7.哥哥が治療してくれた
最初の一打は、空を切る音が先に耳に届いた。竹が肉を打つ音は布越しのせいか思っていたよりも低く、痛みと熱はそのあとから追いついてきた。飛知微は長凳の板へ額を押しつけ、口を開けずに息を吐いた。
尻に当てた綿入れが、最初は肌を守っていた。杖の当たる場所で、真綿と絹の厚みがつぶされていく感触があり、来る衝撃を予想して背筋を嫌な汗が伝う。
塀際に立った秋蘭が、落ち着いた声で数を読み上げていく。三、四、と数が進むあいだ、飛知微の両肩を太監の一人が掌で抑えていて、その位置が胸当ての紐に当たらないことに妙な安堵があった。
回数が五を過ぎたあたりで、腰の右側の紐が少しずれた。尻の綿入れを吊っている紐のほうが、打たれるたびに下へ落ちる。
八打目で、綿入れの中の真綿が偏った。潰れた場所と、まだ厚みの残っている場所が、当たった感触で分かるようになる。九打目はその潰れた側へ来た。激しい痛みが尻から背中を突き抜けて、額の下の板がじっとりと濡れて汗が滴っていった。
その時、庭の向こうで門が開く音がして、石畳を早足に歩く音が近づいた。
「――蘇公公」
誰かがそう呼ばうのが聞こえて、飛知微は板へ額をつけたまま、竹杖が風を切る音の合間に、ほんの少しだけ安心した。まだ十二ほど叩かれる。だが哥哥がいるなら、もう紐の心配はしなくていい。蘇承鈞なら何とか誤魔化してくれる。
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蘇承鈞が庭の隅へ回り込んだとき、杖はちょうど振り下ろされたところだった。
足を止め、東屋のほうへ向き直って腰を折って礼を取る。恵妃が茶碗を手にしたまま、こちらへ目を向けた。
「恵妃さま、報せは受け取りました。事の次第を伺ってよろしいですか」
「延禧宮の遣いと名乗る者に呼ばれたのだと、費答応は申していました。秋蘭はそのような者を出しておりませんし、私も呼んだりはしません。その遣いは内務府の札を持っていたようです。年は三十ほど、左の眉尻に傷がある宮女だったとか」
秋蘭が数を読む声が、二人の会話の間に挟まって続いている。十四。
そもそも取次を立てずに答応が妃を訪うなどあり得ないし、北の角門に番が不在の日を狙い、供も連れないなど、常識はずれにも程がある。蘇承鈞がついていれば、絶対に許さなかった。まだ後宮で日の浅い飛知微だからこそ狙えた計略だろうが、証拠は何も残っておらず、この場で黒幕まで辿ることはできない。
だからこそ、飛知微の罪は明らかだ。宮規に照らして杖二十、恵妃の裁量の内にあることを理解して、蘇承鈞は口を開かなかった。
十五。
杖が振り下ろされるたび、長凳の上の身体が強張るのが、見ていても分かる。息を詰める音は小さいが、やけに近く聞こえる気がした。そんなはずはない、飛知微は呻いてすらいない。
杖を持つ太監の腰の入り方は甘い。甘いくせに、当てる場所だけは正確で、尻の同じところへ何度も重ねて叩いていた。蘇承鈞はその顔を目に焼き付けた。
空を切る音がするたびに、なぜかこちらの体も強張っていた。飛知微が苦しんでいる。いい気味だ、いい気味のはずだ。あれほどの痛みと苦しみと屈辱を自分に与えた男が、あの時の自分よりよほど軽い刑罰を与えられている。胸のすく思いがしないのは、きっと罰が軽すぎるからだ。
十六、あと四回。数えている自分に気づいて、やめた。――十七回目、また数えていた。
「蘇公公は、その者を庇いにいらしたの」
「宮規に照らしてのご処断でしょう。私から申し上げることはございません」
「そう。ならば、そこで見ていらっしゃい」
十八。十九。
二十を数え終わり、秋蘭が手を下ろした。太監が杖を下げ、肩を押さえていたもう一人が飛知微から手を離す。長凳の上の身体が崩れ落ち、動かなくなった。しばらくの間をおいて、両手が板の縁を掴み、起き上がろうとして、そのまままた震えて止まった。
蘇承鈞は、恵妃を振り返り、無表情に確認した。
「終わったようですので、費答応は私が引き取ります」
「居所まで運ばせますよ。こちらで与えた罰ですもの」
