10.駄犬の躾がなっていない
辰の刻を前に西の別院へ着くと、飛知微は淡青色の便服でもう身支度を整えていた。振り返った拍子に、襟元から白く細長い首筋が覗いた。
「哥哥、早いですね」
「そうでもない、もう刻限だ」
「今朝は早く起きて、昨日の杏が落ちたあたりを洗ってたんですよ。もう少し時間があると思ったんだけどな」
蘇承鈞はそれに答えずに室内へ入った。飛知微が後ろ手に扉を閉め、いつものように両腕を軽く広げて正面に立つ。外へ出る前にこうやって体を確認することが、この半年で二人の間の当たり前になっていた。
胸の詰め物の位置、腰紐の高さ、尻の綿入れの固定、衣の線、襟の鹿皮と喉元の盤扣。順に見て、必要なら衣に手を入れて直す。飛知微は骨が細いわりに背が高く、肩の幅と首の長さが目につく。そこを衣の襟と髪でうまく誤魔化すのは、手慣れたものだった。
蘇承鈞は淡青の胸元へ手を伸ばして、途中で止めた。
昨日、この男の顎を掴んで口づけた。最初は歯が当たるほど強く、それからもう一度、柔らかさを確かめるように触れ合わせた。指にはまだ、白粉のざらつきと、細い顎の骨の感触が残っている。
余計な記憶が、手元を乱した。
「哥哥?」
「……喋るな。じっとしていろ」
掌を飛知微の胸元に差し入れて、上から押した。詰め物は適度に柔らかく、動かない。いつもならここで斜めから、脇の下の当たりまで手を入れて掴んで確かめるところだが、今日の蘇承鈞はそのまま手を引いた。腰紐は目で見て高さを確かめ、尻の綿入れには触れなかった。触らなくても、歩けば分かるはずだ。今朝はただの見回りで、皇帝に呼ばれたわけでもない。
顔を上げると、飛知微が首を傾げてこちらを見ていた。喉の線が動いて、白粉の際で肌の色が変わっている。唇には紅が引いてあり、妙に艶やかだった。昨日、そこには砂糖の味がした。
「終わりですか。今日は早いですね」
「……お召しがない日まで、いちいち細かくやってられるか。大体問題ないだろう」
「俺の腕が上がったということなんじゃないですか」
飛知微は満足そうに笑うと袖を直して、こちらを見上げてきた。明るい大きな目から視線を逸らして、蘇承鈞は足早に部屋を出た。
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後宮の北側は、まだ水が完全には引いていなかった。雨が止んで一日以上経ったが、各庭のあちこちに浅い水たまりが残っている。内務府の差配で入った人夫が二十人ほど、崩れた土留めを直し、溝の泥を掻き出していた。蘇承鈞は掌事を呼んで進み具合を聞き、瓦の割れた廊を書き留めさせていく。
外側の水路については、あとで宮門を出て見に行くつもりだった。後宮の門を出入りできる腰牌を持つ宦官は数人しかおらず、それなら自分で行くのが早い。
その間少し離れて、飛知微は一人で庭の水と、水路の流れていく方向を見ていた。蘇承鈞が近づくと、水面に顔を向けたまま問いかけてくる。
「蘇公公。この水はどこへ流れていくんですか」
「北の庭の水は、まとめて東の池に流れ込むように造られています」
「これだけの水量で、そこは溢れないんですか」
「一定まで溜まると、池の脇から水が抜けるようになっています」
飛知微は頷きながら、茫洋とした表情で水路に沿って歩き出した。この状態になった飛知微には、昔からこちらの姿があまり見えなくなる。水路の角で溝の縁にしゃがんで水に指を入れ、流れの向きを確かめる後ろ姿を、蘇承鈞は追う。朝に自分の手が整えた襟から、傾げた首のうなじが見えた。
「ここ、東へ向かって流れていますね」
「溝の底に緩い傾きを作って、そういう流れになるよう造ってあります」
「では、この先はどこへ」
飛知微は言い終わる前にもう歩きだしていた。廊を回り、石段を下り、池の東端までふらふらと夢見るような足取りで、水面の高さと岸の石組みを見比べていた。雨の後で水は濁り、岸の草の付き方から、いつもより高いところまで来ているのが分かる。
