第4話 空腹
暖炉の火がぱちりと音を立てる。橙色の光が壁を照らし、外で唸る風の音を遠ざけていた。
羽琉は泣きつかれたのか、毛布に包まったまま炎をぼんやりと見つめていた。不思議だった。火など何度も見たことがある。けれどこんなにも温かいと思ったことはなかった。天界に寒さはない。だから温もりのありがたさも知らなかった。
「架、ここが痛い、ぐーってなって苦しい。」
羽琉はお腹をさする。傷はない。
架は少し考え、鍋に火を入れた。
「姫様。」
背後から声がした。振り返ると架が木の器を差し出している。白い湯気が立っていた。
「何?」
「スープです。」
「すーぷ。」
聞き慣れない言葉のように羽琉は繰り返した。架がわずかに眉を寄せた。
「食べ物です。」
「知ってるよ。」
「そうですか。」
「知らないと思った?」
「思いました。」
「失礼。」
「事実ですので。」
羽琉は器を受け取った。じんわりとした熱が手に伝わる。熱い。けれど離したくなかった。
恐る恐る口をつける。野菜と塩だけの簡単なスープだった。けれど。
「……おいしい。」
思わず呟いた。架が小さく目を見開く。
「そうですか。」
「うん。」
羽琉はもう一口飲んだ。また一口。気づけば夢中になっていた。空っぽになった器を見て、自分でも驚く。
「まだありますよ。」
「本当?」
「ええ。」
「もっとほしい。」
「はいはい。」
架が鍋を持ってくる。その様子を見て羽琉は少し笑った。
二杯目を飲み終えた時だった。
気づいたらまた泣いていた。
「姫様?」
架の声が遠くに聞こえた。
「架…。」
羽琉は言った。
「お願い、一緒にいて。」
架はさっきと違い、じっと羽琉の目を見て言った。
「私は姫様の護衛ですので、ずっと一緒にいます。」
羽琉自身にも、わからなかった。スープが美味しかったから?温かかったから?それとも今日一日、全部が、今になってやっと追いついてきたから?
天界にいた頃は、こんな風に何度も泣いたことがなかった。感情はいつも整っていた。次期女王として、乱れてはいけなかった。
でも今は——何かが、ほどけていた。
張り詰めていた何かが、ゆっくりと、ほどけていった。
架はただ隣にいた。何も聞かなかった。ただそこにいた。
それだけで、よかった。
しばらくして、小屋は静かになった。吹雪の音だけが聞こえる。暖炉の火も小さくなり始めていた。
羽琉は目を拭って、毛布にくるまったまま窓の外を見ていた。白い雪。どこまでも続く闇。そして帰る場所のない世界。
「架。」
「はい。」
「私、怖い。」
初めて口にした言葉だった。裁判の時も。翼を失った時も。空から落とされた時も。言わなかった言葉。
架は薪をくべる手を止めた。
「何がですか。」
羽琉は少し考える。何が怖いのか自分でもよく分からなかった。寒さか。孤独か。未来か。それとも。
「死ぬのが。」
言った瞬間、自分で驚いた。天使だった頃、一度も考えたことのない言葉だった。
長い沈黙が落ちる。
「そうですね。」
架は静かに答えた。
「人間は死にます。」
羽琉は唇を尖らせた。
「慰める気ある?」
「ありません。」
「ひどい。」
「ですが。」
架は炎を見つめたまま言った。
「私も怖いですよ。」
羽琉は目を瞬いた。
「そうなの?」
「ええ。」
「何が?」
今度は架が少しだけ考えた。
「姫様を守れなくなることが。」
幼い頃から、ずっとそうだった。
転べば手を差し伸べ。
泣けば隣にいて。
怒られれば、一緒に頭を下げた。
いつだって、当たり前のように隣にいた。
羽琉は視線を落とした。膝の上に小さな白い羽が乗っている。翼を失った時に残った一枚。それを指先でそっと撫でた。
「架。」
「はい。」
「ありがとう。」
その言葉に、架は少しだけ困ったような顔をした。
「どうしたの?」
「慣れていませんので。」
「何が?」
「姫様がしおらしいのが。」
羽琉は毛布を投げた。
「失礼!」
避ける架。毛布が顔に当たる。
吹雪の夜だった。全てを失った夜だった。けれど。暖炉の火があった。スープがあった。そして隣には架がいた。
だからその夜だけは、少しだけ。本当に少しだけ。
羽琉は目を閉じた。
暖炉の温もりと、隣にいる架の気配を感じながら。
今だけは。
本当に少しだけ。
人間を助けたことを後悔しなくてよかったと、そう思った。




