2.今日も哥哥は美人でした
朝、運ばれてきた粥椀の脇に、何か紙札が添えられていた。朔と望の日に、妃嬪は揃って皇后の宮へ請安に出る。今月の望は二日後で、費答応もこれに列せよ、とある。流麗な文字は内務府の手だった。同じ盆には、先日頼んでおいた針と糸のほかに、小さな漆の箱が載っていた。開けると白粉と胭脂、黛の墨、それに柄の欠けた刷毛が入っていた。人前に出るなら、この男のなりを誤魔化さなければならないのは確かだが、化粧品など頼んだ覚えはない。誰の差配なのか。眉の細い美しい横顔を思い描いて、飛知微は微笑んだ。そうであれば嬉しいと思う自分は、間違いなく恥知らずだ。
二日後の朝、いつも通りに飛知微は井戸で顔を洗ったが、いつもなら束ねたままの長い髪を、この朝は解いた。鏡は壁に掛かった銅板で、磨いても像が薄く歪む。自分の顔に興味などないから普段はそれでこと足りるが、化粧はどうだろう。恐る恐る白粉を薄く延ばし、黛は細く長く引いた。飛知微の目は生来大きすぎるほうで、二重の線が濃いから、これ以上足さなくて良さそうだ。厄介なのは口である。顔に対して妙に大きく、口唇が薄い。輪郭のとおりに紅を引けば男の口になるので、少し厚めに両端をあげて描いてみた。銅板の中の顔がどこか見覚えのあるような女に変わっていて、自分の絵心に満足する。
飛知微の背は六尺に近い。女としては高すぎるが、宮中には北方の出の妃嬪もいる。手足が長いのは袖と裾で紛れる。もともと喉仏は指で押せば分かる程度だったから、立ち襟の盤扣を一番上まで留めれば見えない。声も高く、敢えて作らずとも、少し掠れた女の声音に聞こえなくもないだろう。
支給された二着のうち、袷の襦裙のほうを着た。色は褪せた青で、刺繍は襟にわずかにあるきりだった。髪は与えられていた銀の簪一本で結い上げた。
銅板の中を最後に一度見て、飛知微は門を出た。
:::
飛知微の住まう後宮の西端から皇后の宮までは、歩いて小半時ほどかかった。
道を東へ行くにつれて、壁が高くなり、瓦が揃い、樹が手入れされていく。掃き清められた石畳に、朝の水が撒かれていた。色鮮やかな轎が二挺、飛知微が歩く横を同じ方向に通り過ぎていった。轎の脇には宮女が四人、後ろに宦官が続いている。歩いている妃嬪は飛知微だけのようだった。
宮の前庭には、すでに人が集まっていた。
位が上から順に、そのまま形になっている。四妃の宮の者は緞子の袍に金糸を使い、髪には点翠の飾りを重ねている。嬪の列はそれより一段軽く、それでも耳飾りが揺れる。貴人、常在と下るにつれて、色が沈み、連れている宮女の数が減る。答応の列に立つころには、供のいる者のほうが少なかった。
名簿を読む宦官が、一番最後に「費答応」と読んだ。誰も顔を上げなかった。前に立つ常在が一瞬だけ振り返り、背丈を見上げて、それきり前へ向き直った。
誰にも意識すらされないまま、飛知微は末席の杌子に浅く腰を下ろし、袖の中で手を組んだ。皇后への請安は、額づき、言祝ぎ、下がる。この場の礼法など知らないが、観察する限り、しなければならないのはそれだけで、目立たず上手く終えられそうだった。昔から要領だけは飛び抜けていいのだ。
:::
正殿の扉が開き、宦官が二列に分かれた。
先に入ってきた男は、他の宦官より頭一つ高かった。
深緑の袍に黒の帯、補子は隙なく水平で、袖口の折り返しも左右に対称で、艶のある黒髪を一筋の隙もなく冠帽に合わせて結い上げてあった。肩幅があり、袍の下の骨格が太いのに、静かに歩く姿は優美だった。前庭の私語が、蘇承鈞の歩みと共に、波が引くように静まっていく。
皇后付きの女官が身を屈めた。
「蘇公公」
蘇承鈞は軽く応じ、階を上がって皇后へ礼を執った。所作は流れるようで、儀礼に則っているだけだろうに、まるで舞踏のごとく美しかった。
白い。その肌が透き通るように白い。陽に触れることのない肌だ。
飛知微は、その白皙の顔を食い入るように見つめていた。
