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9.駄犬のせいで、何もかもうまくいかない

通して、蘇承鈞視点です

 養徳殿の東の書房は、日が落ちてからのほうが暑い。窓を開ければ蚊が入るので、皇帝は閉めさせたまま扇を使っていた。


 蘇承鈞は内務府から上がった伺いを順に読み上げ、それぞれの処理を述べて、最後の一枚を卓へ置いた。皇帝は時折扇の骨で頬を掻きながら、途中で二度ほど短く指示を出した。


「以上でございます」


「ご苦労。……なあ、蘇承鈞。そなた、費氏に情でもあるのか」


 扇を扇ぐ手は止まらず、皇帝はこちらを見てすらいない。


「ございません」


「そうか」


「必要な順を踏ませていただいているだけでございます。杖責を受けた妃嬪を、療養の届も明けぬうちに褥へ上げれば、後宮が騒がしくなります。費答応は入宮して日が浅く、後ろ盾もございません」


「なるほど。一応、筋は通っているな」


 皇帝は何故か笑いながら扇を畳んで卓へ置き、代わりに積んだ書の一番上を手に取った。


「まあよい。そなたがそこまで言うなら、しばらくは召さないでおこうか。費氏は話しているだけでも十分面白い。……税米の件は、あれの言ったとおりだった。積むときと下ろすときで、升の型が四種類もあったようだ。盗まれた米がなかったのは幸いだ。余計な罪人を作らずに済んだ。よく見つけたと伝えておきなさい」


「かしこまりました」


 蘇承鈞は身を屈めて一礼し、御前から下がった。殿閣を出て供と離れて歩きながら、肩が軽くなったことに気づく。

 これで当分の間、飛知微は伽に召されない。飛知微が皇帝の褥へ上がれば、帯を解かれた時点ですべてが露見する。自分の首も、地獄の中から六年かけて積み上げたものも、すべて同じ日に失われてしまう。その危惧から一時解放された。だから安堵している。


 そもそも、ここまで面倒を抱えてまで、飛知微を生かしておく必要があるのか。殺してしまえば、何もかも簡単になる。


 答えは出なかった。情でもあるのか、と掛けられた言葉が、しばらく耳から消えなかった。


:::


 夏の暑さがようやく去り、夜風に涼しさが混じり始めた頃、季節外れの強い雨が降った。

 風はなかったが、雨だけが夜通し続いた。翌朝には止んで蒼天がのぞいたが、後宮のあちこちで水が溢れ、内務府は人手を出しきっていた。皇后の宮、四妃の宮院、御膳房と薬庫、それに主要な廊と、優先すべき順は決まっていて、位が下がれば後回しになる。


 蘇承鈞は被害の見回りに出た。費答応を伴ったのは、連れていけば何かしら役に立つと分かっていたからだった。飛知微は水色の襦裙の裾を持ち上げて、水たまりを避けもせず、楽しそうについてくる。


「哥哥、北の裏道は水が膝まで来ていましたよ。みんな、濡れ鼠です」


「見にいったのか」


「今朝、うちが水浸しだったんで、どこから続いているのか気になったんです。あそこは道が低いですね。両側の宮院より、たぶん一尺くらい下がっています」


「荷を通す裏道は、宮院より低く作ってある。雨が降れば庭の水もそちらへ落ちるから、こういう時に水を集めて被害を防げるだろう」


「なるほど、よく考えられていますね。古くからあるせいか、後宮の造りはいろいろ面白いですね」


 北の外れの咸和宮まで来ると、西の院の門が開け放されたままになっていた。


 中庭が一面、水に沈んでいる。廊の板の上まで水が上がり、脇の部屋の敷居を越えて、内側の床が黒く濡れていた。宮女が四人、桶で水を掻き出している。廊の隅には卓と衣箱が積み上げられ、その上に油紙がかけてあった。


