↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/14

6.哥哥の様子がおかしい

 皇帝の唇は離れず、重なったまま何度も角度だけが変わった。息を鼻から逃がすしかなくて、また鼻にかかった音が出る。下唇にぬるりと舌が這い、そのまま口の中を舐められた。初めての感触は少し気色悪さもあり、身を引こうとする。だが顎の下を皇帝の指がつまんでいて、そこを支えにして固定されているので、逃げる余地はどこにもなかった。


「ん……、ふっ」


 目を閉じたまま、飛知微はこういうこともあるのだろうと冷静に考えていた。死罪になったはずの男が、後宮で女として生きている。これほど奇妙な話もないから、皇帝と口づけを交わすことだってあってもおかしくない。

 唇の端からは唾液が零れていて、これでは紅はあらかた落ちているだろう。終わった後には、顔を伏せたほうがいいかもしれない。


 皇帝の手が顎から下りた。指の背が頬を伝い、首筋の後ろを辿る。立ち襟の縁には鹿皮の芯が入っていて硬く、指はすぐに越えて肩へ降り、飛知微は一瞬だけ力が抜けた。喉に触れれば、確実に性別がばれる。手は衣の上から肩の骨を掴まれ、それから背へ滑り、肩甲骨の形をたどって下りていった。


 そこで飛知微は初めて、危ういのは顔や喉以上に、身体のほうだと思い至った。自分に皇帝が触れることなど、これまでほぼ想定していなかったのだ。

 肩は骨が張り出しているし、背は肉が薄く、胸は当たり前に平らで、その下に肋骨がじかに触れる。皇帝の掌は脇から胸元へ回ってきて、帯の結び目の上で止まった。あと指二本ぶん上に進めば、それで終わりだ。


「今日はここまでにするか」


 皇帝は身を引き、飛知微の肩を軽く叩いてから手を離した。


「そなた、痩せすぎだ。妃嬪は個性があるほうが面白いが、触ってもう少し楽しいほうがいい。蘇承鈞、この者の膳を少し良くしてやりなさい。……近いうちに、夜伽もさせる」


「……御膳房へ申し伝えます」


 飛知微が口元を袖で隠したまま顔を上げると、蘇承鈞は壁際で身を屈め、床から筆を拾い上げているところだった。卓上の書類には黒い点がいびつに滲んでいて、筆の穂先はまだ濡れている。先ほど背後で聞こえた固い音はこれだったのだと分かった。


「そなたの失敗は珍しいな。さすがにそれは書き直しなさい」


「恐れ入ります。後ほど、新しい紙で作っておきます」


 蘇承鈞の表情はいつもの通りで、声も変わらない。皇帝が面白そうにその横顔を眺めていたが、それ以上は言わずに書へ手を戻した。


「下がってよい。すぐに、また呼ぶよ。それまでにもう少し肉をつけておけ」


:::


 宮門を抜けたところで、蘇承鈞が供に何か用件を言いつけて下がらせた。月明りはかすかで、手の灯りがなければ、足元もおぼつかないほど暗い。手燭を一度地面に下ろして、蘇承鈞が乱暴な手つきで宮門の扉の陰に飛知微を引き込んだ。そして袖から出した布で、飛知微の口の端を無造作に拭った。下唇がめくれるほど強く数回擦られて、ようやく満足したのか解放された。

 また明かりを手にした蘇承鈞が、足早に歩き始めた。


「――みっともない顔をするな」


「陛下がなさったことです。俺も驚きました」


「お前は、もう少し警戒すべきだろう」


 言いがかりが酷い気もしたが、蘇承鈞が言うならそうなのかもしれない。飛知微は擦られた口をそのままにして、手燭の明るさを小走りに追った。


「哥哥。喉を隠すだけでは足りませんね。これ、胸と尻に触られたら、一発で終わりです」


「当たり前だ。そもそもお前を答応にするのに、陛下と関わることは想定していない」


「夜に呼ぶと仰いましたよ。夜伽なら、衣は脱ぎますよね」


「黙れ。今すぐその口を閉じろ」


 酷く機嫌が悪そうな蘇承鈞は、早足のままこちらを振り返ることもない。皇帝に飛知微の性別が露見する危機を抱えているのだから当たり前なのだが、せっかく共に歩いているのに残念だった。

