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8.哥哥の様子がもっとおかしい

 尻の傷がふさがって、かさぶたが剥がれ落ちる頃には、蘇承鈞が別院へ来る回数が減った。朝と夕に来ていたのが夕だけになり、それも一日おきになった。


「哥哥、まだ痛みます」


「嘘をつくな。昨日、自分で井戸まで水を汲みに行っただろう」


 鳳眼が部屋の隅に置かれた瓶を見遣る様子は、艶かしく、だが辛辣だった。口までなみなみと水を湛えた瓶に、飛知微は自分の失敗に気付かされる。蘇承鈞に茶を淹れてもらいたくて、余分に水を汲んでおいたのは完全に失策だった。

 飛知微は寝台の縁に腰を下ろし、臀部に響いた痛みに顔を顰めて、腿の前へ体重を移した。傷は癒えたが、ふとすると芯のところが疼く。それでも歩くぶんには何の支障もなく、蘇承鈞と二人で過ごす時間を引き延ばす口実は、正直なところもう残っていなかった。


 卓の上には、蘇承鈞が新しく持ってきた真綿と絹と晒しが広げてある。尻の綿入れは血で汚れて使い物にならず、作り直すことになった。


「型は前と同じだ。覚えているだろう、余計な手間をかけさせるなよ」


「右だけ厚くする案は、まだ生きていますか」


「戯言を言うくらい元気なら、一人で作れるんだな」


 飛知微は針を持った。前に一度作っているので、手順は覚えている。綿を絹に包んで口を絞り、掌で押して戻り具合を確かめ、硬すぎるところの綿を抜いた。蘇承鈞は椅子の背へもたれ、片足を桟へ掛けて、その様子を眺めている。無表情に見ているだけの目と時々視線を合わせながら、飛知微は針を運んだ。小さな頃のように蘇承鈞に世話を焼いてもらえる時間が名残惜しく、傷など治らなければ良かったのにと思った。


 仕上がった二つを腰紐へ縫い留め、下履の上から腰紐を結んで、飛知微は衣を着た。蘇承鈞が立ち上がり、彼を正面から抱きしめるような形で背後に腕を回す。綿入れの上から臀部を掴まれ、上から、斜めに、位置を変えて、大きな手が触れる。飛知微は微笑みつつ、余計な接触をしないよう軽く身を縮めた。


「よし、動かないよう固定できている。歩いてみろ」


「どうです、前より上手く作れているでしょう。褒めてください」


「お前は余計な口しか利かないな。まあ、しっかり硬さもあって悪くない。傷に当たると痛むだろうから、しばらくは紐を一寸上げておけ。女の腰は高くて困ることはないだろう」


「哥哥は優しいですね」


「気色悪いから止めろ。痛みで歩き方が乱れると困るだけだ」


 蘇承鈞は一歩下がって、肩から裾までの線を眺めた。それから道具を包み直しはじめる。


「二日後に、陛下がお召しだ。内務府にはまだ療養中としているが、話すだけだと押し切られた」


「では、その時に哥哥がまた来てくれますね」


 皇帝と話すのは恐れ多くも嫌いではなかったが、それより蘇承鈞の送迎の方がよほど嬉しい。飛知微は笑顔を隠さず、偽の乳と尻を目立たせる戯けた歩き方を演じてみせて、叱られることを楽しんだ。


:::


 二日後の午下がり、飛知微は下賜された水紅色の襦裙を着て門を出た。体形隠しの綿入れは、朝に衣の下を蘇承鈞に確認してもらい、多少触れても違和感はないはずだ。


 西の別院を出て最初の角を曲がりながら、飛知微はこの数日で頭に収めた書き付けの記述と、目に映るものを重ねていった。建物の位置、塀の長さと高さ、門の向き。紙の上に並んでいた数字と名を、頭の中で一つずつ形にしていく。