昔、陽に焼けて明るく笑っていたこの人を知っている。飛知微が受けた科挙の結果を知る放榜の朝、掲示の前の人垣に肩から割って入り、当の飛知微より先に名を見つけてくれた。声を張り上げて三回読み上げ、間違いないと喜び、それから飛知微の腕を掴んで人混みの外へ引きずり出した。掴む力に加減がなく、当の飛知微よりはるかに嬉しそうだった。汗に混じって微かに香の匂いがして、育ちの良い豪快さを感じさせた。顔立ちはその頃からもちろん整っていたが、それを美しいと思って眺めたことはない。あまりの朗らかさにいつも輝いていて、そんなことを思わせる隙さえない人だった。
いま階の上に立つ男は、同じ鳳眼と鼻梁をして、何一つ造形は変わらないのに、髪の一筋まで統御されている。
「――費答応、費答応」
脇に立つ宦官に名を呼ばれていたが、壇上の人に気を取られていた飛知微は、完全に返事が遅れた。
蘇承鈞がちらりと見下ろしてきて、視線が合う。その目に表情はなかったが、それでも嬉しい。
「……あ、はい」
「請安の列は、位の順です。末席のあなたは一つ後ろになりますよ」
「失礼しました」
飛知微は大人しく杌子を一つ後ろへ下げた。前に座っていた答応が、こちらを伺う気配があった。顔を上げた時には、蘇承鈞はもう違う方向に目を向けていた。
:::
請安が終わり、妃嬪が下がりはじめたころ、東の廊のほうで女の声が上がった。
人垣ができていた。梁常在の居所に働く者たちである。庭の隅に炭の籠が四つ並べられ、その前に若い宮女が膝をついていた。十六か七ほどで、肩が震えている。宮女を挟んで、炭庫の掌事太監と、内務府の下役が立っていた。
掌事太監が言った。
「先月、梁常在へ炭の払い出しは百斤だ。帳面にもそう記してあり、受領の印もこの宮女のものだ。それが望の日までに足らず尽きているのはおかしい。例年、常在の宮で人の数は変わっておらぬからな。ならば途中で盗った者がいるとしか考えられん」
「そのようなことはしておりません!」
「お前は先々月から、困窮した実家へ銀を送る伝手を探しておっただろう。宮女房の者に金策を頼んだと聞いているぞ」
「……それとは、関係のないことです」
宮女は迷わず、声を上げていた。顔を赤らめ、目に涙を溜め、それでも家族の恥を明かすまいというのか、幼い容貌に決然とした表情で否定している。
杖罰か、宮外へ出すか、という言葉が人垣のどこかで聞こえた。飛知微は籠の前に立ち、上に積まれた炭に手を伸ばした。
冷たく、指が黒に濡れる。一つ持ち上げると、大きさのわりに重い手応えがあり、割れば断面の内側に艶があった。粉炭が混じり、堅炭の白い層がほとんどない。
「その者を罰しても、炭は戻らないと思いますよ」
自分で思うより、飛知微の声は通った。人垣が静まり、掌事太監が振り向いた。
「――どなたです」
「費答応と申します」
「答応さまが、炭のことに何の」
飛知微は割れた炭を掌に載せて差し出した。
「湿ってるのです、この炭はかなり。乾いた炭は、この大きさならもっと軽い。籠ごと量れば規定に足りたでしょうが、その重さの何割かは、炭が吸った水ですよ。乾いた場所に数日置けば湿気が飛んで、そのぶん目減りします。減った炭など、はじめから存在しない」
誰も口をきかず、背後で衣の擦れる細やかな音がした。
「続けなさい」
蘇承鈞だった。丁寧な抑揚のない声に促され、飛知微は一度だけ振り返って微笑み、それから炭庫の下役へ向き直った。
「払い出しの帳面を見せていただけますか」
:::
帳面は二冊あった。倉庫の払い出し帳と、各宮の受領帳である。
飛知微は石段に腰を下ろして、膝の上で開いた。視線を行に走らせながら、慣れた手で頁を素早く確認していく。
「先月の払い出しは、下位の妃嬪の分がここに並んでいます。梁常在の宮に百斤、その下の常在の宮にも同じだけ、答応の宮にはそれぞれ六十斤。二十日ぶんの記載がありますが、重量がすべて端数なしで揃っていますね」
「規定どおりに量るのだ。当たり前だろう」
「炭は天気で重さが変わります。四日の朝は大雨でした。この帳面には、雨の記載も晴の記載もありますが、払い出しの数字が同じです。同じ量を同じ籠で出せば、雨の日は多少重くなるはずですよ。そんな違いが全くないなんてことは、あり得ない」