 蘇承鈞は角を曲がってから、前を向いたまま短く言った。


「明日の午に、そなたのところへ行く。それまでは余計なことをせず、化粧の練習でもしていろ。こっちで準備するから、勝手な工夫はまだ考えるな」


「夜伽のほうは、どうなさるつもりですか」


「お前は知らなくていい」


:::


 翌日、蘇承鈞は供を門の外に残し、大きな布の包みを卓へ下ろした。中には薄い絹が数枚と、真綿の塊、晒しの木綿、それに細い紐が幾筋か入っていた。


「これで胸と尻にあてる綿入を作る。型は俺が決めるから、お前が縫え」


「そこまで俺も縫うのは得意じゃないですよ。宮女にはやってもらえないんですか」


「男の体を女にごまかすための品を、どうやって頼むのか俺に教えてくれ」


 蘇承鈞は鼻で笑うと、硯を引き寄せて紙に線を引いた。椀を伏せたような形を二つ、下側だけ綿を厚くして絹で包み、晒しで仕立てた胸当てに仮留めさせる。紐は背で交差させて締めた。


「上部を厚くしすぎるな。衣を着たときに上が張っていると、いかにも詰めものと分かる」


「やけに詳しいですね」


「毎日、どれだけの着飾った女を見ていると思うんだ」


 飛知微は針を持った。襟へ革を縫い込むより、柔らかい布と綿には、針が通し易かった。綿を絹に包んで口を絞り、掌で押して戻り具合を確かめる。潰れたまま戻らないところには綿を足し、硬すぎるところは抜いた。内容はともかく、蘇承鈞と一緒に作業をするのはとても楽しい。


「胸を押されたときに、どのくらい沈むのが自然なんですか。布団みたいな感触ですね」


「女の身体を知らないのか」


「仕事人間だったんで、残念ながら知りません。哥哥は触ったことがあるんですか」


 蘇承鈞は答えずに、飛知微の手から綿入れを一つ取り上げて、指の腹で二度押した。それから戻して寄越した。


「ここの綿が多い。減らせ」


 仕上がった二つを胸当てへ縫い留め、飛知微は衣を脱いで上半身を晒した。まだ少し肌寒くて身体を震わせていると、そんなことに頓着しない蘇承鈞が胸当てを前から回し、背へ紐を送って締める。骨ばった指の関節が飛知微の背中に当たった。


「息を吐け」


「もう吐いています」


「吐ききれと言ってるんだ」


 紐が締まり、胸の上に布が張り付くように締まっていった。息を深く吸うと、肋骨の広がる場所がひとつ上に移ったように感じる。蘇承鈞は結び目を確かめてから正面へ回り、衣を着せて、掌で胸元を押した。上から、それから斜めに、位置を変えて何度も確認していく。


「動く感じはどうだ」


「それはないですが、締められていて苦しいです」


「知るか。右が少し薄いな」


「自分でも触っていいですか」


「必要ない。動くな」


 飛知微は言われたとおりに手を下ろした。蘇承鈞は脇の下から衣の中へ手を差し入れて、背の紐のずれを確かめ、それから両手で飛知微の腰を掴んだ。


「腰紐の位置が下がっている。掌一つ分上だと言ったはずだ」


「覚えてはいるんですが」


「覚えていて、なぜできない」


 蘇承鈞は晒しをもう一本取り、飛知微の腰の下のほうへ巻いて厚みを作った。それから裙を直し、一歩下がって、肩から腰までの線を眺める。昔はもっと筋肉をつけろとこの人に笑われていたのに、今は女の体に近づけるよう調整されている。そのおかしみを、飛知微は嫌だとは思わなかった。