 姚貴人が階の上に立ち、裾を帯へ挟んで指図をしていた。


「そっちはもういいから、奥の書を先に出しなさい。濡れたら乾かしても駄目になるでしょう」


「姚貴人」


 女は振り返り、蘇承鈞を見て、それから隣の飛知微に目をやった。小ぶりな顔の中で、はしこそうな目が素早く何かを計算しているのが分かった。


「蘇公公。ちょうどよかった、人を貸してもらえます? と言っても、四妃の宮が先でしょうけど」


「順に回っております。こちらには午を過ぎてから人を出せると思います」


「そう、分かりました。忘れないでくださいね」


 それだけで話は済んだ。蘇承鈞が門のほうへ体を向けて引き返そうとした時、飛知微が庭の水を見たまま動かなくなっていた。大きな目が、水面を見つめて急に生き生きとした。


「哥……蘇公公」


「……なんですか」


「これ、おかしくないですか」


 飛知微は階を下りず、水面のほうを長い指で示す。


「一刻ほど、掻き出していますよね」


「そうよ。朝からずっと、全員でやってるのに、この有様なんです。水はけが悪すぎるわ」


 答えたのは姚貴人だった。飛知微は少し顔を上げ、そちらを見て微笑んで頷いた。。


「四人で桶をつかっていて、この広さなら、もう少し減っていていいはずです。それに、水の流れがありません。あの落葉、さっきからずっと同じところに浮いています」


 蘇承鈞は水面を見た。庭の中央に深い緑色の葉が一枚、ゆらゆらと浮いていた。


「石畳は、あちらへ傾いて造られていますね。水の中を踏むと、踵のほうがすこし沈むんです。だから水は西の隅へ流れてはけていくはずなんですが、そこが一番深くなっています」


 飛知微は履物を脱ぎ、襦裙の裾を膝近くまでたくし上げると、そのまま庭へ下りた。蘇承鈞の目の前で白い足が濁った水に沈み、脛の半ばまでが隠れる。


「費答応、何をしているのです。すぐに戻りなさい」


「どうせもう汚れています。見るだけですよ」


 飛知微は楽しそうに笑いながら、後宮の中とはいえ、足を剥きだしにして進んでいく。そのまま塀の際にしゃがみ込み、水の中へ手を入れて底を探っていた。しばらくして目を輝かせて顔をあげ、こちらを見た。その表情に、蘇承鈞の心が奇妙に軋んだ。


「ここに溝の口がありますね。石で枠が組んであります。蘇公公、この溝の先には何があるんですか」


「……西の塀の下を抜けるようになっています」


「その先は行き止まりですか」


「外の排水路へ合流します。最終的に後宮の水は全部そこへ流れるように造られています」


「うーん、その設計なら、この辺ですね」


 飛知微が、袖を肘まで捲り上げた。細長い腕が水の上に出て、蘇承鈞は舌打ちを堪えるのに苦労した。細いとはいえ、近くで見れば筋肉の付き方が女としては目立つ。


「誰か、細い棒を貸してください。火箸より長いものであればいいです」


 宮女の一人が物干しの竿を外して渡した。飛知微は「長いな」と苦笑しながら、片膝を水につけたまま、竿の先を溝の口へ差し込み、押しては引き、角度を変えてまた押し込んだ。


「費答応、人を呼びます。あなたがする仕事ではありません。こちらに来なさい」


「来るまで待つより早いですよ。見ててください、詰まっているだけですから」


 こちらの注意にも頓着せず、飛知微が何回目かに竿を引いたとき、水面に皴ができるように動いた。飛知微はもう一度深く突き込み、腕まで水へ入れて、掴んだものを引き上げた。泥に固まった落葉の塊で、中から折れた枝と、瓦の割れたものが飛び出している。


 途端に、溝の口が音を立てはじめた。低く、蜷局を巻くような音だった。庭の水面が中央から西の隅へ向かって沈んでいき、浮いていた葉がくるくると回る。廊の際の水が下がり、板の色が変わっていった。


「流れました」


 飛知微は立ち上がり、濡れた袖と裾を絞って、それから塀を見上げて満足そうに笑った。


「蘇公公、塀や庭の下にも水の道があるんですね」


「あるにはありますが、水を抜くためだけのもので、道というような広さではありません」


「地面の上だけ見ていても、足りないんですね」


 飛知微は塀の続く方向に目を向け、それから自分の足元と、庭の中央のあたりを見比べていた。何かを頭の中に勢いよく組み立てている表情だった。少し遠い目をするその顔付きは飛知微が昔からよくするもので、蘇承鈞はその頭の中で何が起こっているかよく知っていた。


