世界は広いと知った日
リベッタ村を出て十日が過ぎた。
昼を少し回った陽光は、麦畑一面の穂先を白金色に染め、風が吹くたびに海のようなうねりをつくる。
ガルドの荷馬車は、その真ん中を一本だけ伸びる土道を、きしりと軋ませながら進んでいた。
手綱を握るガルドは、前方にゆるやかに盛り上がる丘を見やり、ぽつりとつぶやく。
「ここまでくると、グランツまであともう少しだ」
荷台に座っていたソラトは、身を乗り出して麦畑をぐるりと見渡した。
収穫前の麦は、どこまでも続く金の波のようで、彼の目にはまるで別世界の景色に映る。
「それにしても、すごく広い麦畑」
「グランツの街は人が大勢いるからね。ここはグランツの農場地帯だよ」
ガルドの言葉に、ソラトは首をかしげる。
「大勢って……いったいどれくらいいるの」
ガルドは少し考えるように眉を寄せ、答えた。
「そうだな。リベッタの百倍以上じゃないかな」
「ええっ」
ソラトは目を丸くし、麦の海よりも大きな想像の波に飲まれたような顔をした。
「なんでそんなに人がいるの」
まだ“百倍”という数字の実感をつかめないまま、胸の中で転がすように問いかける。
ガルドは手綱を軽く引き、馬の歩調を整えながら答えた。
「理由はいくつもあるんだけど、とりあえず……生きるのに都合がいいんだよ」
「生きるのに、都合がいい……?」
ソラトの声には、世界の仕組みを初めて覗き込む子どもの戸惑いが混じっていた。
ガルドは横目でソラトを見て、言葉を選ぶように続ける。
「そうだね、安心して暮らせるってことだよ。人が大勢いると、外敵や災害から守れるから」
そのとき、荷馬車の車輪が小石を踏み、コトリと軽い音を立てた。
「リベッタ村は結界で守られて魔物がいないけど……グランツの街の外には魔物がいるからね。だから、人が多いほうが安心して暮らせるんだよ」
ソラトは荷台から身を乗り出し、麦畑の向こうをきょろきょろと見回していた。
風に揺れる金色の波の先に、黒い影がひょいと飛び出してこないか――そんな期待を胸に、目を凝らす。
魔物を見たことのない彼にとって、それは恐怖よりも“未知への興味”のほうがずっと勝っていた。
その様子に気づいたガルドが、手綱をゆるめながら声をかける。
「どうしたんだい、ソラトくん」
「いやちょっと、魔物を……」
ガルドは苦笑し、肩をすくめた。
「まだこのあたりには魔物はいないよ。だからグランツの農地になってるんだ。
グランツの周辺まで行くと時々いるけど、そこまで行けば騎士が見張りをしてるから心配ないしね」
ソラトは「そっか……」と小さくつぶやき、腰を下ろした。
その表情は、期待していた祭りが雨で中止になった子どものように、ほんの少しだけしょんぼりしている。
ガルドはその顔を見るなり、思わず吹き出した。
「おやおや、そんなに魔物が見たかったのかい」
ソラトは頬をふくらませる。
「だって……見たことないし」
「でも魔物は獣より危険だから、気をつけないとダメだよ」
そう言いながらも、ガルドはソラトの横顔を見て、ふっと目を細めた。
「……でもまあ、ソラトくんなら……大丈夫か」
ガルドは手綱を握り直し、ふと表情を引き締める。
グランツに着く前に、ソラトへ伝えておくべきことはないか――そんな思案が頭をよぎる。
そして、思いついたように口を開いた。
「そうだ、ソラトくん。君はグランツのお金のことは知ってるかね?」
「お金……ですか? 知らないです」
ガルドは「やっぱりか」という顔をした。
リベッタ村は自給自足の物々交換。
ソラトが知らないのも当然だと、納得するようにうなずく。
「グランツではね、欲しいものは物々交換じゃなくて“お金”と交換するんだよ」
ソラトは首をかしげる。
言葉は理解できても、実感が追いついていない顔だ。
ガルドは懐から小さな皮袋を取り出し、ソラトに手渡した。
ソラトは袋を受け取り、口を開いて中をのぞく。
金属が触れ合う軽い音が、馬車の揺れに合わせて鳴った。
一枚の硬貨をつまみ上げ、光にかざす。
丸い金属片をじっと見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「……なんで、これと交換してもらえる?」
その問いは、世界の根っこを素直に突く、子どもらしい疑問だった。
ガルドは口元をゆるめる。
商人としての血が騒ぐのか、声に少し張りが出た。
「いい質問だね。じゃあ今から――経済の仕組みを伝授しよう」
麦の波がざわめく中、荷馬車の上でソラトの“初めての授業”が始まろうとしていた。




