旅立ちの予兆
夕食を終えた食卓には、温かい湯気の名残と、三人の声がゆっくりと溶けていくような静けさが漂っていた。
興奮の余韻を隠しきれない祖父が、身を乗り出す。
「いやあ、攻撃魔法はすごかったのお。だがソラト、お前が本気を出したら、あんなもんじゃないんじゃろ」
ソラトは素直にうなずいた。
「うん。もっと魔力を込めると、まだまだ強力になる感じがするよ」
「その“魔力を込める”ってのは、どんな感じなんじゃ」
問いが終わるより早く、ソラトは答えていた。
「イメージだよ。魔力の流れを頭の中で描くんだ。川みたいに、どこからどこへ流すかをはっきりさせる感じ」
「なるほどのう。考えたら実際に現れる……そういうもんか」
「うん。でも魔法はね、それぞれ魔術式があって、それを頭の中で組み上げないと発動しないんだよ」
祖父は懐かしそうに笑う。
「それは昔、わしも魔導書に書いてある魔術式を頭の中で描いたり、地面に書いたり、詠唱も試したりしたんじゃ。
……まあ、発動はせんかったがのう」
肩をすくめる祖父に、ソラトも父も思わず笑った。
「そりゃ魔力がないから当たり前なんじゃが、試さずにはおれんでのう」
その言葉に、父の手が一瞬だけ止まった。
自分も同じことをした記憶が、胸の奥で静かに揺れたのだ。
「……そういえば、ソラトは頭の中で思い浮かべるだけで魔法を発動させていたな」
父の声には、驚きと誇らしさ、そしてほんのわずかな距離が混じっていた。
「そうだけど……もしかして普通は式を書いたり、詠唱したりするのか」
「ああ、その通りだ。普通の魔法使いは、頭で描く魔術式を補助するために詠唱を唱えるんだ」
父は少し間を置き、ソラトを見つめる。
「だが、お前は詠唱なしで魔法を発動している。これは……かなりの魔法センスだ」
祖父が目を丸くし、父は信じられないような、しかし誇らしげな表情を浮かべた。
ソラトの胸に、ふと疑問が浮かぶ。
「でも……なんでぼくに魔力があるんだろう。それに、ハーフエルフっていったい何なんだ……」
父は静かに答えた。
「ハーフエルフというのはな、遠い昔にエルフと交わった人間の血が、何世代も経って突然現れる現象だと言われている。
ただ……」
父はソラトの目をまっすぐに見つめる。
「おれは、お前を見ていて思ったんだが……ただ“魔力を持って生まれた人間”なんだと感じる」
続けて、穏やかな声で言う。
「それに、ハーフエルフはそんなに特別な存在じゃないぞ。街に行けば大勢いる。
グランツの街なんて、十人に一人はハーフエルフだと聞いたことがある」
祖父も頷く。
「そうじゃそうじゃ。わしがグランツに行ったときも、よう見かけたわ。
ソラトよりもっと耳がとんがってて、見てすぐ分かったぞ」
祖父は自分の耳をつまんで誇張してみせ、ソラトは思わず笑った。
「そうなんだ。この村にいないから珍しいのかと思ったよ」
父は肩をすくめる。
「ソラトが生まれる前は、このリベッタ村にもハーフエルフはたまに誕生してたよ。
でも大人になると、みんな街に行ってしまうんだ」
「ええ、どうして」
「魔法の勉強をしに行く者、魔導具の工房に働きに行く者……理由はいろいろさ。
リベッタ村は結界に守られた平和な村だが、逆に退屈でもあるんだろう」
ソラトはさらに問いを重ねる。
「魔法の勉強って学校でもあるの? それにその魔導具って…」
「グランツには魔法の学校があるぞ。ハーフエルフが魔法の基礎を学んでいる。
いくら魔力があっても、魔導書を読んでいきなり魔法が使えるわけじゃないからな」
父はソラトを見つめ、静かに言った。
「だからお前は規格外の魔法使いだよ」
呼吸するように魔法を使っていた自分が“普通ではない”と知り、ソラトの胸がふわりと揺れた。
「それで、その魔導具って何?」
父はさらに、説明を続ける。
「魔導具は魔力で動く道具のことだ。昔は剣や盾に魔力を込めると、その武器に宿った魔法が発動したんだ」
「それって……魔法使い用の武器なの?」
「昔はそうだった。
でもな、百年ほど前にグランツの工房で“魔石”を使う魔導具が作られてから、少し変わったんだ」
「魔石……?」
「魔力がぎゅっと詰まった石だ。
これを道具にセットするだけで、魔法が使えない人間でも魔法の効果を扱える。
今じゃ明かりをつけたり、物を温めたり、部屋をきれいにしたり……服を洗う魔導具まである」
ソラトの目が輝く。
「そんな便利なのがあるんだ。でも、この村では見たことないよね」
「そりゃそうだ。魔石は魔物を倒すと出てくるんだ。
リベッタ村には魔物がいないだろ。結界のおかげでな」
「なるほど、そういうことか」
ソラトは視線を落とし、胸の奥で何かが動き始めるのを感じた。
――グランツ。
――魔法の学校。
――魔導具の工房。
――そして、地下室で見つけたあの箱。
古びた木箱の中にあった“欠片”。
皮紙に書かれていた二つの文字。
グランツ
勇者
胸の奥が熱くなる。
座っているのが落ち着かない。
何かに呼ばれているような感覚が、静かに全身を満たしていく。
気づけば、ソラトは拳をぎゅっと握りしめていた。
その様子を見て、父は静かに目を細める。
ソラトの心の動きを、まるで手に取るように察したのだ。
「……ソラト。
お前、グランツに行ってみるか」
その声は驚かせるためでも、背中を押すためでもない。
ただ、芽生えた気持ちをそっと受け止めるような、温かい響きだった。
そして祖父はいつの間にか椅子に深くもたれ、静かに寝息を立てていた。




