第2話 雪に落ちた王女
雪は、赦しに似ていると思った。
白く、静かで、全てを同じ色に包んでしまう。
罪も、痛みも、誇りさえも——雪の下では、何もかもが同じ重さになる。
羽琉は静かに雪を踏みしめる。
裸足だった。冷たさは感じなかった。感じる必要が、もうなかった。
背中が、軽かった。
翼を失った背中は、呆気ないほど軽くて、それがかえって全てを実感させた。
天界の裁きの間で。
一枚、また一枚と翼が断ち切られていく。
それでも羽琉はずっと、あの子のことだけを考えていた。
雪崩が街を飲み込もうとしていたあの夜。雲の切れ間から見えた、小さな影。それでも折れずに雪の中を走り続けていた。名前も知らない、声も知らない、一度も言葉を交わしたことのない人間の女の子。
それでも——どうしても、目が離せなかった。
母を早くに亡くした羽琉には、わかってしまったのかもしれない。あの必死さが、孤独が、それでも前を向いて走り続ける姿が。
だから迷わなかった。掟が、秩序が、次期女王としての責務が——あの瞬間、全てが遠かった。ただ、消えてほしくなかった。たったそれだけのことで、羽琉は全てを手放した。
そしてそれを、間違いだとは思えなかった。
今も。
足が止まった。
ふと、空を見上げた。雲が低く垂れこめて、天界はどこにも見えない。当たり前だ。もうあそこは——
雪を踏む音が、近づいてきた。
速い足音だった。乱れていた。まるでずっと走り続けてきたような。
羽琉は振り返らなかった。振り返らなくても、わかった。地上に、自分を追ってこられる者は一人しかいない。
「………架。」
振り返る。
そこには息を切らした幼馴染の顔があった。
でも架は、何も言わなかった。
羽琉の顔を見た瞬間——いつも静かな、感情を表に出さないあの目が、一瞬だけ大きく開いた。
羽琉には見えなかった。翼の根元から流れた血が、金色の髪を、白い服を、赤く染めていることも。人間と変わらぬ姿になったことも。
架の目が、羽琉の背中から顔へ戻った。
それからすぐに、何事もなかったように外套を羽琉の肩に押しつけた。でも、その手が——ほんの少しだけ、震えていた。
「……命令違反だよ。」
羽琉は言った。
「…知ってます。」
架の声は静かだった。いつも通りだった。でも羽琉には気づけなかった。架がその一言を言うまでに、息を整えるのに少しだけ時間がかかっていたことを。
「あなたまで追放されるわよ。」
「知ってます。」
「……馬鹿。」
羽琉は外套をきつく握った。温かかった。架の体温が、まだ残っていた。
「……なんで来たの。」
声が少しだけ震えた。
怒っているわけではない。
追い返したいわけでもない。
ただ。
ひとりで落ちていく覚悟をしていたから。
本当は——誰かに来てほしかった。
架はしばらく黙っていた。雪が二人の肩に積もった。
「姫様が行くところに、俺がいない理由がないので」
それだけだった。
言葉より先に、いつだって行動が来る人だった。ずっと前から、そういう人だった。
羽琉は空を見上げた。雪が静かに降り続けていた。背中の痛みは、まだそこにあった。でも不思議と、さっきより遠くなった気がした。




