第三十二話:偽りの青空
暗く長い遺跡の通路を、三つの影が駆け抜けていた。
先頭を走るのは、右足を痛めた老執事セバスチャンを小脇に抱えたレオンハルト、その後ろをセラフィナが息を切らして追従している。
「閣下、おろしてください。リタ様をあのような場所に一人残しておくわけにはいきません。私一人でも戻ります」
抱えられたままのセバスチャンが、焦燥を滲ませて懇願する。しかし、レオンハルトは前を向いたまま首を横に振った。
「ダメだ。俺たちがいたところで、あの狭い空間での足手まといになるだけだ。それに、お前の足では今は満足に戦えまい」
「ですが……っ!」
「心配いりませんわ、セバスチャンさん!」
後ろを走るセラフィナが、余裕の笑みを浮かべて声を張り上げた。
「彼女に渡した『機動鉤爪射出機』には、いざという時のための奥の手が仕込んでありますの。きっと今頃は——」
シュパーンッ!!
セラフィナの言葉を遮るように、三人の背後の暗闇から鋭い破裂音が響いた。
頭上の石造りの天井に何かが深く突き刺さる音。直後、凄まじい速度で巻き取られるワイヤーの駆動音が通路に木霊した。
「よっ!」
暗闇の中から、放物線を描いて勢いよく宙を舞ってきた小さな影が、三人の目の前へと見事に着地した。リタだ。
「すげーな、この鉤爪!」
リタは右腕のガントレットを見つめ、興奮冷めやらぬ様子で目を輝かせた。
「思った通りに動けるし、巻き取りの出力がとんでもねぇ! あのバケモノ相手でも余裕で振り切れたぜ!」
「ふふん! 当然ですわ!」
セラフィナが鼻高々に胸を反らせる。
「私の設計したアンカーは、使用者の魔力波長と筋肉の微細な動きを読み取り、最適なタイミングで駆動する仕様になっていますの! 実はそれだけではありません、他にも機能が——」
ゴツッ!
「痛っ!?」
長々と機能解説を始めようとしたセラフィナの頭に、レオンハルトの容赦ない拳が落ちた。
「そもそも、お前が面白がってこっちの道へ来なければ、こんな命の危険に晒されることもなかったんだぞ。少しは反省しろ」
「もぉーっ! 叩かなくてもいいじゃありませんか!」
涙目で頭を押さえるセラフィナを見て、セバスチャンが深く安堵の息を吐いた。
「……リタ様、ご無事で何よりです」
「へへっ、そう簡単に死なねぇよ、俺は」
リタが親指で鼻の頭を擦って笑う。
合流を果たした四人は、警戒を緩めることなくさらに遺跡の奥へと足を踏み入れた。
進むにつれ、周囲の様子が明確に変わり始めていた。無機質だった壁面や床には、べったりと赤黒い血痕が付着し、折れた剣やひしゃげた槍といった武器が散乱している。激しい争いがあった痕跡だ。
核心に近づいている。四人は肌を刺すような緊張感の中で、確かな死の気配を悟っていた。
間もなく、通路の奥から眩い光が漏れ出しているのが見えた。
警戒しながらその光の先へと到達した四人は、目の前に広がった光景に言葉を失った。
地下深くへと下っていたはずだった。
しかし、眼前には青々と澄み渡る大空が広がり、足元には鮮やかな緑の野原が風に揺れている。頬を撫でる風には、地下の淀んだ空気とは程遠い、清涼な草花の匂いすら混じっていた。
「な……なんだ、ここは」
レオンハルトが呆然と呟く。セバスチャンもリタも、幻術にでもかけられたかのように目を見開いている。
さすがのセラフィナも、驚きを隠せなかった。
千年前の遺跡の地下に、このような自然環境をそのまま内包する技術など、彼女の前世の知識をもってしても理解の範疇を超えていた。
「……いえ、違いますわ」
セラフィナが目を細め、野原の「空」を見上げた。
よく見れば、青空の端のほうに不自然な切れ目や、空間が四角く歪むような微細なノイズが走っているのが見て取れた。
「ホログラム……? 壁面全体を巨大なスクリーンにして、野原の映像を投影していますのね……」
彼女の呟きに、他三人はその言葉の意味を理解できず首を傾げた。
しかし、ここが爽やかな雰囲気を味わえるピクニック会場などではないことは、すぐに嫌というほど理解させられた。
美しい野原の風景には、到底そぐわないものが散乱していた。
映像を投影しているはずの巨大な壁面には、本物の生々しい血肉がこびりついている。強い力で壁に押し付けられ、トマトのように潰れた人間の四肢が、無惨にへばりついていた。足元の青々とした草花には、ドス黒い血潮が放射状に飛び散り、至る所に原形をとどめていない肉片が撒き散らされている。
そして、その凄惨な空間の中央。
そこには、今まさに一人の王国の兵士の首を鷲掴みにして持ち上げている『怪物』が立っていた。
先ほど遭遇した蜘蛛のような怪物とは異なり、その外見は直立二足歩行をする人間に近かった。
しかし、全身は黒々とした硬質な外皮に覆われ、衣服は一切身につけていない。皮下脂肪など一切存在しないような、鋼のワイヤーを束ねたような異常に発達した筋骨隆々の肉体。背中には、鮫のヒレのように鋭く尖ったトゲが背骨に沿って並んでいる。
「が、あ……ッ、ひ、あぁぁ……!」
宙吊りにされ、首を掴まれた兵士は、気道を塞がれて声にならない悲鳴を上げながら、必死に怪物の太い腕を叩いていた。
怪物は感情の読めない顔のまま、まるで果実の熟し具合を確かめるように、徐々に、徐々に握る手に力を込めていく。
ミシッ……メキメキッ。
骨が軋む嫌な音が響き渡り——やがて、強度が閾値を超えた。
ぐしゃッ! と、生肉を潰す恐ろしい音と共に、兵士の首がひしゃげ、頸動脈から鮮血が噴水のように噴き出した。
ビクンと一度大きく跳ねた兵士の身体は、そのまま動かなくなった。
目を背けたくなるほどの残虐な光景。
だが、四人は視線を外すことができなかった。一瞬でも目を離せば、次はこの自分たちが同じように肉塊に変えられるという本能的な恐怖が、彼らをその場に釘付けにしていた。
怪物は、用済みとなった兵士の亡骸をゴミのように放り捨てた。
そして、まるで運動前のストレッチでもするかのように、バキッ、ボキッと自らの太い首を左右に捻り——その黒々とした顔を、ゆっくりと四人のほうへと向けた。
逃げられない。
圧倒的な殺意と死の気配を前に、レオンハルトたち四人が最悪の戦闘を覚悟した、その時だった。
「——リタか?」
怪物の口から紡がれたのは、獣の咆哮ではない。
低く、ひび割れたような声ではあったが、それは間違いなく人間の言葉による、名指しの問いかけであった。




