3.哥哥が賢くなってる
炭の一件から数日が過ぎて、西の別院の暮らしは目に見えて変わった。朝に置かれる籠の炭は乾いていて、持ち上げても重みは以前の半分ほどしかない。火をつけても煙は立たず、部屋の隅まで白く濁ることがなくなった。井戸の縄が新しいものに替わり、破れたままだった窓は、内務府の下役が来て枠ごと紙を張り替えてくれた。飛知微が粥の汁で塞いだ油紙は当然のように火鉢に放り込まれ、修繕の跡に多少の愛着が湧いていたので、そこだけ少し無念だった。下役は下位の宮を順に回っているらしく、常在の居所では屋根の直しまでやらされるとぼやいて出ていったから、誰かの厚意で自分だけが世話をされているのではなさそうだった。
宮女はやはり置かれないが、男の飛答応にはかえって都合がいい。
先日もらった針と糸は、まず衣の襟に使った。立ち襟の内側へ、油紙を細く畳んだものを縫い込んで芯にする。こうしておけば襟が立って、盤扣を上まで留めれば喉の下は完全に隠れた。銅板の前で顎を上下させ、影の出方を確かめて、飛知微は自分の工夫に満足した。ちょっとした工夫と要領の良さが昔からの取り柄である。
午に近い頃、門が叩かれた。宮女がいないから、自分で応対するしかない。
内務府の太監は、顔を出した飛知微をまともに見ないまま用件を告げた。陛下が費答応に御下問がある、養徳殿の西の暖閣へ出るように、と下知される。
最下位の答応が指名で召されるのは、おそらく異例のことだろう。とはいえ、召された理由が自分の顔にあるとは、飛知微も考えなかった。おそらく炭の帳面についてでも、聞きたいことがあるのだろう。あの帝は、こちらの説明を面白がっていた。
太監が下がってしばらくすると、今度は門が叩かれることもなくまた開かれ、深緑の袍が入ってきた。後ろに宮女が続き、畳んだ衣と小箱を捧げている。
「費答応。御前へ出る支度を整えさせます」
「恐れ入ります、蘇公公」
宮女が卓に衣を広げて下がり、門の外で閂の落ちる音がした。蘇承鈞は袖を払って卓の前に立った。
「着替えろ。ここでいい」
飛知微は言われたとおりに帯を解いた。黄藤色の襦裙は答応の分限を出ない仕立てだが、支給された二着より布の手触りが柔らかかった。着つけていく間、蘇承鈞は卓に座って寛ぎ、視線だけがこちらの肩や腰の線を追っていた。事務的な、医者が骨を見る目つきを思わせた。
「腰の帯が低すぎるぞ。女が装う時の腰の位置はそこではない。掌一つ分上げろ」
「はい」
「肩を落とせ。袖を張るな。……手を出せ」
差し出した手を、蘇承鈞は掌を上にして返させた。右の中指に、筆を握り続けた者の硬い膨らみが残っている。蘇承鈞の白い指が、その上を一度擦り上げた。
「これは袖の内に隠せ。叩頭のとき、床につくのは指先だけだ。お前の手は、女にしては硬すぎる」
「男です。哥哥は、そんなところにも目が行き届くんですね」
「かかっているのは、お前の首だけではない」
それならなぜ自分を後宮に引き入れたのかと、飛知微は聞いてみたかった。放っておけば死罪だったのに、こんな危険を冒してまで、蘇承鈞はその手で自分に罰を与えたかったのだろうか。だが尋ねたところで、本当の答えが得られるとは思えない。
蘇承鈞は小箱の蓋を開け、白粉と紅を卓へ並べた。飛知微は銅板の前に座り、先日と同じ手順で白粉を薄く延ばし、黛を細く引いた。紅を口の輪郭より少し外へ広げて描いていると、背後から手が伸びてきて、布巾で右の端を無造作に拭われた。
「厚すぎて下品だ。かえって男に見える。貸せ」
「自分ではうまくできていると思いましたが、難しいものですね」
「女の化粧など、お前に経験があるのか」
真剣な顔で自分の唇を塗る蘇承鈞の表情が嬉しくて、化粧筆を持つ手元ではなく、顔ばかり見ていた。顎をつかむ手と、口元に触れる繊細な筆先の動き。自分が引き直した紅を、蘇承鈞は窓のほうへ顔を引いて向けさせ、光の下で検めた。それから飛知微の耳へ手をやり、耳朶をつまんで軽く引いた。軽く疼くような痛みがあり、飛知微はそこに傷があることを知った。
