第三十話:変形する迷宮と、培養槽の悪夢
——ぎゃあああああああっ!!
遺跡の深淵から響き渡った、血を凍らせるような悲鳴。
レオンハルトたちは即座に立ち上がり、声のした方角へと入り組んだ石造りの通路を駆け出した。
「急ぐぞ! そう遠くないはずだ!」
レオンハルトが先頭を走り、手元の炎で暗闇を切り裂いていく。
しかし、幾つかの角を曲がったところで、道案内をしていたリタが急ブレーキをかけ、石畳にブーツを滑らせて立ち止まった。
「どうした、リタ?」
「おかしい……道が変わってる」
リタは信じられないという顔で、目の前の分岐点を指差した。
「ここは、ただの二股の道だったんだ。……なのに、道が一つ増えてる! 三叉路になってるんだよ!」
「道が増えただと? 千年前の遺跡の構造が、自律的に変化しているとでも言うのか」
セバスチャンが周囲の壁を警戒深く見渡す。
その時、本来あるはずのない「三つ目の通路」の奥から、再びくぐもった悲鳴と、ズルズルと何か重いものを引きずるような不気味な音が響いてきた。
「……ここから先は異常だ。危険を選ぶ必要はない」
レオンハルトが厳しい表情で決断を下した。
「仕方ない、体勢を立て直そう。リタ、元来た道を戻るルートを先導しろ」
「あ、ああ、分かった!」
「賢明なご判断かと存じます、閣下」
セバスチャンも頷き、三人が本来進むべき道へと踵を返そうとした、まさにその時だった。
タタタタタッ! と、三人の視界の端を、優雅なドレスの裾を翻して駆け抜けていく軽快な影があった。
セラフィナである。
「セラフィナ!?」
驚いたレオンハルトがたまらず声をかける。
セラフィナは、新しくできた未知の通路の入り口でピタリと立ち止まり、振り返った。
「あら、皆様はいらっしゃいませんの?」
「どういうつもりだ! そっちは危険だと言っただろう!」
薄暗い魔導灯の光の下で、セラフィナは極彩色の歓喜に満ちた——端的に言えば、狂気を孕んだ満面の笑みを浮かべてみせた。
「こっちのほうが、心がざわつきますの。だって、千年の時を経て物理的に地形を変化させる未知のギミックが作動しているんですのよ!? ああ、壁の裏にどんな巨大な油圧シリンダーと歯車が隠されているのかしら! きっと、とても面白いものがありますわよ!!」
もはや彼女の頭からは、聞こえてきた悲鳴の主の安否などすっかり抜け落ちていた。エンジニアとしての異常な好奇心が、危険信号を完全に塗り潰してしまったのだ。
「待っててね、私の未知なる駆動系たちーっ!」
「おい、待てセラフィナ! 戻れ!!」
制止の声を華麗に無視し、セラフィナは地下深くへと続くスロープを嬉々として駆け下りていった。
レオンハルトは頭を抱えながらも、彼女を追うべく新たな通路へと足を踏み入れるしかなかった。
***
地下へと続く不気味な通路をしばらく進むと、むせ返るような鉄錆の匂いが濃くなった。
「……セラフィナ、止まれ。誰か倒れているぞ」
追いついたレオンハルトが、セラフィナの肩を掴んで静止させた。
通路の壁にもたれかかるようにして、一人の男が倒れていた。息も絶え絶えで、もはや事切れる寸前の状態だ。
レオンハルトが素早く駆け寄り、片膝をついて男の身体を改める。
「この甲冑の紋章……王国の兵士か。なぜこんなところに」
しかし、その身体に刻まれていたのは、人間同士の戦闘で生じるような剣や槍の傷ではなかった。
硬い甲冑ごとごっそりと肉を抉り取られたような、鋭利で巨大な切傷。まるで、規格外の凶悪な獣の爪で引き裂かれたような無惨な有様だった。
「おい、しっかりしろ。何があった」
レオンハルトが声をかけるが、兵士の口からは血の泡が漏れるだけで、言葉にならない。瞳の焦点はすでに虚空を彷徨い、命の灯火が消えようとしていた。