 書き付けに記された尺数どおりに建物と塀を置いていくと、頭の中にはまだ名のない空白が残った。実際にそこを歩くたび、その空白に道や門や庭が入り、形が完成していく。

歩くたびに地図の空白が減っていく。これまでただ蘇承鈞が暮らしている場所として眺めていた後宮が、頭の中で少しずつ一つの形に繋がりはじめていた。


 蘇承鈞の背筋の伸びた後ろ姿について歩きながら、飛知微は頭の中に組み上げた後宮にも、その姿を置いてみた。建物と塀ばかりだったそこに蘇承鈞が立つと、不思議なくらい馴染む。その右手の塀の向こうから、木の枝が高く張り出していた。


「蘇公公。あの木のあるのが、延禧宮ですね」


「そうです。先日の角門は、その先を回り込んだところにあります」


 供の宦官たちがいる限り、蘇承鈞の口調は砕けない。それはそれで、違う蘇承鈞が見られて悪くない。小さな満足を得ながらも飛知微は歩調を変えず、塀の続く方向を目で追った。竹杖で打たれた日、西から角門へ入って、庭を東屋まで進み、帰りは蘇承鈞に抱えられて同じ角門から出た。庭の広さと、東屋から門までの距離は身体に残っている。それを符合させていくと、延禧宮の南の端が、いま歩いているこの道に接していることが分かった。




 養徳殿の西の暖閣は、前と同じように窓が大きく、卓に帳面が積んである。皇帝は常服のまま書を読んでいて、飛知微が額づくと、面を上げよと言いながら手招きをした。近づけば手をとって引き寄せられ、自分の骨ばった指に違和感を持たれるのではないかと心配になる。

 幸いにも手はすぐに解放されて、皇帝の傍らにある卓の前に座ることを許された。厚い坐褥に腰を下ろすよう促され、卓にはいつものように帳簿が積まれている。


「傷がまだ癒えていないと聞いた。これならつらくないだろう」


「もう歩けるようになりました。不調法を犯した身に、薬と滋養の品まで賜り、恐れ入ります」


「歩けるだけか、ずいぶんと強く打たれたようだな……まあいい。去年一年分の税米の輸送記録だ。各地で徴収した量と、京城へ入った量が合わぬ。途中で抜かれているのか、朕には別の理由があるようにも見える。そなたの目を通したくて呼んだ」


 皇帝が用意する仕事は、いつも飛知微の好みに合っている。嬉々として帳面を開き、滑るように頁を繰った。各倉から積み出された税米、船ごとの積載、途中の倉での受領、京城へ入った量が並んでいる。


「盗まれている船もあるでしょうが、それだけではありません。減り方が航路ではなく、倉で積み替えた回数に沿っています」


「積み替えか」


「はい。同じ距離を運んだ船でも、一度で京城まで来たものより、中継の倉を二つ通ったものの方が減っています。しかも減る割合は、倉ごとに揃っています」


 皇帝はよく動く目を上げて、面白そうに飛知微を見た。


「では倉吏が抜いているのか」


「それなら毎回同じ割合にはしないと思いますよ。積むときと下ろすときで、使う升か、その基準が違うのではありませんか。それなら帳面の上では、その差は損耗として処理されます」


 皇帝は声を出して笑い、脇の紙へ書き取らせた。それから半時ほど、別の帳面と、内務府から上がってきた伺いをいくつか見た。飛知微は問われるままに答え、それに皇帝が問いを加えてやり取りする、この時間が普通に楽しかった。


「終いだ。怪我人とは思えないほど、よく働いた」


「恐れ入ります」


 皇帝に肩を引き寄せられて、飛知微は袖の内へ手を収め、顎を引いて目を閉じた。白檀の香が近づいて、乾いた唇が重なり、それから離れた。触れるだけだったが紅は少し落ちただろうから、下がるときに口元を袖で隠さなければいけない。


「傷が癒えたら、今度は夜にも召そう」


 衣の擦れる音がして、蘇承鈞の淡々とした声が誘いを遮る。


「恐れながら、陛下。費答応は杖刑の傷が癒えたばかりで、まだ長く座ることもできません。夜伽に耐えられる状態ではございませんので、いま少しお待ちいただけませんでしょうか」


