4.哥哥が優しい
御前から戻って四日目の朝に、皇帝からの下賜品が届けられた。 内務府の宦官が桐の箱を置いていったので開けると、墨が二挺と、筆が三本入っていた。墨は上等で、指で弾くと澄んだ音がする。とても良い品で、文字を好む身としては嬉しい限りだが、残念ながらこの答応の手元に硯はなかった。
飛知微は過去に未練はなかったが、かつて大切にしていた端渓の硯だけは惜しかった。自分の持ち物で唯一高価で、貴重な品だった。罪に問われて牢に放り込まれた時にも、それだけは手放さなかったのに、後宮で目覚めた時には失われていた。
失くしたものを惜しむという自分らしくない感傷を抑え、飛知微は箱の蓋を閉めた。良いものは使わずに仕舞っておいてもいい。いつか蘇承鈞に贈るか、残すことができるかもしれない。
その日から食事の盆が遅れるようになった。 朝は陽が昇ってから、夕は沈んでから届く。粥は冷めていて、縁のほうが固まり、碗ごと火鉢の灰に埋めて温めてから食べた。温め直した粥は甘みが強くなり、これは意外と悪くなかった。
そのうち、湯が届けられなくなった。顔馴染みになった気の利く宮女は姿を見せず、代わりに年かさの宮女が新たに門を出入りするようになった。盆の上げ下げだけで、口を開かず、顔も上げない。水は井戸があるから難儀はしなかったし、冷たくて目が覚めるくらいは構わない。
月の初めに来るはずの灯芯と油も届かなかった。午の明るいうちに縫い物などを済ませ、暗くなれば寝るという順にすると、朝の目覚めがむしろ早くなった。衣は屋外に干したところを灰と泥水がかけられ、青の襦裙が駄目になった。飛知微は井戸で桶に水を汲み、火鉢の灰を集めて灰汁を作り、襟から順に押し洗いした。泥は落ちたが、褪せていた色がそこだけ更に抜けて斑になった。自分の衣など見る人もおらず、見分けはつかないだろうと判断して、そのまま着ることにした。今後は部屋の中で衣を干せばいい。
その翌々日には、尚衣まで歩かされた。 門を叩いた若い宦官に、夏の衣を配るので受け取りに来るようにと告げられて、小半時かけて歩いた。宮女のいない身では自分で行くほかなかったが、尚衣の房で用件を言うと、そのような沙汰は出していないとすげなく追い払われた。応対した女官は迷惑そうな顔をしていて、こちらの名を書き留めもしなかった。
帰り道はまだ日が高く、石畳に撒かれた水も乾いていておらず、飛知微は自分の身に起きている一連の小さな災難を思い返しながら、ゆっくりと歩いた。自分の居所は調理をする御膳房から最も遠い一角だったから、配膳の順が少し変わるだけで簡単に粥を冷やして届けられる。
部屋に戻ってからもう一度思い返し、盆の届いた刻限、運んだ宮女の背格好、門を叩いた宦官を頭の中で整理した。七日分も並べるとある程度の規則性が見えてきて、炭庫の掌事が杖刑を受けて放逐された一件で窮した者と符合させる。筆も墨も使えないからただ思考の中に留めるしかないが、物事の原因を解くのは好きだった。
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蘇承鈞が来たのはその日の夕方で、閂が外から外れる音と共に深緑の袍が現れた。供は連れておらず、飛知微が弾かれたように立ち上がると、縫いかけの襟が膝から滑り落ちた。
「哥哥」
「油紙の代わりを持ってきた」
蘇承鈞は挨拶を返すこともなく卓へ近づき、袖から平たい包みを出した。飛知微がいそいそと受け取って開くと、薄く漉いた鹿の革が数枚入っている。柔らかく、新しい革の匂いがして、指で押しても跡が残らなかった。上等の品だ。
「これなら濡れても潰れないだろう。縫いつけるときは先に小さく穴をあけてから、糸を通すといい」
「覚えておきます。ありがとうございます」
西陽が壁の向こうへ差し掛かり、部屋の奥はもう暗い。蘇承鈞が鳳眼を眇め、その視線の先で卓の隅の灯明皿は乾いていて、灯芯も入っていなかった。部屋の梁には細縄が渡してあり、襦裙が二着かかっていて、青いほうは襟から胸にかけて色が斑に抜けている。
「暗すぎる。灯りはどうした」
「油と芯が切れています」
「月の初めに配られたはずだぞ。贅沢に慣れすぎた刑部員外郎様が、早速使い切ったか」
「そもそも届いてないですね」
蘇承鈞は縄のほうへ顎を上げた。
「それで、衣はなぜ中に干した」
「外に出しておいたら、汚されました。斑がひどいので、もう人前では着れませんね」
蘇承鈞は表情を変えず、暗がりの中で卓の前の椅子を引いて腰を下ろした。座ってくつろぐ様子は微塵もなく、妙に嬉しそうな飛知微の顔を鋭く見上げる。
「いつからだ」
「七日ほど前です。配給がこなくなってますが、食事だけはなんとか届いてますよ。粥は温めなおすと、意外といけます」