もはや助からない。そう悟ったレオンハルトは、かつて国を守る将であった者としての優しさを滲ませて、静かに尋ねた。
「……何か、言い残すことはないか。俺が引き受けよう」
その言葉に反応したのか、兵士はわずかに指先を動かし、震える手で血塗れた胸のポケットに軽く触れた。
そして、ふっと小さく息を吐き、動かなくなった。
レオンハルトは無言のまま、兵士のポケットから血に染まった小さな銀のロケットペンダントを取り出した。蓋を開くと、そこにはあどけない笑顔を浮かべる幼い少女の写真が収められていた。
「……約束しよう」
レオンハルトはペンダントをしっかりと握りしめ、自らの懐へとしまった。
兵士を無残に葬った未知の脅威が、この先に潜んでいる。四人は無言で頷き合い、さらに通路の奥へと足を踏み入れた。
***
やがてたどり着いたのは、これまでの石造りの遺跡とは明らかに次元の異なる、熱を帯びて煙を吐く金属と強化ガラスで構築された広大な区画だった。
「な、なんだここは……?」
レオンハルト、セバスチャン、リタの三人は、得体の知れない光景に息を呑んだ。
薄暗い部屋の中央や壁沿いに、人一人がすっぽりと収まるほどの巨大な培養炉が、まるで機械の森のように林立していたのだ。
分厚いガラス円筒の内部は、発光する不気味な培養液で満たされており、底部に繋がれた極太のチューブから絶え間なく空気が吹き込まれ、ボコボコと重い泡を立てている。
得体の知れない物体に、警戒心をあらわにする三人。
セラフィナのみが平静な様子だった。
「まるで実験施設ですわね。古代ゼニス帝国は、こんな地下の奥底で生物兵器でも作っていたのかしら」
セラフィナが呟き、興味津々で最も近くにあったカプセルへと歩み寄った。
「おいセラフィナ、迂闊に近づくな。何が起きるか分からないぞ」
「大丈夫ですわ、このガラスの強度は……え?」
カプセルの表面に顔を近づけた、その時だった。
濁った緑色の液体の奥深くで、人間ではない『異形の影』がヌルリと蠢いたのが見えた。
「ひっ……!」
思わず短い悲鳴を上げ、セラフィナは数歩後ずさった。
いつもなら機械の構造に興奮する彼女でも、得体の知れない生体な代物は完全に専門外である。
「どうした、セラフィナ!」
「な、中に……何か怪物がいましたわ」
セラフィナが答えた瞬間。
ピチャッ……ヒタ……ヒタ……と。
静まり返った部屋のどこかから、湿った嫌な足音が響き始めた。
極度の緊張が走り、四人は無意識のうちに背中合わせになり、円陣を組んで死角をなくすように立った。
「どこだ……気配が読めん」
レオンハルトが両手に漆黒の魔力を練り上げる。セバスチャンも懐から暗器を抜き放ち、暗闇を鋭く睨みつけた。
だが、林立するカプセルの隙間を見渡しても、動くものは何一つ見つからない。
ポタリ。
ふいに、リタの肩に生温かい液体が落ちてきた。
「なんだ、コレ……」
リタが指で触れると、それは糸を引く、ひどく粘り気のある体液だった。鼻を突き刺すような、肉が腐ったような強烈な悪臭が漂う。
どこから落ちてきたのか。
嫌な予感に急き立てられ、リタが恐る恐る頭上を見上げた。
部屋の天井、太い送気パイプに張り付くようにして、『それ』はいた。
滑らかな外骨格に覆われた、異常に細長い四肢。光を反射する漆黒の体表。
のっぺりとした流線型の頭部には目玉が存在せず、代わりに鋭い牙が何重にも生え揃った巨大な口腔が、ダラダラと凶悪な粘液を垂らしながらリタを見下ろしていた。
目が合った——いや、絶対的な捕食者の視線が交差した、その瞬間。
「ぎゃああああああああっ!!」
リタが絶望の悲鳴を上げる。
それに呼応するように、天井に張り付いた異形の怪物が、金属を引っ掻くような鼓膜を劈く金切り声を上げた。




