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5.哥哥とお仕事しています

 帳面を内務府へ届けた翌日の午前に、門の閂が外から外れた。蘇承鈞は供を門の外へ残し、提げていた木箱を室内の卓へ下ろした。蓋を外すと、帳面が縦に詰まっている。紙と、埃と、墨の匂いが部屋に広がり、飛知微は目を閉じてそれを吸い込んだ。


「尚衣の帳面だ。先月までの生地の受領と払い出し、仕立て上がりの控えがある。その下に、織造から回ってきた納入の記録だ」


「こんなもの、俺が見ていいんですか」


「一切信用はしていないが、お前は公に死人で、内廷で俺の手の内にいる。使い勝手のいい道具として扱わなければ、勿体無い」


 飛知微は箱の縁に手をかけたまま、しばらく呆然と蘇承鈞の顔を見上げていた。それを不服と取ったのか、蘇承鈞の眉がわずかに寄る。


「不満は受け付けない」


「いえ。嬉し過ぎて、返事が出来ませんでした」


「気色の悪いことを言うな」


 眉根の皺を深くしながら、蘇承鈞は椅子を引いて腰を下ろし、卓の端に肘を置いた。座り方が徐々に崩れてきていることに、彼は気づいているだろうか。供のいない部屋にいるうちに、片足が椅子の桟にかかったり、時に椅子の背に体を預け、椅子の脚が床を鳴らすようになった。昔のぞんざいな癖が、蘇承鈞が気を抜いた時にひっそりと姿を現し、飛知微はそれを見つめる。


 持ち込まれた帳簿の紙は上等で、行は読みやすい文字で詰まっている。目が文字を追いはじめると、部屋にせっかく蘇承鈞がいるのに、紙面に意識を持って行かれた。牢でも後宮でも読むものは与えられず、落ち着いて数や文字を追う楽しみから長いこと引き離されていた。頁を繰る手は滑るように、読み取る端から頭の中で、新しい情報が正しい位置に整理されていくのが気持ちよかった。

 払い出し帳、受領帳、納入の控え。貪るように全てを読み終えてから顔を上げ、飛知微は部屋が薄暗くなっているのに驚いた。まだ昼前のはずだ。

 蘇承鈞は卓で何か書き物をしていて、その姿がまだそこにあることに安堵する。


「哥哥、いまの刻限は」


「もう夕刻だな。これだけ人を待たせて、何か収穫はあったんだろうな」


 この堪え性のない人が、三時辰近くも静かに自分を待っていてくれた。嬉しくて、飛知微の口元が勝手に綻んでいく。


「哥哥の求めてることか分かりませんが、計算の合わない部分がいくつかありました。ーー絹は疋で数えていますよね」


「そう決まっているな」


「同じ仕立てに使った反物の疋数が、時期により大幅に変動があります。納入と払い出しだけなら帳尻は合う。ですが、仕立て上がりと行き先まで重ねると、答応や常在へ回った衣だけ、一疋から取れる枚数が少ないんです。これは、おそらく反物の幅にばらつきがあります」


 蘇承鈞が手を伸ばして控えを取り上げ、頁を繰った。それから短く舌打ちをした。


「裁てば分かることだ。尚衣の職人は気づくだろうし、すべて抱き込むには人数が多すぎる」


「気づいたとしても、訴え出る先がありませんよ。文字を書けない者もいるでしょうし、誰に何を言えば調べてもらえるのかも知らない。仕立てるだけの仕事ですから、与えられたことをやっていただけで不正と分からなかった可能性もある。そうやって弱いものは、知らず罪に巻き込まれるんですよ」


 その言葉に、少し含みが混じることを飛知微は避けられなかった。刑部はそんな罪人をたくさん見る場所だった。

 蘇承鈞はそんな彼に構わず、確認するように開いていた控えを閉じ、指の背でその表紙を叩いた。その端正な横顔は静かで、何を考えているのか窺い知れなかった。


「――織造への注文書を書き替える。今後は疋数と併せて幅を尺で記させる。受領の場で反物を広げて確かめ、検めた者の名を入れさせよう」


「戸部が嫌がりますよ、手間が増えます」


「戸部がこれだけ長年の不正に全く関わっていないとでも思うのか。身内の不始末だ、文句は言わせない」


 飛知微は口を閉じ、かすかに声を出して笑った。


「なんだ」


「いえ。哥哥は、ずるくなりましたね」


「褒めているつもりか」


「はい」


「嘘ばかりつくな、気色悪い」


「ひどいな。俺が哥哥を欺いたことなんて、一度もないのに」


 欺いたことはないが、裏切ったことはある。分かっていたが、珍しく蘇承鈞はそこに触れてこなかった。


:::