「余計な情報はいらん。ほかにはないのか」
「若い宦官に、夏の衣を受け取りに行くよう言われたんですが、嘘でしたね。門の内に籠ってばかりなので、小半時歩くのは気晴らしになってよかったんですが、尚衣で門前払いされました」
「その宦官が何者かわかるか」
「もちろん顔も名前も確認して記憶していますが、名は多分嘘でしょう。周成と名乗っていました」
蘇承鈞が舌打ちをする。堪え性のなかった彼の、昔からの癖だ。今もそうなのかは分からない。
「心当たりはあるか」
「さて、炭の件か、陛下や哥哥が声をかけてくださったことか。後宮で答応なんかが目立てば、身の程をわきまえるよう躾が必要なんでしょう」
「それで大人しく躾けられていたのか。なぜ訴えない」
「上奏をしたためようにも、紙も硯もないのです」
窓の外で鳥が一羽、間の抜けた声で鳴いて、壁の向こうへ抜けていった。飛知微は薄暗い中でも白く抜けたような蘇承鈞の横顔を眺めていた。頬の線が暗がりに溶けて見えなくなる前に、視界に焼き付けておく。
「哥哥」
「なんだ」
「哥哥は、俺が虐げられて喜ぶかと考えていました」
蘇承鈞は答えなかった。火の入らない灯明皿のほうへ目をやって、それきり動かない。
「哥哥が気に入るかと、そういう報告をしたのですが、ーーあまり嬉しそうじゃないですね」
「心から喜んでいるとも」
鼻で笑って立ち上がった蘇承鈞は、低い戸口に首がかからないよう僅かに傾けながら、それでも優雅に出ていった。その所作は一つ一つが美しく、違和感を抱く謂れもないまま、飛知微は柔らかい鹿の皮をそっと手のひらに握った。
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内務府の房には灯が入っていて、卓には帳が積んである。蘇承鈞は項目を確認して一冊を引き抜き、頁を繰らずに、控えている宦官へ押しやった。
「御膳房で、配膳の順を決めているのは誰だ」
「掌事の下の、周成という者でございます」
その名を聞いて、彼は顔を顰めた。飛知微に名乗ったのは偽りではなかったようだが、逆に隠す気すらないところに、答応という立場をどれほど侮っているかを表していた。
「その者は外せ」
「は……あの、周成は先月まで炭庫の」
「不始末が続いているな、報告をあげておこう。今後は配膳の順を日ごとに提出させろ。確認した者の名も入れて、札は月毎にこちらへ回せ」
「かしこまりました」
宦官が書き取るあいだに、蘇承鈞は別の帳簿を開いた。油と灯芯の割り当ての頁に碌な記録はなく、指の背で、その行を叩く。
「これは、どういうことだ」
「油は柄杓で汲むだけなので、その場で量って終わりにするのが慣例なのです。灯芯はその時に束で必要な分だけ手渡します」
「杜撰すぎる。今後は他の配給と同様に、記録して私の目を通せ」
「……はい」
「それから下位の妃嬪でも、内務府の札を持たない者に門を開かせるな。訪問も配給も、記名を徹底しろ」
「字の書けぬ宮女もおります」
「名前の文字くらい教えろ。無理なら、簡単な印でもいい」
その翌日には早々に御膳房の周成とやらを引き出し、背景を徹底して洗いだした。然程の因縁を持つ者はおらず、炭庫で手にしていた小遣いを失った周成自身の恨みと、中途半端な妃嬪――過去に数回皇帝に召された女達の小さな嫌がらせだった。
「周成の処分はどうされますか」
「あとで考える。……それより下位の妃嬪で、先月から配給の遅れを言ってきたところはあるか」
「四つでございます」
「他にもないか実地で確認して、不足があれば配給し直せ。記録を忘れるなよ」
宦官が下がると、入れ替わりに寿康宮からの使いが房の外に立った。三年前に体調を理由に退位した太上皇の熱が、相変わらず引かず、医坊から医官がまた二人回されたという。
太上皇の側に現在も唯一残る室は、蘇承鈞の同母姉だ。姉――太嬪からの手紙を確認して、蘇承鈞は宮女の割り当ての帳に、寿康宮へ回す数を書き入れた。
宮刑を受けた後、姉と顔を合わせた回数は片手の指で足りる。六年経った今も、姉にこの姿を見せることに抵抗があった。生き恥を晒して、それでも死ねず、飛知微への憎しみを燃やして生きている。だから、本当に生き汚いのは自分の方だろう。
使いが去り、自分も房を出る前に、卓の抽斗を開けた。書の下に、布に包んだままの石が入っていた。大きさのわりにずしりと重いそれを、地面に叩きつけて踏み躙ったのは、そんなに前のことではない。何故また拾い上げ、洗って仕舞っていたのか。
包みを開くことなく、蘇承鈞はそれを袖の内へ落とし込んだ。
