第三十五話:譲れぬ決意
冷たい遺跡の空気が、異常な熱と圧力を帯びてビリビリと震えていた。
空間の歪みを生み出しているのは、レオンハルトから放たれる漆黒の魔力だ。
レオンハルトは、セラフィナが苦労して取り付けていた魔力制御用の装置を引きちぎり、自らの理性を代償にして完全に枷を外していた。
彼の身体には、人体に備わる『魔力生成器官』が常人の七倍もの出力を誇るという異常な特質がある。その反面、魔力を外部へ『放出』する能力は常人の三倍程度にとどまっていた。
結果として、高濃度の魔法を周囲にまき散らすことはできるが、魔力を発しようとすればするほど、排出しきれなかったエネルギーが体内に蓄積してしまう。その行き場を失った過剰な魔力が、自身への強力な精神汚染と肉体の崩壊を引き起こすのだ。
これまでは、セラフィナの施術によって、生成器官で作られた魔力を強制的に吸い上げて圧縮し、超高濃度のエネルギーとして保存することで均衡を保っていた。
だが今、制御を失ったレオンハルトは、常人では不可能なほどの魔力を一撃ごとに放出しながらも、それ以上に爆発的な速度で魔力を生成し、魔法を使えば使うほど自らの身体と精神を深く蝕んでいた。
「ガアアアアアアアッ!」
レオンハルトの口から、獣のような咆哮が漏れる。
彼が床を蹴ると、硬い石畳がクレーターのように爆散し、漆黒の流星となって怪物——ククルタへと肉薄した。
怪物は刃と化した長大な腕を凄まじい速度で振り下ろすが、レオンハルトはそれを素手で弾き飛ばし、濃密な魔力を纏った拳を怪物の腹部に叩き込む。
ドガァァァァンッ!!
ククルタの巨体が弾け飛ぶように吹き飛び、壁を破壊する。だが、ククルタもすぐに体勢を立て直し、天井を蹴って三次元的な軌道で襲いかかった。
怪物の常軌を逸したスピードと膂力。それに、レオンハルトは完全に肉薄——いや、凌駕するほどの動きを見せていた。
漆黒の閃光と、異形の黒い影。
激突するたびに衝撃波が巻き起こり、空間そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
「……どっちも化け物みてぇだな……」
巻き込まれまいと後退し、いつの間にか壁際でうずくまるセラフィナの横まで逃げてきていたリタが、息を呑んで呟いた。
セバスチャンもまた、主君の壮絶な戦いぶりを前に、油断なく暗器を構えながらも顔を強張らせている。
「止めないと……」
セラフィナは、口元から血を滴らせながらも、ふらつく身体を必死に起こそうとした。腹部を強打された激痛で呼吸すらままならないが、その瞳には強い焦燥が浮かんでいる。
「待てよ、姉ちゃん! 無理すんな!」
リタが慌てて制止する。
「でも、あれならあのバケモノを倒せるんじゃないか? 閣下、めちゃくちゃ強いぜ!」
「……いえ、ダメなんです」
セラフィナは苦しげに顔を歪めながら、首を振った。
「レオンハルト様の魔力生成器官は常人よりも優れています……でも、放出能力はそれを賄えません。力を解放すればするほど、排出しきれない魔力が体内に逆流して、精神汚染を引き起こしてしまう……。私の施術は、それを強制的に吸い上げていたから成り立っていたんです」
セラフィナは壁に手をつき、這うようにして立ち上がる。
「とにかく行かないと……。あのままでは、いずれ彼の精神が壊れてしまいますわ」
「言ってどうするんだよ! あんなの、近づいただけで余波で木っ端微塵だぞ!」
リタが叫ぶが、セラフィナの意志は揺るがない。
彼女は血を吐きながらも、レオンハルトのもとへ向かおうと一歩を踏み出した。
だが、その細い腕を、セバスチャンの力強い手が掴んで引き留めた。
「……離してくださいな」
セラフィナが鋭い視線を向ける。
「……これは、レオンハルト様の意思です」
セバスチャンは、悲痛な色を瞳に滲ませながらも、毅然とした態度で首を横に振った。
「主が死んでも良いと仰るのですか!」
セラフィナが語気を強める。
「あなたを守るために選んだ道ですから、それを無碍にするわけにはいきません。私は、主の意思を第一といたします」
老執事の言葉には、主君への絶対の忠誠と、苦渋の決断が込められていた。
「現実問題として、あの戦いに割って入る方法はないだろう」
リタが二人の間に割って入る。
「近づく前に吹き飛ばされるのがオチだ。どうしようもねぇよ」
「……それなら、奥の手があります」
セラフィナは真っ直ぐにセバスチャンを見つめ返した。
「行かせる訳にはいきません。みすみすお二人を死なせる訳にはいかないのです」
セバスチャンが腕を引こうとする。
「死にに行くのではありません!」
セラフィナは腹部の激痛を堪え、一字一句に魂を込めて言い放った。
「一人が犠牲になり、私たちが生き残るのと……二人で協力して、この死地を全員で乗り切るの。どちらが良いですか?」
その真っ直ぐな問いに、セバスチャンはハッと息を呑んだ。
彼女の目には、絶望や悲壮感はない。あるのは、前世から培ってきたエンジニアとしての——目の前の『不具合』を絶対に解決して見せるという、狂気にも似た強靭な意志だけだった。
「……是非もない」
セバスチャンは小さく呟き、そして、深く問いかけた。
「レオンハルト様を、助けられるのですか」
「私が行けば、必ず」
セラフィナが力強く頷くと、セバスチャンはゆっくりと、セラフィナの腕から手を離した。
解放されたセラフィナは、そのまま振り返り、傍らに立つリタへと向き直った。
「リタ」
「な、なんだよ」
セラフィナは、いつもの不敵な——しかし、どこか決死の覚悟を秘めた微笑みを浮かべた。
「——あなたの力を借りますわよ」