 蘇承鈞が別院へ来る日が増えた。


 飛知微にとっては嬉しい限りだが、箱を抱えてくる日もあれば、袖に一冊だけ忍ばせてくる日もある。飛知微は卓の端に硯を据え、余白へ気づいたことを書きつけ、頁の間へ紙片を挟んで返した。

 何度目かに、蘇承鈞が茶葉の入った缶と小さな銅壺を持ってきた。井戸の水を自分で沸かすことができるようになった。淹れた茶の椀が欠けていたせいか、次には新しい上等な椀がこの狭い部屋に増えた。


「湯が熱すぎる。渋くなると言っただろう」


「良い加減が分かりません」


「お前の才能は偏りすぎだ。簡単だろう、覚えろ」


「むしろ哥哥に、茶を淹れる才能があったとはこれまで思ってもみませんでした」


「死ぬ気になれば、人間なんでもできる。お前は覚悟が足りない」


「では、殺されそうになったら頑張ることにします」


 不穏な会話を交わしながら、蘇承鈞は茶器を取りあげて、葉を入れなおしている。しばらく待ったところで芳醇な香りが室内を満たして、この静かな満ち足りた時間を、飛知微は目を閉じて味わった。

 言い合いになることも多かった。そんな時にも蘇承鈞は声を荒らげず、皮肉に理由を説く。誰の面目を立てる必要があり、背後に誰がいるのか、どこまでなら裁けるか。そういう話になると、こちらの勘定はいつも足りなかった。記録の綻びを拾うより、人の面目や利害を何手も先まで見通すほうが、ずっと難しい。


「納得が早いな」


「こういうことは、哥哥のほうが上手いです」


 蘇承鈞は何か言いかけて、やめた。それから帳面を袖へ入れ、椅子の脚を鳴らして立ち上がった。

 陽が落ちてから帰ることが連日続き、灯芯は月の半ばで足りなくなった。飛知微が棚に上げていた余りを下ろすと、蘇承鈞は無言でそれを見ていた。翌日の配給から、油と灯芯の量が増えた。


:::


 絹の件が片づいて数日後、内務府の太監が門を叩いた。皇帝の居所である養徳殿の西の暖閣へ、ただちに参じるようにとの下知だった。


「今すぐですか」


「そう仰せです」


 慌ただしい話だが、後宮の主のお召しとあれば仕方ない。飛知微は髪を解いて銅板の前に座り、白粉を延ばし、黛を引いた。紅は端まで塗らずに輪郭の内へ収める。蘇承鈞に教わったとおりにやると、たしかに顔の印象が変わった。


 暖閣の卓には、しばらく前に見覚えのある尚衣の帳簿が載っていた。


「面を上げよ。この幅を尺で記せというのは、そなたの案か」


 相変わらず好奇心旺盛な目をした皇帝が、楽しそうな顔でこちらに身を乗り出している。


「臣妾は、幅が揃っていないと申し上げただけです」


「では、書き替えの案はそなたではないのか」


「すべて、蘇公公が整えてくださったことです。臣妾は綻びがあるのに気付いたに過ぎません」


 皇帝は肘を突いたまま、脇に控えていた蘇承鈞のほうへ目をやった。壁際の男は表情を変えない。


「そうなのか、蘇承鈞」


「私の職責です」


「まあ、そなたはそうだな。……費氏、そなたはなぜ幅を見ることを思いついた。幅の違いは三寸から、ひどいものでは五寸ほどもあったらしい」


「数字の辻褄を合わせるのに、調整できる数がそこにしかなかったからです」


 皇帝のよく動く目が、面白そうにこちらへ据わった。


「妃嬪には惜しいと、前にも言ったな」


「勿体のうございます」


「まあよい。次もまた呼ぶ。朕の仕事も手伝ってくれ」


 次の召しは五日後で、その次はもっと早く来た。


:::