「ほら、歩いて見せてみろ」


 部屋の端まで歩き、振り返って万福の礼を執り、床へ額づいた。起き上がるたびに蘇承鈞の手が伸びてきて、衣の下で胸当ての位置を直す。四度目でようやく、動いてもずれなくなった。


「腹で息をしろ。胸で息をすると胸がずれる」


「注文が多すぎませんか」


「誰のためだと思っている」


「哥哥のためでもあるでしょう」


 蘇承鈞はそれには答えず、視線も合わせてくれなかった。昨夜から機嫌が悪い。


「これで、どれくらい誤魔化せるものなんですか」


 引き寄せられて、蘇承鈞の胸元に収まる。胸元と尻に、綿入れの向こうから触れられる感触があった。


「衣の上からなら、一旦は分からない。肩を抱かれる程度なら凌げるだろうが、帯を解かれれば終わりだな」


「やっぱり夜は無理ですね」


「当たり前だろう。だから警戒しろと言っているんだ」


 蘇承鈞は道具を包み直しながら、それ以上は何も言わなかった。飛知微は自分の胸元を見下ろし、掌で一度押してみた。押した分だけ沈んで、離すと戻る。なかなか良い出来だった。


「これ、俺が作ったにしては上出来です」


「何を自分の手柄のように言っている。設計と調整は俺だ。また陛下のところに行くときは、確認する」


 それは、そのたびに蘇承鈞に会って作業できるということで、飛知微は満足だった。


:::


 その月の下旬から、皇帝からの下賜が増えた。正絹の衣が二着、玉の簪が一本、蜜漬けの果子が一箱。御前の召しは十日のうちに三度もあり、そのたび行き帰りに蘇承鈞が付き添った。もちろん毎回、門の内では胸と尻の確認が行われており、知らぬ者が見れば目を剝くような作業が繰り広げられていた。


 生活のほうの嫌がらせは、いつの間にか止んでいた。炭も油も刻限どおりに届き、粥は湯気を立てている。代わりに増えたのは他の妃嬪からの招待だった。陳貴人の香席、秦常在からの茶の会、名も知らない嬪の宮で開かれる花見の席。飛知微は蘇承鈞の言いつけどおり、いずれも内務府を通して丁重に断った。


 盆を運ぶ若い宮女は、近頃よく喋るようになっていた。大抵は質問で、曰く費答応は御前で帳面を読んでいるって本当ですか、陛下が声を出して笑うんですか、蘇公公と毎回一緒にあるくなんて羨ましい。声を弾ませながらも潜めるという器用な所業に、飛知微はそのたびに真面目な顔で頷いてやった。


:::


 望を過ぎた日の午に、門が叩かれた。


 立っていたのは三十ほどの女で、臙脂色の衣に、内務府の札を提げていた。素直に名乗り、延禧宮の恵妃娘娘にお仕えする女官、秋蘭の遣いだと言う。


「娘娘が、費答応さまに直接お話を伺いたいと仰せでございます。炭と絹のことをお聞きになって、たいそう感心しておられました」


「内務府の取次はないのですか」


「内々にお話したいとのご希望でございますので、正式に立てますとかえって人目に立ちます。軽佻と捉えられたくない娘娘のお気持ちを汲んでくださいませ」


「刻限はいつなのですか」


「本日の申の刻にお越しくださいませ。明日の請安の支度で正門は人が出ておりますから、北の角門からお入りくださいませ。門番には話を通してございます。それから、娘娘は堅苦しいのをお嫌いですので、跪礼には及びません。供もお連れにならぬように仰っていました」


 飛知微は女の顔を見た。眉尻の左に小さな傷がある。札の字は内務府の書き手のもので、指には水仕事の跡があり、言葉に訛りはない。怪しいと言える点は、飛知微に判断できる範囲では一つもなかった。