「そうか。まあ急ぐ話ではない、治ってからだ」


 皇帝はあっさり頷いて、また書へ手を戻した。


:::


 帰りは、往路とは違う道を選んだ。門を抜けたところで、蘇承鈞が供を先に戻らせたので、飛知微は笑顔と弾むような足取りで彼の後を追った。


「哥哥、この道は広いですね」


「荷を運ぶ裏道だ。尊い方々は通らないから整えていないが、御膳房と内務府がこの先で繋がっている」


「では、朝と夕が賑やそうですね。いいな、人が多いのは好きです」


「お前は一人でも十分騒々しい。――口元を拭け」


 言いながらこちらを振り返った蘇承鈞が眉を顰め、手巾を放って寄越した。外にも関わらず乱暴な仕草に笑ってしまい、手巾で顔を拭うと紅がついていた。


「ああ、忘れていました」


 蘇承鈞は無言で手巾を取り上げ、また背を向けて歩き出す。


「戌の刻になるまでなら、付き合ってやる。見たいところはあるか」


「本当ですか。哥哥が一緒なら助かります」


 書き付けには載っていなかった道が二つ、小さな門の先で北へ折れていた。


「哥哥、あれは荷をいれる道ですね」


「そうだ、この先に宮院が三つある」


「あの門が開いているのは、昼だけですか」


「基本はどこもそうだ。夜は後宮の内とはいえ、すべて門を閉じる」


 それだけ聞けば十分だった。門の位置と道幅を覚え、さきほどまで空白だったところを埋めていく。

 子供の頃にも、飛知微はこうして蘇承鈞へ何でも尋ねた。荘園、田租、役人。聞けば蘇承鈞はいつでも無造作に答え、知らなければ調べてでも教えてくれた。


「哥哥は、後宮のことを何でも知っていますね」


「当たり前だ。全て俺の管理で動かしている」


「それは、いいな」


 自分も後宮の一部になれば、蘇承鈞にずっと管理してもらえるだろうか。そう考えると、飛知微はこの場所が好きになれそうだ。ぐるりと周りを見回して、また頭の中の地図を綺麗に整頓した。


:::


 それから四日後の内務府の房で、蘇承鈞は回ってきた伺いの一枚に目を通し、目を細めた。

 費答応の侍寝の日取りについて、月末までのうち三日を候補として挙げてある。書いたのは内務府の下役だが、下ろしてきたのは皇帝の意向に忠実な側仕えだろう。


「療養が明けていない。杖責を受けて重傷を負った妃嬪を、癒えぬ前に無理に召し出すのか」


「はい。ですが陛下からのお話ですし、答応などには過ぎた名誉ではありませんか」


「無理にでも召せと陛下が仰せかと聞いているんだ」


「……いえ」


「差し戻せ。療養が明けたら、まず皇后娘娘への挨拶が先だろう。礼を守れ」


 下役が下がってから、蘇承鈞は朱筆を置いた。置いてから、もう一度手に取って、手元の書類にもう一行を書き添える。それからまた筆を置いて、加える必要のない一行だったと気づいた。





 その日の夕方、別の用件で養徳殿へ上がると、皇帝が書から目も上げずに言った。


「蘇承鈞。費氏の伽は、そなたが取り消したのか」


「療養がまだ明けておりません。お召しについて皇后娘娘へのご挨拶もまだ済んでおりませんので、恐れ入りますが、見送らせていただきました」


「そんなに礼を重んじていたとは知らなかったな」


「陛下のご寵愛を妃嬪が皆望む以上、費答応の安全のためにも必要なことでございます」


 皇帝は短く笑って、それきり何も言わなかった。


 房へ戻る道で、蘇承鈞は暖閣で何度も見せられたものを思い出した。皇帝の指が飛知微の顎を持ち上げ、飛知微は目を閉じて、顔が近づく。飛知微の手は袖の内に隠され、大人しく重ねられていた。あの姿勢は自分が教えたもので、教えたとおりにやっていた。


