第11話 名前
宿屋で働き始めてしばらく経った頃だった。
昼時の食堂。
客で賑わう中、羽琉は注文を取っていた。
「羽琉ちゃん、水おかわり!」
「はーい!」
元気よく返事をした。
その時。
「姫様」
架の声が響いた。
食堂が一瞬静かになった。
村人たちが首を傾げた。
「姫様?」
「なんだいそれ」
「羽琉ちゃん偉い人なのか?」
羽琉と架が固まった。
おかみさんは額を押さえた。
―
その日の営業後。
おかみさんが座るなり言った。
「だめだねえ」
「何がですか」
架は真面目に聞き返した。
「姫様だよ」
おかみさんが即答した。
「村で姫様なんて呼んでたら目立つだろう」
架は少し黙った。
「ですが姫様は姫様です」
「だからそれがだめなんだよねえ」
おかみさんが悩んだ。
羽琉は隣で苦笑した。
「たしかに」
「姫様」
「うん?」
「たしかにではありません」
「でも目立つよ?」
架は黙った。
それでも納得していない顔だった。
おかみさんがため息をついた。
「じゃあ名前で呼びな」
「無理です」
即答だった。
「早いね!?」
「無理です」
二回目だった。
羽琉が吹き出した。
おかみさんは頭を抱えた。
「なんでだい」
「今さらです」
珍しく困った顔で架が言った。
「十数年呼んできましたので」
羽琉は少し考えた。
それから。
「羽琉」
架が固まった。
「え?」
「羽琉でいいよ」
「……」
「命令っていったほうがいい?呼びやすい?」
羽琉が首を傾げた。
架は固まった。
羽琉が命令することなど滅多にない。
だからこそ困る。
架は人生最大級に困った顔をした。
おかみさんが笑いを堪えていた。
「ほら、呼んでみな」
「……」
「架」
羽琉が覗き込んだ。
架はしばらく黙った。
呼び慣れた名前のはずなのに。
なぜか今さら難しい。
「……羽琉」
絞り出すように、小さな声だった。
羽琉はぱっと笑顔になった。
「うん!」
その笑顔を見た瞬間。
架は何も言えなくなった。
おかみさんは満足そうに頷いた。
「決まりだね」
「……」
「返事は?」
しばらく沈黙した後。
架は観念したように息を吐いて、小さく頷いた。
羽琉が嬉しそうに笑った。
「うれしい、架!」
架は少しだけ視線を逸らした。
耳がほんのり赤かった。
―
その日から。
宿屋では姫様ではなく。
羽琉になった。