「耳朶の穴が塞がりかけている」
「……いつの間に開いたんですか、これは」
「お前が眠っている間だ。薬が効きすぎていたから、ちょうどよかった」
蘇承鈞は小箱の底から銀の耳飾りを出し、飛知微の掌へ落とした。飛知微は銅板を見ながら、自分でそれを耳の穴へ通した。押し込むと一瞬鋭く痛んだが、通ってしまえばどうということもない。
「歩いてみせろ」
言われるがままに部屋の端から端まで歩くと、途中で蘇承鈞に止められた。
「歩幅が広すぎて、裾が前へ蹴り出ている。半分にしろ。それから、喋るときには顎を引け。喋り方はそのままでいいが、言葉は短く切れ。そのほうがお前は女らしく聞こえる」
「注文が多いですね」
「俺の命もかかってると、言っているだろう。無駄口を叩くな」
飛知微は逆らうことはせず、言われたとおりに歩き直した。ただ構ってもらえることが嬉しかっただけだ。
蘇承鈞は首筋に目を止め、指の背で立ち襟の縁を弾いた。
「これは内務府の仕立てではないな。お前の手か」
「油紙を縫い付けてみました。食事の盆に敷いてあるんですよ」
「悪くないが、紙だと濡れれば潰れる。汗をかくなよ、今度代わりになるものを見つける。……行くぞ」
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東へ向かう道は、請安の朝に歩いたのと同じだった。壁が高くなり、瓦が揃い、掃き清められた石畳には水が撒かれている。違うのは、前を深緑の袍が歩いていて、それだけで歩調が弾む。
「哥哥」
「うるさい」
門を一つ抜けたところで、控えていた宦官が二人、供についた。彼らの姿が見えた瞬間に蘇承鈞の歩調が変わった。歩く幅がわずかに狭まって、袖が体の脇で静止した美しい姿勢に変わり、それきり口を開かなくなった。飛知微は半歩下がって、その背を見ながら歩いた。声は聞けなくなったが、見ていられる時間が長いのは、悪くない。
養徳殿の西の暖閣は思ったより狭く、窓が大きい。卓の上には帳面と書が幾重にも積まれ、隅の香炉から細い煙が上がっていた。皇帝は常服のまま片肘をついて書を読んでいる。蘇承鈞は自然と壁際に控え、飛知微は部屋の入り口で床に額づいた。
「面を上げて、こちらに来い。あの掌事は杖を打って宮の外へ出した。季家の出入りは止め、抜かれた分は他の備蓄から回した。……なかなか面倒だったようだが、これで同じことは起こらぬと思うか」
「炭かどうかは分かりませんが、似たようなことはまた起こると思います」
皇帝の目が書から離れて、こちらへ来た。
「ほう」
「悪い根を一本刈り取ったところで、同じ場所にまた根は生えます。倉から品を出す者と、記録する者、それを検める者が皆同じなら、幹は変わっていない。いつかまた金に困った者が、同じ手を思いつくでしょう。それに、杖刑を受けた者を見て周りが学ぶのは、往々にして手口の杜撰さであって、正しい心根ではありません。次の者はもう少し周到にやるでしょう」
皇帝はまた、あのよく動く目を面白そうに動かしながら、こちらを見つめていた。
「それは困るね。では、そなたならどうする」
「手間は増えますが、受け取る側でも量ります。倉の目方だけを信じず、宮側が受領する場でもう一度量って、量った者の名も必ず記録しておきます。それから、帳を記す者と、それを検める者を、同じところから出さないでください。身内を検めても、都合の悪い行を二人で書きかえるだけです。加えて、検分の日取りは不定期にしてください。月末と決まっていれば、月末だけ数が合うようになります」
「なるほど。それでも、まだ足りない様子だな」
