世界はさらに広いと知った日
農業地帯を抜けると、道はいつのまにか柔らかな土から、固く敷き詰められた石畳へと変わっていた。
馬車の揺れは軽くなり、車輪は規則正しい音を刻みながら、自然と速度を上げていく。
その石畳に変わるまでのあいだ、ガルドの“経済講義”は続いていた。
ソラトは指先で硬貨を転がしながら、ぽつりとつぶやく。
「なるほど……つまりお金は、交換という行為を“個人の記憶”じゃなくて、“社会の記憶”に書き込むための仕組みなんだね」
ガルドは手綱を握ったまま固まった。
一瞬、商人としての自尊心がぐらりと揺れる。
「そ、そうだよソラトくん。うまくまとめたね。簡単に言うと、そういうことだよ」
言いながら、ガルド自身が“ああ、そういう考え方もあるのか”と感心してしまう。
自分が説明した内容が、ソラトの言葉で別の形に整理されて返ってくる。
その理解力に、ガルドは何度目かの驚きを覚えた。
ソラトは続ける。
「それに、この仕組みだと……物々交換の弱点だった“物の価値が釣り合わない”って問題も解消できるよね」
ガルドは思わず振り返った。
そこまで説明していない。
なのに、ソラトは当然のように辿り着いている。
「ソラトくん……」
ガルドはしばらく口を開けたまま、言葉を探した。
そして、ふっと吹き出すように笑い、肩をすくめる。
「ソラトくん、うちの店で仕事しないか?」
その声音には、半分冗談、半分本気が混じっていた。
ソラトは困ったように眉を寄せ、ガルドの顔をじっと見つめていた。
その視線に気づいたガルドは、慌てて手を振る。
「じょ、冗談だよソラトくん。君はグランツでやることがあるんだし……」
ソラトは胸をなでおろし、ほっとした表情になる。
「そうですよね。びっくりしましたよ。話を聞いてたら商売って難しそうですし、僕なんかにできるわけないですし」
ガルドは心の中で、
――いやいや、君なら十分できるよ。
と強く思った。
むしろ、自分より筋がいいかもしれない――そんな予感すらあった。
ソラトは硬貨を見つめながら続ける。
「でも確かに……これが広まれば、ナラカム国は発展していくと思いますよね」
ガルドはうなずきつつ、少し表情を曇らせた。
「でもね、グランツはうまく定着したけど、他の町や村ではそうはいかないんだ」
石畳の道を馬車が軽快に進む。
遠くに見える城壁が、少しずつ大きくなっていく。
「この硬貨の素材はフェルメタル。グランツでは魔道具に使われる希少金属として知られている金属だ。
でも、他の町ではそれほど知られていない。だから硬貨そのものに価値を見いだせないのが原因だと考えられているんだよ」
ソラトは硬貨を指先で転がしながら、じっと考え込む。
その横顔を見て、ガルドはまた思う。
――やっぱり、この子はただ者じゃない。
――この国の未来を変えるのは、こういう“素朴で鋭い目”を持つ子なのかもしれない。
「みんながそこに価値を感じる素材があれば――」
ソラトが言いかけたその時、ガルドが前方を指さした。
「ソラトくん、グランツの街に到着だよ」
ソラトは思わず身を乗り出した。
視界の先に、巨大な壁が横一面に広がっていた。
背の高い城壁は空を切り取るようにそびえ立ち、
その中央に開いた門は、人の背丈の五倍はありそうなのに、
壁の圧倒的な大きさのせいで、むしろ小さく見えるほどだった。
道はまっすぐ門へと伸び、
その前には荷馬車が三台、旅人らしき人々が数名並んでいる。
門番の姿も見え、街へ入る者たちを順に確認していた。
ソラトは息をのむ。
「すごい壁……こんな高い壁を作ったなんて、すごいですね」
ガルドは誇らしげにうなずく。
「人が大勢集まると、こんなことだって可能になるんだよ。
中に入ると、もっと驚くよ」
ソラトは城壁を見上げたまま、しばらく言葉を失っていた。
その瞳には、圧倒的な世界の広さを前にした純粋な驚きが宿っていた。
馬車は列の最後尾にゆっくりと並び、
ソラトの胸の中では、これから始まる新しい世界への期待が、
静かに、しかし確かに膨らんでいった。
ガルドの荷馬車は、門番に軽く会釈されるだけで難なく通された。
どうやら顔なじみらしく、形式的な確認だけで済んだようだ。
そして――門をくぐった瞬間、ソラトの目が大きく見開かれた。
夕暮れの光が街の石畳を赤く染め、
その上を行き交う人々の影が長く伸びている。
声、足音、商人の呼び声、どこかの家から漂う夕飯の匂い。
リベッタ村では感じたことのない“人の密度”が、空気そのものを変えていた。
「すごい……人がいっぱいいるよ。それに、あの建物……あんなに高い」
ソラトは首が痛くなるほど見上げていた。
六階建ての集合住宅が並び、その間を縫うように人々が行き交っている。
ガルドは得意げに笑う。
「どうだいソラトくん、驚いただろ」
「うん……これはすごいよ。こんなのを人が造れるなんて……」
「大勢の人が協力すれば、なんだってできる。グランツはその見本みたいなもんさ」
馬車は広場へと入り、中央の大きな噴水のそばを通り過ぎる。
水音が夕暮れのざわめきに混じり、街の活気をさらに際立たせていた。
ソラトは馬車から身を乗り出し、
目に映るものすべてを吸い込むように見つめている。
まるで、世界が突然何倍にも広がったかのようだった。
ガルドはそんなソラトを見て、少しだけ柔らかい声で言う。
「今日はもう遅いから、まっすぐ家に向かうよ。
明日、ゆっくり街を見物するといい」
そう言うと、ガルドは手綱を軽く引き、
夕暮れの街を自宅へ向かって進んでいった。