恵妃が、飛知微を処した太監二人に、また指図しようとする。
「結構です。恵妃さまの手を煩わせるほどではございません」
蘇承鈞は振り切るように長凳の脇に歩み寄り、飛知微の膝の下と背へ腕を入れて、そのまま抱え上げた。持ち上げた瞬間に、腕の中で飛知微が息を止めたのが分かった。裙の下で、尻に仕込んだ綿入れの位置が明らかにずれている。
「自分で歩けます、蘇公公」
耳のすぐ下でそう言われたので、蘇承鈞は歩調を変えずに答えた。
「口を閉じていなさい」
東屋の前を通るときに、もう一度だけ腰を折って、簡単に礼を取る。恵妃は茶碗を置き、頬に手を添えていた。
「蘇公公は、面倒見がずいぶん良いようね」
「まだ入宮したばかりで、私の管掌でございます」
忌々しい庭を横切って、無人の角門を抜けた。腕の中の身体は思っていたよりは軽く、白粉と汗の匂いがした。
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西の別院の門を閉め、供を外へ残してから、蘇承鈞は飛知微を寝台へ俯せに下ろした。
「衣を脱がせる。動くな」
「はい」
帯を解き、裙を外して、褲を下ろす。尻に当てた綿入れは、右側が完全に潰れて絹が破れ、真綿が塊のまま片側へ寄っていた。吊り紐の一本は途中で切れかけている。蘇承鈞はそれを鋏で断ち、綿入れごと取り上げて卓へ置いた。それから上へ回り、飛知微の背の結び目を解いて胸当てを抜いた。締めつけの外れた肋が、大きく上下する。
「これ、作り直さなきゃいけませんね」
「見れば分かる」
「俺の尻は、右のほうが多く叩かれるみたいなので、次の罠への対策として、右だけ綿を厚くしておくのはどうでしょう」
「うるさい。黙れ」
軽口を叩く飛知微だったが、右の臀部から腿の上まで赤黒く腫れ上がっている。大腿の外側では皮膚が破れて、褲の内布が固まった血で貼りついていた。蘇承鈞は碗の水を布に含ませ、貼りついた布を少しずつ湿らせて剥がした。飛知微が枕へ額を押しつけたまま体を強張らせるので、そのたびに一度手を止め、少しずつ続けていく。
「侍医を呼ぶことはできない。薬だけ取り寄せておく」
「医者になんて診せられませんしね。そもそも手当てしてくれるんですか」
「今、俺が何してると思っている」
「……傷の確認、でしょうか。哥哥、俺の傷を見て、なんで嬉しそうじゃないんですか」
「うるさい」
蘇承鈞は布を乱暴に桶へ投げ入れ、立ち上がって部屋を出た。頭を冷やすために門の外にいったん顔を出し、供をしていた者を呼び寄せた。傷が酷く答応の評判に関わるため、自分以外は誰も中に入れないよう話し、このままこの場所を守ることを命じた。薬もいくつか取り寄せておく。
それから室内に戻ると、飛知微が俯せのままぼんやりとした顔を、こちらに向けていた。汗で流れた白粉が頬でいくつもの筋になり、いつもよりひどく弱って見える。
「哥哥、戻ってきてくれたんですね。……俺の失敗で迷惑をかけました」
「いい。今日はもう考えずに、寝ろ」
「はい」
素直に目を閉じたので、蘇承鈞は椅子に座り込み、窓の外を眺めた。まだ外が明るい。目撃した者は多いだろうし、噂はあっという間に後宮中を巡るだろう。
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一度内務府に戻っていた蘇承鈞は、夜半に別院へ戻り、門番にしていた宦官たちを帰した。室内に入り、灯を一つだけ点けて飛知微の額に手を当てると、はっきりと熱い。慌てて掛布をめくり知微の臀部を確認したが、傷の腫れは悪化しておらず、安心した。傷からの腐熱でなければ、そのうちに下がるだろう。
薬を塗り直したあと、桶の水で布を絞り、うつ伏せの体の首筋へ置いた。しばらくして布が温くなるので、また絞って置き換えた。
飛知微本人にも問われたが、なぜ自分は喜んでいないのか、なぜ手当てなどしているのか。
この男の身体は、他の誰にも見せられない。露見すれば、男を後宮へ隠した自分も終わる。それだけの理由のはずだ。
三度目に布を取り替えたとき、飛知微の微かな声がした。