下役が、掌事太監の顔を横目でそっと見た。周りの様子に構わず、飛知微は次に受領帳のほうを開いた。
「しかも不足が出ているのは、梁常在の宮だけではありません。先月、下位の宮のうち五つで炭が期日前に尽きています。上位の宮には、そういう申し出が一件もない。上へ届く炭と、下へ届く炭は、別の計量がされているとしか考えられない」
下役が言った。
「答応さま、では、この宮女は」
飛知微は帳面を閉じ、目に涙を浮かべている若い宮女を見て、安心させるように微笑んだ。
「一人で五つの宮ぶんを、毎回同じくらいの割合だけ減らすなんて、可能だと思いますか。しかも自分が使える妃嬪の宮ではない場所で、人目も多い。敢えて言うなら、粗悪な炭に水を打って、目方を変えた者がいるんでしょう。帳面の上で規定量を納め、そのぶん浮いた乾いた炭か、その代金か、消えたものの行く先は分かりません」
肌寒い風が庭を渡り、籠の上の炭の粉が吹かれて地面に落ちる。青い顔をした掌事太監が何か口を開こうとして、それを蘇承鈞が低く通る声で遮った。
「炭庫を閉じなさい。今この時刻から、誰も出入りを禁じます。先月と今月の払い出し帳、受領帳、季家からの納入伝票を、写しではなく原本で私のところへ持ってきなさい。内務府の当直簿も一緒に」
下役が走り出した。蘇承鈞は後ろに控えていた宦官へ顔を向けた。
「炭庫の当直を、先月の分から担当した者を洗い出します。梁常在ほかの方々の不足している炭は、今日中に上位の妃嬪用の備蓄から回してください。理由を問われたら、配給の調整とお答えして」
掌事太監が一歩出た。
「蘇公公、そこまでのことでは」
蘇承鈞は、整った顔をそちらへ向けることもなく言った。
「あなたは残ってください。分かっていると思いますが、あなたも精査の対象です。……ああ、それから季家の者が宮門の出入りに名を出したなら、必ず門で止めておきなさい。止める理由については、こちらで書を作っておきます」
膝をついたまま涙を堪えている宮女に、蘇承鈞は目を落とした。
「疑いが完全に晴れたわけではないが、そなたの処分は保留にする。梁常在には私からお話ししておくから、今は不用意に口を利かずに待っていなさい」
宮女は蘇承鈞に何か言おうとして、声にならずに頭を下げた。飛知微は帳面を膝に置いたまま、そんな人々の様子を見つめていた。
炭庫を閉じ、人の口を止め、門を押さえ、不正による被害を埋め合わせ、後宮の外の采配までを手配する蘇承鈞は、この突然降って湧いた不祥事をすでに解決しているかのようだった。
この人は、あの明るくて単純で、優しかった人と、見た目以上に思考の道筋すら違っている。その変化がこうも見事に蘇承鈞を生かしていて、歓迎すべきことだとわかっていたが、それでも何かが胸を突き刺した。
:::
庭の奥で人が動き、宦官が一斉に膝を折った。
「陛下」
皇帝は皇后の宮へ来る途中だったらしい。常服のままで、供も多くない。三十半ばほど、背は蘇承鈞より低く、顔立ちは端正だが際立ったところのない人だった。男にしては大きな表情豊かな目だけが、落ち着きない様子でよく動いていて、皇帝は楽しげに蘇承鈞を見た。
「炭のことを聞いたよ。随分と面白そう……いや、愚かなことが起こったと耳に挟んでね。今年は炭の代が上がっているから歳出が多いと思っていたが、それが朕の後宮にすら届かぬとは、貧しい夫になってしまったものだ」
後宮の妃嬪は、全て皇帝の女だ。官吏であった頃には細かく見えなかった皇帝を間近にこっそりと見上げて、飛知微は自分の夫になったらしい人の顔を知った。
尤も、生涯に言葉を交わす機会すらない最下位の側室の立場ではある。
「内務を取り仕切る私の不行き届きでございます。仕組みの見当がつきましたので、速やかに押さえます」
「誰が解決したんだって」
蘇承鈞が言い淀み、わずかに間を置いてから答えた。
「……そちらにいる、費答応になります」
皇帝の目がこちらへ動き、飛知微は改めて深く叩頭した。この国の頂点に対する敬意は持ち合わせていたし、それ以上にこの慣れない女装をあまり検分されたくない。
