第9話 活躍の場
宿屋での生活が始まって数日が過ぎた。
羽琉は毎日忙しかった。
そして毎日失敗していた。
「羽琉ちゃん!皿洗い頼むよ!」
「はーい!」
元気よく返事をして、十分も経たないうちに。
がしゃん。
宿中に音が響く。
「ごめんなさい!」
「けがはない?なんで割れるんだい!?」
おかみさんが頭を抱えた。
羽琉にも分からなかった。
丁寧に洗っていたはずなのに、なぜか皿が手から滑るのだ。
―
翌日は洗濯だった。
「干しておいておくれ」
「任せて!」
自信満々に答えた結果。
シーツが風に取られて宿の屋根へ飛んでいった。
「なんでだい!?」
「ごめんなさい、風が強かったのかも……」
「みんな同じ風の中で洗濯してるんだよ!」
羽琉はがっくりと肩を落とした。
―
一方で。
架は違った。
薪割り。
荷物運び。
掃除。
料理。
頼まれたことは何でもこなした。
「兄ちゃんすごいな」
「慣れているので」
そう言って架は黙々と働いた。
羽琉は少し離れた場所からその姿を見ていた。
自分は失敗ばかり。
架は何でもできる。
それが少しだけ悔しかった。
助けてくれたおかみさんと架の役に立ちたいのに。
いつも助けられてばかりだった。
―
ある日の夜だった。
酒場の客が帰り、宿が静かになった頃。
帳場の奥から唸り声が聞こえてきた。
「うーん……」
おかみさんだった。
机いっぱいに紙を広げている。
「どうしたの?」
羽琉が覗き込んだ。
「帳簿だよ」
おかみさんは疲れた顔でため息を吐いた。
「旦那が亡くなってから全部私がやってるんだけどねぇ」
羽琉は少しだけ言葉に詰まった。それから、机の上に視線を落とした。
数字がびっしり並んでいた。
売上。
仕入れ。
支払い。
見ただけで頭が痛くなりそうだった。
「数字苦手なんだよ」
おかみさんが眉を下げた。
羽琉は帳簿を手に取った。
一枚。
また一枚。
静かにページをめくる。
おかみさんは首を傾げた。
「分かるのかい?」
「うん」
羽琉は当たり前のように答えた。
天界では王女教育を受けていた。
歴史も。
政治も。
財政も。
数字を見ることは苦ではない。
むしろ得意だった。
数字を見ることは苦ではない。
むしろ得意だった。
「ここ、計算違うよ」
おかみさんが固まった。
「え?」
「あとこれも」
羽琉は別のページを指差した。
「この仕入れ、二回計上されてる」
「え?」
「こっちはたぶん支払い漏れ」
「え……」
おかみさんの声がだんだん小さくなった。
羽琉は首を傾げた。
「どうしたの?」
「なんで分かるんだい……」
羽琉は少し考えた。
「見たら分かるよ?」
おかみさんは机に突っ伏した。
「天才かい……」
―
それから二人で帳簿を整理した。
気づけば夜は更けていた。
最後の帳簿を閉じた時。
おかみさんが静かに言った。
「助かったよ」
羽琉は顔を上げた。
おかみさんは笑っていた。
いつもの豪快な笑顔ではない。
少しだけ優しい笑顔だった。
「これは羽琉にしかできない仕事だ」
羽琉は言葉を失った。
宿に来てから。
失敗ばかりだった。
皿を割って。
洗濯を飛ばして。
何度も迷惑をかけた。
だから。
その言葉が思った以上に嬉しかった。
「……うん、まかせて」
小さく頷いた。
胸の奥が少しだけ温かかった。
―
その夜。
部屋へ戻った羽琉は窓辺に座る架を見つけた。
「架」
「はい」
羽琉は少しだけ照れながら笑った。
「私ね」
架が顔を上げた。
羽琉は嬉しそうに続けた。
「役に立てた!」
静かな沈黙が落ちた。
それから。
架は少しだけ微笑んだ。
「知っていました」
羽琉は目を丸くした。
「なんで?」
「姫様ですから」
それだけだった。
けれど羽琉は少しだけ笑った。
窓の外では雪が静かに降っていた。
人間界へ落とされたあの日とは違う。
今は少しだけ。
この人間界が好きになり始めていた。