「――費答応」


 一度では、返事がない。


「費答応、早く袖を下ろしてください」


「……あ、はい」


 ようやく応じた飛知微は、まだ茫洋とした目をしていた。


:::


 姚貴人が階を下りてきて、水の引いた庭を一度見渡してから、濡れた衣の飛知微の前に立った。匂い立つような華やかな美女で、並ぶと妙に目を引いた。蘇承鈞はそれが気に入らなかった。


「あなたが、費答応ね」


「はい。ご挨拶が遅れました」


「そんなことはいいの。いま何をどうやって分かったのか、教えてもらえます?」


 姚貴人の弾むような問いに、飛知微はにこやかに説明している。掻き出す速さと水の減り方が合っていないこと、石畳が西へ傾いていること。姚貴人は途中で口を挟んだ。


「じゃあ、去年の秋に妾の廊が水に浸かったのも、同じ理由かしら?」


「たぶん。ここは木が多いから、雨のたびに葉が溝へ落ちて溜まったんでしょう。こまめに取り除かないと、大雨のたびにこうなります」


「嫌だわ、最低ね。誰に言えば直るの、これ」


「内務府で今後、対応いたします。届けだけ提出してください」


 蘇承鈞が答えたが、姚貴人は食い入るように飛知微を見つめたまま、そちらを振り返らずに頷いた。


「わかりました。ちゃんと書いて出します。……ねえ費答応、あなたとっても背が高いのね。羨ましい」


「よく言われます。妃嬪には、あまり向いてないですね」


「私は踏み台がないと棚の上に手が届かないの。そこの、二段目のところ」


「これですか」


 飛知微が手を伸ばして箱を下ろすと、姚貴人が声を上げて嬉しそうに笑った。飛知微も、応じるように微笑んだ。それから二人で、木を切るか溝に格子を入れるかという話をはじめた。姚貴人は途中から供の宮女を下がらせ、階の縁に腰を下ろして飛知微を見上げていた。話し方はあっという間に砕けて、蘇承鈞の方を気にする様子もなくなっている。


 蘇承鈞は無表情に、水害で荒れた庭を眺めるように首を巡らせた。


 最初にこの女が費答応へ興味を持ったのは、皇帝のお気に入りの妃嬪を取り込むためのはずだ。これまでも下位の貴人の割に立ち回りが上手いと認識していたし、そこには何の問題もない。だがいま階で飛知微を見上げる表情は、そういう顔ではなかった。


 飛知微を気に入っている。それも、かなり。


 不愉快だった。

 姚貴人は勘のいい女だ。近づけば、いずれ飛知微の正体に気づくかもしれない。それに、飛知微があんなに楽しそうにしているのも気に入らない。

 自分は飛知微に地獄をみせるために後宮へ入れたのであって、友人を作って笑って過ごす姿を見るつもりはない。


 それだけのことだ。


「費答応、そろそろ参りましょう」


「あ、はい」


「待ってください。蘇公公、この人とお茶したいの」


「私は仕事がございます」


「蘇公公は行っていいですよ。費答応に聞いているの」


 飛知微が振り返ってこちらを見た。蘇承鈞は一度だけその顔を見返し、否定も肯定もせずに、門のほうへ歩き出した。


「あまり長居なさらぬようにしてください。日が傾く前にはお戻りください」


:::


 その後の宦官の報告では、費答応は一刻ほど西の院にいた。二人とも終始笑っていたという。飛知微は帰りに包みを二つ持たされて、一つは菓子、もう一つは新しい手巾だった。


 夜、蘇承鈞は西の別院へ寄った。


 飛知微は上衣を脱いで火鉢の脇に座り、平たい包みを膝に広げていた。杏を蜜で煮たものが油紙に並んでいて、指でつまんで食べている。行儀が悪いのは今に始まったことではない。


「哥哥。これ、甘いですよ」


「いらん。……姚貴人に近づきすぎるな」


「どうしてですか。いい人でしたよ」


「あの女は頭が切れる。何度も会えば、そのうちお前に違和感を持つぞ」


「ああ、それは分かります。あの人はかしこい。でもせっかく親しくなったのに、残念だな」


 飛知微は素直に頷いて、赤い舌がぺろりと指を舐めた。


「一刻も何を話した」


「哥哥の話ばかりですよ」


 飛知微が綻ぶような笑顔になり、こちらを見上げる。蘇承鈞は、そのまま椅子を引く手を止めた。


「姚貴人が言うんです。蘇公公はとても綺麗だけど、少し怖い、有能すぎて何を考えているか分からない、って。だから哥哥がちゃんと優しいことを、きちんと教えておきました」