「おお、随分と背が高いようだね。そなたは、炭の目方が水で変わるとどこで知ったんだい」
「西の別院で、湿った炭を配給されたのは……臣妾も同じでございました。あれには煙が出て閉口いたしましたので、陽気の日に石畳に並べて乾かして使っております。乾かすと軽くなりました」
「ふふ、それは牧歌的な光景だね。後宮にそんな景色があるとは、そなたの室を一度見に行くのもいいかもしれない。……それで、帳面の見方はどこで覚えた」
まさか答応の身で、皇帝と言葉を交わす日が来るとは思わず、半ば楽しくなって応える。自分のことを臣妾と称するなんて、何かの戯曲のようだ。
「父が県の下役でございました。小才ながら家で帳をつけるのを手伝っておりましたので、数の並びを見る癖があります」
皇帝の声が、面白そうに弾んだ。
「それほど、数字がおかしかったか」
「はい。綺麗な数字が並ぶ都合のいい帳面は、だいたい嘘です。改めてみるべきでしょう」
皇帝は一瞬黙り込み、それから吹き出すように笑った。
「答応が言うことなのか、それは」
飛知微は答えずに、叩頭した。
「名は」
「費氏と申します」
「覚えておくよ」
皇帝は蘇承鈞へ向き直った。
「蘇承鈞、後宮のことだ、始末は全てそなたに任せるよ。炭庫の一件だけで終わるまい。上には良い炭を回し、不平の言えない下々に水を売る仕組みなら、他にも余罪がありそうだ。絹や薬も同じ倉が管理していたようだね」
「該当する部の払い出し帳は、品目を問わず全て押さえてさせております。処分の範囲は、後刻お伺いを立てます」
「うむ」
皇帝が去り、妃嬪の列も崩れて、庭には炭の籠と、それを片づける下役だけが残った。
:::
廊の陰は日が届かず、午であるのにまだ冷えていた。人が捌けるのを待っていたのか、供もなく蘇承鈞が近寄ってきた。
また段差に座り込んでいた飛知微は立ち上がらず、彼にじっと視線を向けたまま、膝の上の帳面を整えて差し出した。だが受け取るべき手の方は苛立ちを隠さず、帳面ではなく飛知微の腕を掴んで、やや乱暴に立ち上がらせた。
「お前は、一度死んだ人間だという自覚があるのか」
「生きてますしね」
「今日一日で、皇后付きの女官と、内務府の下役と、掌事数人と、陛下にも顔を覚えていただけたな。目立っていたから、もっとか」
「……炭が、湿っていましたので。あの娘はおそらく無実でした」
蘇承鈞の声は低いままで、大きくならなかった。
「湿った炭は、黙って乾かせばいい。見知らぬ女は放っておけ。悪徳官吏がこんなところで善人ぶって、死罪の判決で自殺願望でも身につけたのか、この愚か者が」
「哥哥、心配してくれたんですか」
その呼び方と内容に、蘇承鈞の眉が大きく顰められた。面のようだった表情が一瞬で豊かになり、昔の彼の面影が覗く。
「――人前でそう呼ぶなよ。心配したのはお前のわけがない、迷惑を被る自分の身だ」
「そうですね、人前では蘇公公と申し上げました」
「常にそうしろ」
「いやです。哥哥と呼べと教えたのは、哥哥です」
「馬鹿が。いつの話だ」
飛知微は破顔した。笑うところではなかったかもしれないが、嬉しかったのだから仕方ない。蘇承鈞はそれを見て、何か言いかけ、そのまま押し黙った。
それから、無造作に白い手が飛知微に伸びてきた。冷たい指先が喉の下に触れ、ずれていた立ち襟と、外れた盤扣を戻して、その下に隠れた喉仏を強く押さえ込んでくる。
飛知微は動かなかった。蘇承鈞が触れる小さな体温を感じ取るように、目を瞑って静かに呼吸を逃した。動かないでいるうちに、唐突に蘇承鈞の手が離れ、飛知微の目が開く。
蘇承鈞は、受け取った帳面を袖に挟み直した。
「明後日には、新しい炭が入るだろう。お手柄の分だけ、西の院に乾いたものを回す」
「ありがとうございます」
「期待するな。他の答応と同じ量だ」
蘇承鈞は背を向けて廊を出ていった。日の中へ出たところで、袍の裾が一度だけ大きく揺れるのを、飛知微は見えなくなるまでじっと見ていた。
襟の合わせ目に蘇承鈞の体温が残っている気がして、封じるように片手を当て、感触を惜しんだ。