 何より、「妃」位の娘娘から直々に招かれて、最下位の答応が理由もなく断るわけにはいかない。


 女が帰ってから、飛知微は盆を下げに来た娘に、蘇公公への書付と言伝を託した。恵妃娘娘のお召しで延禧宮へ上がることを簡単に書いた書を手に娘は頷いて出ていったが、それが蘇承鈞の元へ届くにはしばらく時間がかかるだろう。


:::


 恵妃の居所は涼やかに広く、北の角門は半分開いていて、誰も咎めなかった。

 庭を進むと、東屋に妃嬪が四人ほど集まって茶を囲んでいる。上座の女人が恵妃だろうと見当をつけて、飛知微は教えられたとおりに万福の礼を執った。


「費氏でございます。娘娘のお召しをいただき、参上いたしました」


 茶碗を持つ手が止まり、庭がしんと静まった。恵妃の脇に控えていた女官が、鋭い声を上げる。


「何者です。ここをどこと心得ておいでか」


 その一声で、飛知微にはからくりが分かった。番のいない角門から迷い込み、取次を立てない、跪かない、供を連れない。後宮の礼について知識が乏しいが、間違いなくどの行いも礼を失している。つまり今ここにいるのは、陛下に幾度か召されただけで図にのり、高位の妃の居所へ無断で入り込んだあげくに跪きもしない傲岸な答応だ。


 飛知微はすぐさま膝をつき、跪礼をとった。


「誠に申し訳ありません。延禧宮の遣いと名乗る者が参りまして、娘娘のお召しで取次は不要、跪礼にも及ばぬと申しました。確かめずに従いまして、大変なご無礼を働きました」


「そのような遣いを出した覚えはありません。秋蘭、そなたは聞いているか」


「存じません。私はこの三日、宮を出ておりません」


 東屋の端で、誰かが低く笑った。


「陛下に召されるようになると、答応でも妃の庭へ角門から入れるのですね」


「札を持っておりました。年は三十ほど、左の眉尻に傷が」


「そなたの言うことなど信じる必要が、私にあるかしら」


 恵妃が軽く言って、茶碗を置いた。飛知微はそれ以上、言葉を続けなかった。


 記録があれば確認できるが、今日の女官は何一つ証を残していなかった。証を取らなかったのは自分の落ち度であり、正しい作法を知らなかったのも、またその限りだ。


「騙されたのだとしましょう。それでも、この宮の庭へ無断で入り、妃に跪かなかったのは事実です」


 恵妃に怒りは含まれておらず、その穏やかさが逆に飛知微を安心させた。騙されたのは確かだが、罪を犯せば償わねばならないことを、刑部だった自分は誰よりも理解している。


「宮規に照らして、杖二十。陛下の御前へ出る者ほど、礼を知らねばなりません」


「承りました」


 飛知微は叩頭したまま答えた。その様子を見ていた秋蘭と呼ばれた女官が恵妃に何かを耳打ちし、妃は短く応じていた。


「蘇公公の管掌であれ、私の下で無礼を働いた答応に罰を下すのに、内務府の指図を仰ぐ道理はありません。報せだけ出しておきなさい」


 庭の隅へ連れて行かれ、塀際に長凳が運ばれてきた。太監が二人、太い竹の杖を持って立つ。衣は着たままでよいと言われて、飛知微は少し安心した。押さえるのが二人なら、腕と背に手が来る。胸には触れない。


 袖の内で背の紐の結び目を指で確かめた。門を出る前に締め直したままだ。


「蘇公公へは、報せてあります。ですが、庇ってもらおうなどと思わないことね」


「とんでもないことです」


 飛知微は言われるままに長凳へ身を伏せた。板は冷たく、白粉の匂いが自分の襟元から立ちのぼる。蘇承鈞が現れるまでに、この紐が緩まなければいい。刑が終わるまでに哥哥が来てくれれば、たとえ綿入れが露出しても誤魔化してくれるだろう、とそれだけは安心していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。