「哥哥……」
蘇承鈞は手を止めた。飛知微はうつ伏せたまま動かず、ただの譫言だった。
「……ごめんなさい」
声は小さく、そこで切れた。熱に浮かされた荒い呼吸だけが響いている。
「何に、だ」
答えはなかった。
蘇承鈞は布を桶へ戻し、絞った。水が落ちなくなってからも、何度か絞った。それから首筋へ置き直して、寝台の脇の椅子に座った。
再会してから、この男が自分に謝ったことは一度もなかった。謝られたところで、許す気など欠片もなかった。だが、飛知微が何を謝りたかったのか、それだけは知りたいと思った。
灯芯が短くなり、部屋が陰る。蘇承鈞は新しい芯を継ぎ足して、夜明けまでそこに座っていた。
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翌朝には解熱し、発熱していたことすら、飛知微の記憶には残っていなかった。尻から太腿にかけての、ひどい痛みはより悪化している。
うつ伏せのまま、腕を枕にして三日を過ごした。座ることはできないが、頭を使うぶんには何の支障もない。
考えたのは、どうしたら罠にかからずに済んだのかということだった。
落ち度はいくつもある。証を残さなかったこと、門番の名を聞かなかったこと、言われるがままに従ったこと。全てが、後宮の慣習や礼法を知らなかったことに端を発していた。
知らないのなら、学べばいい。
蘇承鈞は毎日、朝と夕に部屋を訪れてくれる。これは完全に、怪我の功名だ。無表情の美しい顔を眺めながら、不本意そうな手つきで世話を焼かれるのが、とても幸せだった。
「まだ座れないのか」
「座れますけど、座ると痛いです」
「座れるなら、早く自分の世話くらいしろ」
「いやです。あと少しこのままがいいです」
蘇承鈞は大袈裟なため息をついて、椅子を寝台の脇へ引いて腰を下ろした。片足を椅子の桟へ掛け、非常に行儀が悪い。飛知微はうつ伏せたまま顎を上げて、浮かれた笑顔でおねだりをした。
「哥哥。お願いがあります」
「言うだけ言ってみろ。叶える予定はない」
「後宮の規範などはありませんか。それだけでなく、後宮に関連するものをなんでも読みたいです」
蘇承鈞の眉が寄った。
「突然何を言い出した。まとまったものは少ないが、書き付け程度ならいくつかある。機密以外なら、目を通すくらい構わない」
「全部見ます。哥哥のためにも、二度とこんな失敗はしません」
蘇承鈞は答えず、薬壺の蓋を外して、匙で中を掻き混ぜた。
「機密じゃない範囲で、後宮の構造も知りたいです。捕まりそうになった時の抜け道も知っておきたい」
「逃げると自白するとは、いい度胸だな」
「哥哥から逃げる理由はないです」
蘇承鈞は匙を止めて、こちらを見た。飛知微は枕に頬を乗せたまま、いつも通り笑っていた。
「なんで俺が、哥哥のいるところから逃げるんですか。今、俺は人生で二番目くらいに幸せなんですよ」
「杖刑をうけて幸せを感じられる変態で、羨ましいよ」
「まあ、痛いのは嫌いなんで、もうこういうことはないようにしますね。大丈夫、俺は優秀なんで、もう哥哥を困らせません。全部覚えて、怪しいことは全部、哥哥に報告しますよ」
蘇承鈞が思い切り鼻で笑った。それから壺を卓へ置き、椅子の背へもたれて寝台を蹴った。椅子の脚が床を鳴らし、非常に行儀が悪い。
「お前の存在がいちいち迷惑だ。さっさと傷を治して、俺のために粉骨砕身して働け」
「もちろんです。働くのは大好きですよ」
「いい心がけだが、ふざけるな」
しばらく顔を顰めて飛知微を睨みつけたあと、蘇承鈞は結局薬の瓶を手に取った。薬を塗り直すために飛知微の掛布を捲れば、まだ生々しい傷が青黒い皮膚に裂け目を作っている。
「動けるようになったら、後宮の中を自分の足で歩いて確かめていいですか」
「勝手に歩き回るな」
「じゃあ、哥哥も一緒に歩きましょう」
満面の笑顔で言われて、薬を塗る蘇承鈞の手が一瞬止まった。それから、返事の代わりに傷口に強く軟膏を塗り込んだ。飛知微は枕へ顔を伏せて息を詰めたが、口元はやはり楽しそうに笑っていた。




