中から液状に圧縮した自身の魔力を、そっと地面へと垂らした。
踏めば、たちどころに漆黒の棘状の魔力が伸びて、相手を串刺しにする原始的なトラップ魔法。
俺は怪物の直線的な攻撃を紙一重で避けつつ、罠を挟んで対面するように位置取りをした。チャンスは一度きりだ。
奴が飛び込んでくる。
一度でも奴がこの地面を踏めば、漆黒の茨が奴の急所を貫くだろう。
しかし——それが、致命的な誤算だった。
どうやら奴は、俺が思うよりもずっと知性的であったらしい。
奴は飛び込んではこなかった。深く屈み込み、両の足に尋常ではない力を溜めている。
脚部の筋肉が二倍ほどに異常膨張し、爆弾が破裂したかと見紛うほどの跳躍力で大地を蹴った。
否、もはや跳躍ではない。ただの『突進』だ。
奴は地面を蹴り、空中を垂直方向に向かって、俺の顔面へと一直線に飛んできた。
足元に施した罠など意に介さず、茨が伸びて貫く速度すらも、圧倒的なスピードで容易に置き去りにしたのだ。
脳裏を過るのは、コンマ数秒先の確実な死。
身体は動かない。防ぐ手立てもない。
(……まぁ、時間くらいは稼げただろう)
俺がここまで食い止めれば、セラフィナたちは上手く逃げ延びてくれるはずだ。あいつは悪運が強いから、きっとセバスチャンたちがなんとかしてくれる。
心残りがあるとすれば。
彼女と過ごす中で、明確に意識し始めていた己の感情を、一度も言葉にして伝えられなかったことだろうか。
(さよならだ、セラフィナ——)
「ごふっ!?」
死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
腹部に感じた衝撃は、予期していた怪物の凶刃によるものではなく、まったくあらぬ方向(真横)からもたらされた。
息が詰まり、俺の身体は真横へと大きく吹き飛ばされた。直後、俺が立っていた空間を怪物の巨体が弾丸のように通り過ぎ、背後の壁に激突する轟音が響いた。
俺の身に何が起きたのか。気がつくのに、ほんの数秒の時を要した。
鈍い衝突音が部屋に響き、もうもうと舞い上がる土煙の中、俺の腹のところに、もう一体の獣がのそりと這い出してきたのかとも思った。
地面を転がり、俺の腹のあたりにガッチリと抱きついて離れないそれは、よくよく見れば見知った姿——セラフィナだった。
「せ、セラフィナ……!?」
どうやったのかは分からない。だが、彼女が俺に向かって文字通り飛び込んできて、敵の攻撃の進路上から俺を突き飛ばしたらしい。
なぜお前がここにいる、と問うよりも先に、セラフィナが顔を上げ、泥だらけの顔で叫んだ。
「さぁ、もう安心ですよレオンハルト様!」
どこにそんな自信があるのだろうか。
今にも怪物が瓦礫の中から立ち上がり、再び俺たちを殺しに来るという絶体絶命の状況だというのに。
しかし、彼女のその揺るぎない、確信に満ちた極彩色の笑顔を前にして。
俺の心の中に渦巻いていた絶望も、魔力汚染による淀みも——なぜか、すべてが救われたような気がしたのだった。