「一人に同じ役を長く任せないことです。新しい目が入れば、欠点に気づく。不正や不備を見つけた者には褒章を与える定めにすれば、なお穴が塞げるでしょう」
皇帝はそれを聞いて笑い、肘を外して卓の書の山へ手を伸ばした。下のほうから紙束を一つ抜いて、こちらへ寄越す。
「蘇承鈞。昨日そなたが持ってきたのは、これだな」
「さようでございます」
「費氏、そなたがいま言ったことが、これにほぼそのまま書いてある。秤の購入、検分の日を伏せる件も、人の配置と転換、ついでに備蓄の埋め合わせもだ」
飛知微は、蘇承鈞のほうへ顔を向けた。壁際の男は皇帝の手元を見ていて、こちらへ視線を向けない。
仕組みや人を疑って対策するのは、昔から自分の役目だった。蘇家の荘園から回ってきた杜撰な帳面を前にして、若い蘇承鈞は半刻で飽きた。面倒だ、足りない分は俺が出す、と言って実際に私財を供してそのとおりにし、金の出所は誰にも追わせなかった。いま目を通した書面には、秤の数と、それに要する費え、人の配置を変える表、戸部を納得させるための文言までが、あらかじめ記載されていた。仕組みを考えることと、それを実行するのは別の能力であり、飛知微は後者が苦手だ。逆に昔の蘇承鈞は過程はどうあれ、自分の望む結果に導くのは上手かった。
「――費氏」
「……はい」
飛知微の返事が数拍遅れたことに、皇帝は気にとめる様子もなく、別の帳面をこちらへ手渡してきた。
「ならば、これはどうだ。薬庫のものだ。何か言うことはあるか」
飛知微は手に持ってそれを開き、表紙から頁を繰っていった。
「出納の署名と、検分の署名が同じ人間でございますね。名は違いますが、点の打ち方と、末の払いが同じです。……あとは、月の後半に出た薬が、どこも似通っています。高価な薬ばかりが出て、安い薬が動かない月があるのではないでしょうか。薬の値段に応じて、人が病むわけはありません」
「どこまで見た」
「四枚でございます。この先は、まだ何も」
皇帝は帳面を引き戻し、しばらく飛知微を眺めていた。
「妃嬪には惜しいな。男であったなら、手元に置いていた」
「勿体のうございます。臣妾は、昔から帳面を眺めるのが好きなだけでございます」
壁際で、衣と床が擦れる微かな音がした。蘇承鈞を裏切ることになった証拠も、その端緒は彼が見せてくれた帳面にあった。飛知微は振り返らない。
「そういう者は貴重だよ、特にこの朕には。……まあよい、下がれ。また呼ぶ。何か面白いものを見つけておけ、気に入れば何か下賜しよう」
叩頭して後ろへ下がりながらも、飛知微は衣から出すのは指先だけに保つことを忘れなかった。皇帝の女としてではなく、帳面を読む者として呼ばれる。好きな仕事だが、ここが後宮である限りおそらく厄介ごとは増えるだろう。
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暖閣を出て廊を渡り、宮門を二つ抜けたところで、蘇承鈞が供の宦官へ顎を引いた。
「先に戻りなさい」
足音が遠ざかり、廊の角から人影が消える。陽は高いのに、東向きの廊は影が長く、石が冷えていた。
「御前では、聞かれたことにだけ答えろと言ったはずだ」
「哥哥の言いつけは守りましたよ」
「お前は聞かれたことの倍を喋る。余計な案を出すな、気に入られてどうする」
「黙っていられない性質なんです、すいません」
蘇承鈞の足が止まった。過去に「黙っていられなかった」ことが何をもたらしたのか、二人とも分かっている。
「貴様はーー、よほど俺に苦しめられたいらしいな」
「哥哥の好きなように、なさってください。逆らいません」
「その呼び方はするな」
「いやです」
蘇承鈞は無言で、また歩き出した。飛知微は半歩下がって歩幅を合わせつつ、後を追った。
「哥哥は、あの案を昨日のうちに出していたんですね」