 もう何度目になるか分からない御前に、その日は西陽が傾いてから召されていた。


 窓の外が茜の色に染まっていたが、煌々と燈明に照らされた室内は明るく、昼と変わらない。飛知微は皇帝の傍らにある低い卓で、積み上げられた帳面の山に目を通していた。無心に文字を追うのはいつでも楽しく、頻繁に下賜されるようになった衣は柔らかくて、以前のように体をきつく締め付けない。

 皇帝は蘇承鈞に手伝わせながら、次々と書類を裁いている。飛知微は時々その横顔を眺め、同じ空間にいることにも満足していた。


 いつものようにそんな時間を楽しんでいると、寿康宮からの使いと名乗る声が聞こえ、御簾の内から側仕えが書を受け取り、主に手渡した。皇帝は受け取った書を開くと目を通し、溜息をついた後にしばらく黙っていた。


「父上は、匙を持つのも覚束なくなっている……、それにあの気丈な太嬪が取り乱して泣いているそうだ。蘇承鈞、そなた、今日はこちらはいいから姉のところへ行ってあげなさい」


「……恐れ入りますが、費答応を西の別院まで送り届けねばなりません。今宵の刻限を考えると、付き添いが必要です」


「答応の一人くらい、誰にでも送らせよう」


「私の管掌でございます」


「そうか」


 皇帝は何を考えたかやや首を傾げつつ、それでも頷いて、また書を開いた。

 太上皇の嬪は、蘇承鈞の姉だ。飛知微の記憶では、とても仲の良い姉弟だった。その女人が泣いているというのに、蘇承鈞がここを離れない理由は、一つしかなかった。皇帝の前で男の自分がへまをすれば、それは蘇承鈞の進退や命に関わる。だが後宮の答応として召されている以上、自分にはどうしようもないことで、考えることを諦めて、飛知微はまた書面に目を落とした。


 寿康宮の話は、それきり出なかった。


 卓の帳面に全て目を通したところで、飛知微は問われるままに答え、皇帝が書き取らせた。


「終いだ。よく働いた」


「恐れ入ります」


 皇帝は伸びをして、それから改めてこちらを見て、小さな卓を挟んで飛知微と視線を合わせた。落ち着いた威厳のある風貌の中で、大きな眼だけが面白そうにこちらを見ている。


 飛知微は卓の上に手を置いて座っていた。黄藤色の襦裙の袖から出しているのは指先だけで、耳では蘇承鈞のくれた銀の飾りが揺れているのが分かった。皇帝がこちらの卓の上に身を乗り出してくる。


「そういえば、そなたは朕の答応だったな」


「はい」


「なかなか美しいな。今まで考えていなかった」


 皇帝の顔が近づいてくる。飛知微は動かず、ただ教わったとおりに顎を引いて、両手を袖の内へ収めた。

 後宮の妃嬪は、全て皇帝の女だ。自分はこの人の側室で、こういうことは想定していなかったが、逃げる理由はどこにもなく、拒む必要も感じなかった。蘇承鈞がすぐ傍にいる以上、少なくとも止めるべき事態ではないのだろう。そう思うと身体の緊張が解けた。


 爪の先まで手入れの行き届いた滑らかな指が、顎の下をそっと撫でながら掴んだ。皇帝の手は乾いていて、思ったより熱い。押し上げられるまま顔が上を向き、灯の位置が視界の端で動いた。立ち襟の盤扣は上まで留まっていて、鹿皮の芯が入っているから、顎を上げても喉仏は見えない。それだけ確認して、飛知微は目を閉じた。


 親指が頬を緩やかになぞり、白粉の表面を撫でられる感触があった。指はそのまま口の端まで下りて、紅の輪郭を軽く押しながら、口の中へ入り込んできて、軽い塩味がした。


 白檀の香が近づいた。皇帝の呼吸が唇の手前で一度止まる感覚があり、それから柔らかいものが重なった。


 初めての口づけは、乾いていて、思っていたより温かい。押しつけられて、こちらの薄い唇が形を変えるのが、自分の顔でありながら他人の顔のように分かった。唇の感触が一度離れたので目を開けたら、皇帝の指がまだ顎を支えていて、もう一度、今度は深く唇が覆いかぶさってきた。香と、書の墨の匂いが一緒に鼻へ入ってくる。


 鼻から逃がした呼吸が妙な音を伴っていて、それとほとんど同時に、傍らで卓に何かぶつかる固い音が響く。だが、重なった口が解放されることはなく、蘇承鈞のほうを確認することはできなかった。



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