 途方もなく不愉快だった。その理由ははっきりしている。皇帝が飛知微の帯を解けば、あの男も、それを後宮へ引き入れた自分も全てが終わる。飛知微のせいで、屈辱を受けるのはもう心底懲りた。それだけのことだ。


:::


 それから間もなく、飛知微はまた皇帝に呼ばれた。迎えに来た蘇承鈞は淡々と詰め物の確認をし、衣と化粧についても指示したが、なんとも言えず不機嫌な風情だった。

 門を出てからも蘇承鈞はほぼ無言で、いつもとは違う方向へ歩き出したが、もう飛知微には自分が後宮のどのあたりにいるかを把握できていた。蘇承鈞はおそらく、養徳殿に向かうのにあえて違う道を選んでくれたのだ。


「蘇公公、小妾はこちらの通りは初めてです。これなら近道になりますね」


「狭いから人が少ないだけですよ。距離はそう変わりません」


 供を連れているので丁寧な口調で、素っ気なさはいつもと変わらない。結局どんな蘇承鈞でも好きなのだが、綻ぶ口元をそのままに、飛知微はまた新しい後宮の地図を頭の中に組み上げていた。




 暖閣では、すぐに皇帝の傍に座らされ、今度は地方から上がってきた判決と、その処分をまとめた帳面を見た。同じ罪名で罰を受ける人間の性別や年齢に、地域毎のばらつきが多く、皇帝はその理由を知りたがっていた。

 飛知微は一時辰ほどで、複数の州にまたがった記録を全て確認した。罪名ではなく、事件が起きた土地と被害額、罰を受けた人の記録を浚った。


「罪人が多いのは、この三州ですね」


「そう見える」


「これはおそらく犯罪が重いわけではありません。罪に連座させている範囲が広いのです。一部には幼い子供まで捕らわれています」


 刑部の官吏として、そんな事例をいくつも見てきた。皇帝に直訴するのに今ほどの機会はないが、ここで訴えたところで、おそらく解決はしないばかりか、刑罰を受けるのは自分だけではない。哥哥は巻き込めない。だから飛知微はただ事実だけを帳簿から読んで、自分の言葉を飲み込んだ。


 仕事が終わると皇帝は寛いだ伸びをして、それから飛知微の手を引いた。自然に引き寄せられ、腰の後ろへ腕が回る。傷のあるあたりに一瞬だけ触れて、それから上へずれた。飛知微は顎を引いて傾け、目を閉じる。


 もう何度目かの口付けは長かった。唇が離れず、角度が変わり、白檀の香が口の中まで掻き回す。息を鼻から逃がしていると、皇帝の腕が背へ回って、身体がさらに近づく。胸の厚みの潰れる感触があり、今日も点検しておいてよかった、と飛知微は思った。


 唇が離れたとき、皇帝は少し力の抜けた飛知微を胸に抱いたまま、彼ではなく傍に控える蘇承鈞に目をやりながら囁いた。


「もう傷も治っているようだ。今度こそいいだろう、蘇承鈞」


 こちらではなく蘇承鈞に尋ねる皇帝に、飛知微もそちらを見た。帯を解かれたらもう誤魔化すことはできないが、飛知微自身には選択肢が与えられていない。

蘇承鈞は黙り込んだまま、皇帝の手元をじっと見ていて、少し遅れてから口を開いた。


「恐れながら、費答応はまず皇后娘娘へご挨拶に伺わなくてはならない身です。先に夜伽を務めれば、ご不快を買うことは免れませんし、そうなれば後宮に身を置く場所がなくなります」


「……蘇承鈞。そなたはいつになったら、費氏を朕の褥に寄越すつもりだ」


「そこは、あらためて日を伺わせていただきます」


 皇帝は腕を解き、飛知微の肩を軽く叩いてから離れた。怒った様子はなかった。ただ、蘇承鈞のほうを見て、それから飛知微を見て、また呆れたように蘇承鈞を見た。


「まあよい。下がりなさい」


 そうして二人が去った後の御簾の向こうで、皇帝はしばらく首を傾げた後、喉を低く鳴らして笑い始めた。




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