「……お前は、本当に余計なことしかしないな」


「哥哥が優しい人なのは、嘘じゃないでしょう。俺が例外なだけです」


 飛知微は笑っていた。天気の話をするのと同じような調子で、あるがままを受け入れるように、穏やかな声をしている。


 そして、それは事実だった。蘇承鈞は彼を虐げるためにこの別院へ置いたのであって、それを本人が正確に理解していることは、むしろ都合がいい。


「後宮って、思っていたより面白いですね」


「俺の前で、お前に楽しむ権利はない。弁えろ」


「分かってますよ。俺が楽しんじゃいけないことくらい」


 飛知微は油紙の端を折って、長い指で杏をもう一つつまんだ。


「でも、死ぬはずだったので。今は人生のおまけなんですよ。哥哥がいて、俺と時々話してくれて、もうそれだけで俺の望みは全部叶ってしまって、すいません」


 だから何をしていても楽しいんです、と呟いた声は、本当に軽い響きだった。皮肉な色もなく、飛知微本人の中では、たぶん本当にそういう扱いなのだろう。


 無性に腹が立った。死罪のための牢から引き出したのは蘇承鈞だ。名簿を書き換えるにも、死んだ女の名を用意するにも、後宮に運び込むのにさえ、それなりの苦労はあった。それを、飛知微に余り物の時間として扱われる筋合いはない。


「哥哥、聞いてます?……そうだ、姚貴人が今度は棚の高いところを取りに来てくれって。それくらいなら手伝ってあげ――」


 蘇承鈞は、無言で距離を詰めた。


 飛知微の膝から油紙が落ちて、杏が二つ三つ床へ転がっていく。その顎に手をかけて上を向かせ、そのまま口づけた。


 唇が当たった瞬間に、自分が何をしているかは分かった。勢いが強すぎて、歯がぶつかる。顎を掴んだ指の下で骨が動き、飛知微が喉を動かしたのが伝わった。


 それでも離さなかった。


 掌の下の皮膚は白粉の残りでざらついていて、その奥に体温を感じた。唇は冷たいのに柔らかく、果実と蜜の匂いがする。唇の向こうで、飛知微が呼吸を止めているのが分かった。腕も肩も動かない。嫌がる気配は、どこにもなかった。


 顎を掴んでいた指の力を緩める。飛知微の頭がわずかに傾いて、それに追いかけるように、蘇承鈞はもう一度、今度は柔らかく唇を押しつけた。この二度目には、たしかに自分の意志が混じっていた。それでも、なぜそうしたのかは分からなかった。


 飛知微の睫毛が動き、鼻から息が漏れた。離れかけたその唇を無意識に舌がたどり、砂糖の味が残る。


 蘇承鈞がようやく顔を離した時にも、その手はまだ顎を捕まえていた。吐息のかかる距離で、飛知微がこちらを見上げている。


「……哥哥?」


 その問いかけに、蘇承鈞自身も答えを持っていなかった。


 蘇承鈞は手を引いて、上体を起こす。飛知微は固まったように、まだ動かない。先ほど落ちた杏の一つが火鉢の脚のところまで転がっていて、潰れた果実の匂いが部屋に広がっていた。沈黙が長くなり、どちらも次の言葉を探しているようだった。


「……油紙を拾え。蟻が来る」


「はい」


 飛知微はその言葉にようやくぎこちなく動き始め、素直に手を伸ばして、床の杏を拾い集めた。蘇承鈞はその黒髪を上から見ていた。何か言うべきだと思ったが、言うべきことがまったく思い浮かばなかった。


「明日は北の見回りにいく。辰の刻に迎えに来るから、準備しておけ」


「分かりました」


 蘇承鈞は部屋を出て、外から門の閂を落とした。石畳を歩き出してから、なぜ朝から飛知微と見回りする必要があるのかと、我に返った。舌の先に、まだ砂糖の味が残っていた。




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