第8話 おかみさん
宿屋に着いた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
大きな木造の建物は古かったが、窓から漏れる灯りは温かかった。
「さあ、お入り」
おかみさんは戸を開けた。
暖かな空気が流れ出てきた。
羽琉は思わず目を細めた。
人間界に来てから初めて感じる、本当の意味での温もりだった。
―
「ほらほら。そんなところで突っ立ってないで」
おかみさんに背中を押される。
羽琉と架は顔を見合わせながら中へ入った。
―
宿の中は賑やかだった。
食事をしている客。
談笑している村人。
天界では見たことのない光景。
羽琉はきょろきょろと辺りを見回した。
「あんた怪我してるんだろう、シャワーを浴びてきな」
ふと服に目をやると、血の跡が残っていた。
「……いいんですか?」
「いいに決まってるだろ、服はあるのかい?」
「……ないです」
「私の若いころのお古でいいかい?」
「いいんですか?」
「もう着れないからね、もらってやってくれよ」
おかみさんが愉快に笑った。
温かい笑顔に、羽琉もつられて安心した。
―
「それで」
おかみさんが腕を組んだ。
「お金は?」
羽琉と架が固まった。
沈黙。
「……」
「……」
おかみさんが察した。
「ないんだね?」
羽琉は素直に頷いた。
「ないです」
「即答かい」
おかみさんが頭を抱えた。
「でも!」
羽琉は慌てて立ち上がった。
「働きます!」
「は?」
「お金はないけど働けます!」
「何ができるんだい?」
「やろうと思えば何でもやります」
架は迷いなく答えた。
「頼もしいじゃないか」
おかみさんが感心したように頷いた。
その隣で羽琉は黙っていた。
「……姫様」
架が静かに口を開いた。
羽琉は考えた。
考えた。
考えた。
「……」
「……」
「姫様」
架が助け舟を出した。
「姫様は料理はできません」
「うん」
「掃除もあまり得意ではありません」
「うん」
「洗濯も怪しいです」
「うん?」
「ですが歌と楽器は上手です」
おかみさんが目を輝かせた。
おかみさんの視線が、棚の横に飾ってあったハープへ向く。
「じゃあこれでも弾いてみるかい?」
羽琉はハープを受け取った。
「……うん、これなら自信ある」
羽琉は弦に指を置いた。
静かに音が鳴った。
その瞬間。
宿の中の話し声が止まった。
誰も頼んでいないのに。
自然と。
音に耳を傾けていた。
羽琉の指が弦をなぞる。
透き通るような音だった。
どこか懐かしくて。
どこか切なくて。
冬の空気によく似た音。
そして。
羽琉は歌った。
言葉の意味は誰にも分からない。
天界の古い歌だった。
それでも。
不思議と伝わる。
優しさも。
寂しさも。
愛しさも。
全部。
歌い終わった時。
誰もすぐには拍手できなかった。
静寂だけが残る。
羽琉は少し不安になった。
もしかして失敗しただろうか。
そう思った瞬間。
一人が拍手をした。
それをきっかけに。
次々と拍手が広がる。
「嬢ちゃんすげえなあ!」
「きれいだ」
止まらぬ拍手。
「えへへ」
恥ずかしそうに笑う羽琉。
「これはすごいねえ、看板娘にでもなってもらおうか」
おかみさんは嬉しそうに言った。
羽琉の顔が明るくなった。
「いいんですか!?」
「ただし」
おかみさんは指を立てた。
「ちゃんと働くこと」
「働きます!」
「私の言うことを聞くこと」
「聞きます!」
「元気だねぇ」
おかみさんは笑った。
「二階の空き部屋を使いな」
羽琉は目を丸くした。
部屋。
帰る場所。
もう失ったと思っていたもの。
「……ありがとうございます」
小さく呟いた。
おかみさんは気づかないふりをした。
「ほら行った行った」
追い払うように手を振った。
―
その夜。
二階の小さな部屋。
羽琉は窓から村を見下ろしていた。
灯りが見える。
人の声が聞こえる。
暖かい匂いがする。
「架」
「はい」
「ここ好きかも」
架は少しだけ微笑んだ。
「そうですね」
まだ一日も経っていない。
それでも。
追放された王女と、その護衛は。
ようやく帰る場所を見つけたのだった。