「当たり前だ。俺の管理下で不正など、本当ならこの手で縊ってやりたい」
「今の哥哥でも、そんなことを思うんですね。でも、意外でした。こういう処理は苦手でいらしたのに」
言ってしまってから、失礼なことだと気づいたが、蘇承鈞は咎めなかった。前を向いたまま、鼻で笑うような息をつく。
「六年もあれば人は変わる。そもそも苦手ではない、面倒だっただけだ。代わりにやるお前もいた」
飛知微は笑みをそのままに、答えずに歩いた。柱が一本、また一本と後ろへ流れ、角を曲がったところで西の空が開けた。
「機嫌が悪いんですか」
「よくなる要素がどこにあった。お前と話した後は、たいてい悪い」
「では、しょっちゅう話しましょうか。慣れるかもしれませんよ」
「慣れる前に、耐えられなくてお前の首を絞めるぞ」
「構いませんよ」
不穏な会話だが、蘇承鈞の丁寧な抑揚が剥がれて、昔のような掛け合いが嬉しかった。飛知微は笑顔になるのが抑えきれず、黙って歩いた。
分かれ道の手前で、蘇承鈞が足を止めた。
「もし陛下からの使いを名乗る者が来ても、内務府を通させろ。直に受けるなよ、分かっていると思うが内廷は危険だ」
「それが哥哥の狙いかと思っていました」
蘇承鈞は応えず、飛知微の耳に手を伸ばし、まだ痛みを伴って揺れる銀の飾りを軽く引っ張って、それから放した。
「この飾りは寝るときも外すな。耳朶の穴が塞がる」
それだけ言って身を翻し、東へ折れていった。飛知微はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、影の伸びはじめた石畳を西へ歩き出した。
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戻る道では、こちらを観察する視線が増えていた。
請安の朝には誰も顔を上げなかったのに、今日は御簾の内からも外からも、目がこちらを追ってくる。すれ違う宮女が足を緩めてこちらの顔を観察し、通り過ぎてから背後で囁きが起きる。声を潜めるつもりがあるのか、彼らの噂話は、飛知微の耳に驚くほどよく届いた。
ーーあれが費答応だそうだ。美しくないとも言えないが、大きいな。
ーー陛下に二回も召されて、御前で言葉を交わしたらしい。
ーー西の端の別院に、宮女もつけずに一人で置かれているそうだ。
ーー門まで蘇公公が自ら送っていったのを見た者がいる。
蘇公公の名が聞こえたところで、飛知微は笑顔になったが、それは誰にも気づかれなかった。
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翌朝、盆を運んできた宮女が、はじめて飛知微に口を利いた。
「費答応さま。お茶をお持ちいたしましょうか」
「では、湯だけくれるかな」
宮女は目を合わせて頷き、身をかがめて出ていった。盆の上では、粥に匙が立つほどに濃くなり、麦の餅が二つに、漬物の脇に胡麻の油が小皿で添えられている。誰がどう加減したのか、飛知微には分からない。蘇承鈞の采配なら嬉しいが、きっとそうではないのだろう。
午を過ぎた頃、垣の外に人の気配があった。常在付きらしい宮女が背伸びをしてこちらの門内を覗いていて、飛知微と目が合うと弾かれたように離れていった。しばらくして、今度は宦官が一人、用もなさそうな顔で門前を通り、こちらを見てから通り過ぎた。
日が西の壁へ退いたころ、飛知微は火鉢を部屋の中央へ引き寄せ、乾いた炭を一つ足した。暖かい部屋の中で、盆の油紙を細く畳み、芯をもう一枚重ねて作り、襟の内側へ縫い込んでいく。指の腹で針の頭を押し、布を送る単純な作業を行いながら、この工夫を褒めてくれた人を思い出した。耳朶の飾りが、火鉢の熱を受けて温まり、じんわりと痛む傷には蘇承鈞が引いた感触が残っていた。
最後の一針を結び、糸を歯で切って、飛知微は襟を膝の上で伸ばした。