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特に境もなく、飛知微の暮らしはいつの間にか元へ戻った。食事は朝夕とも刻限どおりに届き、粥は湯気を立てている。湯が来るようになり、月の半ばを過ぎて油と灯芯も届いた。灯芯は定めより多く、余った分は棚へ上げた。盆を運ぶ宮女は若い娘に替わって、門をくぐるなり名を名乗り、受領の札に名前を書いてくれと言う。
変わったのは西の別院だけではないらしい。娘の話では、御膳房と尚衣で人がいくらか入れ替わり、掖庭へ移された者もいるという。常在の居所では受け取りの手順が増えて、面倒がっているそうだ。札を差し出しながら、お手数をおかけしますと娘は申し訳なさそうに言ったが、手間が増えて困っているのは、どうやらこちらではなく彼女達だった。
「費答応」の名を陛下が覚えて御前へ召し、それを面白く思わない者が、手近なところから小さな嫌がらせを始めた。自分を注視していれば、不正な指示で動く者の名も、それを命じた者もいずれ明らかになる。蘇承鈞はそれを見つけて、整理したかったのだろう。
蘇承鈞の狙いがすっかり腑に落ちて、こんな変則的な手も自在に使うようになった彼に、感嘆と少しのさみしさを感じた。
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それから蘇承鈞が訪れたのは、油が届いて数日たったの午下がりだった。塀の外に供の気配があり、深緑の袍だけが内へ入って、後ろ手に門を閉める。その姿を見て、飛知微の心と声が弾んだ。
「哥哥!多少お役に立ったみたいで、嬉しいです」
蘇承鈞は足を止めた。
「何の話だ」
「炭庫も御膳房も、尚衣も人の入れ替わりがあったと聞きました。俺という撒き餌で、余計な膿が出せましたね」
「は……」
「違いましたか」
「――なるほど、その通りだな。お前のような奴にも使える場面があるものだ」
蘇承鈞は妙に納得した様子で頷くと、卓の上に袖から出した布の包みを放るように置いた。何も書かれていない帳面を数冊、こちらは丁寧に脇へ並べる。
「必要なら、また使うといい」
震える手が卓に伸びて、布をつかんだ。置かれたときの音と、包みの形で、飛知微にはもう分かっていた。分かっているから、声が喉につかえた。
巻きつけられた布を丁寧に剥がし、出てきた黒い硯を両手で包み込む。掌に載る小ぶりの端渓で、持ち上げるとずしりと重かった。この九年間、触れない日はないほど大切にしてきたものだ。
墨堂は磨り減って滑らかで、鋒鋩は端のほうにだけ残っていた。いつの間にか記憶にない、小さな欠けが海の縁にできていたが、自分の宝に間違いなかった。石は冷たく、その温度が何よりも手になじむ。
何か言おうとして、言葉が出なかった。飛知微は硯を持ち直し、もう一度縁をなぞって、それから少し滲む視界のまま顔を上げた。
「……これ、また、哥哥に貰えましたね」
「死人の懐から拾ったものを、寄越しただけだ」
「本当に、本当に嬉しいです。ありがとうございます」
蘇承鈞は鼻白んだ顔で、椅子を引いて腰を下ろした。そんな表情でも、横顔も、伸びた姿勢も美しい。
「そんな古い石ころが嬉しいか」
「はい。俺の人生で、いちばんいいものです」
「四万八千両も道楽した刑部員外郎には、安物だろうよ」
「貧しい生まれなので、金の使い方が下手なんです」
「俺の知ったことか」
飛知微は硯を卓の中央へ据えた。口元を綻ばせながら、その滑らかな表面を指で何度もなぞる。
「遊んでないで、その帳面にお前が見たこと、聞いたこと、見つけたことを書き上げておけ。見逃していることがあるかもしれない」
「はい」
下賜された桐の箱を開けて墨を一挺取り出し、井戸の水を汲んだ碗から数滴を海へ落とす。角を当てて静かに回すと、はじめは石と石の触れる硬い音がして、そのうちに音が丸くなった。香が立つ。海に溜まった墨を少しずつ丁寧に擦っていく。
それから筆をおろし、穂先を縁で整えて、紙の頭に日付を置く。字を書くのは、読むより好きかもしれない。夢中で筆を動かして紙を埋めていき、頁をめくる前に乾かす時間を待とうと顔を上げると、蘇承鈞が静かにこちらを見ていた。手元か、硯か、そのあたりに視線があるようで、座ったまま動かない。
「哥哥?」
かけた声に蘇承鈞が息を呑む気配があり、一呼吸置いてから口を開いた。
「お前、それを書いたら明日から――」
言葉はそこで切れた。飛知微は筆を止めて待ったが、その先が聞こえることはなかった。蘇承鈞は口を噤んだまま立ち上がり、何かを振り払うように頭を振って、部屋を出ていった。
「明日の朝までに仕上げて、内務府に届けろ」
「はい」
門が開いて閉じ、閂の落ちる音がする。遠ざかる足音と共に、弾んでいた心が凪へ戻っていった。
海の墨はまだ残っていて、飛知微は筆を持ち直し、頁を捲った。この硯は、六年間いつも代わりにそばにいてくれた。そばに戻ってきたから、もう失えない。




