第16話 自覚
「困ったねぇ……」
ある夜だった。
客が帰り、宿が静かになった頃。
おかみさんは帳場で頭を抱えていた。
羽琉は帳簿を書いていた手を止める。
「どうしたの?」
「宿の経営さ」
おかみさんがため息を吐いた。
「客は来るんだけどねぇ。なんだかお金が残らないんだよ」
羽琉はこれまで帳簿をつけるだけだった。
経営は宿の主人であるおかみさんの仕事。
口を出すつもりはなかった。
だが。
帳簿をすべて見返した。
一枚。
また一枚。
静かに目を通していく。
その様子をルカが覗き込む。
「わかるの?」
「うん」
当然のように答える。
しばらくして。
羽琉は顔を上げた。
「原因わかった」
宿に沈黙が落ちる。
「え?」
おかみさんが目を丸くする。
「この料理、人気だけど利益ほとんどないよ」
羽琉が指をさす。
「あとこっちも」
「え?」
「値段は昔のままなのに仕入れは上がってる」
「え?」
ルカも驚いていた。
零は湯呑みを持ったまま苦笑する。
「さすがだな」
羽琉は紙を引き寄せた。
「料金を少し見直して」
「この料理は季節限定にして」
「空き部屋は旅人向けに宣伝した方がいいと思う」
次々と案が出てくる。
ルカがぽかんと口を開いた。
「すげぇ……」
「羽琉ですので」
架だけが平然としていた。
まるで当たり前のことのように。
それから数か月後。
宿は見違えるほど繁盛していた。
おかみさんは嬉しそうに帳簿を抱えている。
「本当に助かったよ」
羽琉は目を輝かせた。
「褒められた!」
「そこかい!」
ルカが笑う。
零も少しだけ口元を緩めた。
村人たちも噂していた。
羽琉は頭が良い。
羽琉は優しい。
羽琉は誰の話もちゃんと聞く。
「将来すごい人になるんだろうな」
そんな声も聞こえるようになった。
けれど。
その日の夜。
縁側で。
「架ー」
「なんですか」
「髪結んで」
架は黙った。
昼間まで宿の経営改善をしていた人物とは思えない。
「自分でできるようになったんじゃないですか。」
「やだ。」
「なぜですか。」
「架の方が上手だから。」
零が湯呑みを置く。
「また甘えてるよ。」
ルカが笑う。
「いいじゃん!」
羽琉が頬を膨らませる。
架は頼られるのに少しだけ嬉しそうにして後ろへ回った。
慣れた手つきで髪をまとめる。
羽琉は満足そうだった。
そんな二人を見て、ルカがにやにやと笑う。
「夫婦みたいだな」
次の瞬間。
羽琉と架が同時に固まった。
‐
そんなある日。
村の八百屋だった。
「羽琉ちゃん」
若い店主が笑う。
「今日はおまけしとくよ」
「ありがとう!」
羽琉は嬉しそうに笑った。
店主も笑う。
それを少し離れた場所から見ていたルカがぽつりと言った。
「なあ」
架が顔を上げる。
「なんですか」
ルカは面白そうに笑った。
「羽琉、あいつに気に入られてるぞ」
架は無言だった。
ただ。
少しだけ眉が動いた。
「そうですか」
「絶対好きだろあれ」
「そうですか」
「気になる?」
「別に」
ルカは笑った。
気にしている顔だった。
‐
数日後。
事件は起きた。
羽琉が真っ赤な顔で宿へ戻ってきた。
「架!」
「どうしました?」
「どうしよう!」
架が顔を上げる。
羽琉は慌てていた。
「告白された!」
時間が止まった。
ルカが吹き出した。
零がお茶を飲む。
おかみさんが目を丸くする。
架だけが無言だった。
長い沈黙。
そして。
「……なんと返したんですか。」
静かな声だった。
「まだ何も言ってない。」
羽琉は困った顔をする。
「どうしたらいいかわからなくて。」
架は視線を落とした。
胸の奥がざわつく。
嫌だった。
理由はわからない。
ただ。
嫌だった。
架は小さく息を飲んだ。
「断りましたか。」
「まだだよ!?」
羽琉が驚く。
架はそれ以上何も言わなかった。
けれど。
明らかに機嫌が悪い。
その夜。
眠れなかった。
窓の外を見つめる。
考えるのは羽琉のことばかりだった。
もし返事をしたら。
もし誰かを選んだら。
もしこの宿を出て行ったら。
胸が苦しくなる。
その時。
ようやく気付いた。
護衛だからじゃない。
責任だからでもない。
義務だからでもない。
ずっと前から。
追放されたあの日から。
いや。
もっとずっと前から。
自分は。
羽琉の隣にいたかった。
誰にも譲りたくないと思うくらいに。
架は静かに目を閉じた。
そして初めて認める。
――ああ。
俺は。
羽琉が好きなんだ。
けれど、その想いを伝えるつもりは、まだなかった。
夏の夜風が静かに吹いていた。