「昨日、姚貴人の院の水は西の塀の下へ抜けていました。ここの水は東の池です。全部が同じところへ流れるわけじゃないんですね」
「後宮は中央の宮路を少し高く造ってあるんです、そこから東西へ水を落としている。北と西の水は西の大きな水路へ、東と南の水は池へ集まります」
「じゃあ池の水も、最後には塀の下から内廷を出ていくんですね」
「そうです」
飛知微は池の向こうの塀を見た。それから振り返って、いま歩いてきた道の傾きを目で辿り、また塀を見た。袖を肘まで上げたままだったので、蘇承鈞は「袖を」と言おうとして、飛知微の指がまた濁った水に浸かっているのを見た。細長い指の関節に泥が乗っていた。
「蘇公公。塀の外の大きい排水路は、この辺を通っていますか」
飛知微が塀の向こうを指した。宮牆の外側、北東の角から南へ下る筋のあたりだ。
「……なぜそう思うのですか」
こちらを見て嬉しそうに笑う飛知微の眼は、もういつもの好奇心の光を取り戻していた。思考の海から戻ってきたらしい。
「地面の高さがこちらより低いでしょう。池から出る水路が塀の下を抜けているなら、外側も同じ等高の場所に出るはずです」
正確だった。外の水路は、まさに飛知微が指した場所を通っている。
蘇承鈞はその問いに答えなかったが、そもそも飛知微はこういう問題を間違えない。後宮の地理も、その地面の下がどうなっているかまで、この男はもう分かっている。
「そんなことより、袖をちゃんと下ろしてください、費答応」
「あ、はい」
「それから、水の中に手を入れるのはやめなさい。人が見ています」
「見られても別に困りませんよ」
「あなたも後宮の一員です。今は人夫や職人も入っているんです、あなたのせいで彼らが罰せられますよ」
その言葉に、飛知微が声を出しても笑った。彼にしてみれば、自身も人夫たちもそう変わらないつもりなのだろう。だが、その楽しそうな響きが妙に色めいている気がして、蘇承鈞は男たちの視線がこちらを向いていないか振り返って確かめた。
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別院まで飛知微を送り届け、供を先に返した。この後は、しばらく避けていた姉からの再三の呼び出しに負けて、訪ねるつもりだった。
飛知微は汚れた手と足を洗うと、濡れた上衣を脱いで、傍らの火鉢で湯を沸かそうとしていた。蘇承鈞は椅子に腰を下ろして、明日以降の見回りの順を口にした。飛知微は白い衣の背を向けたまま「はい」「分かりました」と素直にうなずいている。
「哥哥、茶を淹れます」
「いらん。この後、寄るところがある」
飛知微が振り返った。膝をついたまま上目で見上げてくる顔に、崩れた黒髪が一房、頬の横に落ちていた。
思っていたよりも、距離が近かった。話が途切れて、蘇承鈞が身をかがめ、その顎に手をかける。火鉢の熱で、肌は汗ばんでしっとりと濡れていた。
そのまま、昨日と同じ場所に唇を重ねた。
今度は歯がぶつかることもなく、飛知微は目を閉じ、少しだけ首を傾けてこちらに合わせてくる。唇はやわらかく、昨日より温かかった。目は開いたまま、瞼を閉じた飛知微の顔を見つめていた。細い鼻梁を抜ける息がこちらの唇に当たる。
途中で、自分が何をしているのかが、遅れてついてきた。
たぶん正気ではなかった。それを示すように、飛知微の薄い下唇を嚙むように唇で挟み、その感触を確かめる。「ん……」と違和感を訴えるように鼻から抜けた声が聞こえ、同じ声音が皇帝の腕の中から聞こえた日を思い出して、軽く歯を立てた。
ようやく顔を離した時、飛知微は目を開けてこちらを見つめていた。その黒い瞳にいつも浮かんでいる弾んだ光が、今日はやけに落ち着いている。
「哥哥」
「……なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
飛知微の声はいつもより淡々としていた。
「宦官になっても、性欲がなくなるわけじゃないんですよね?」
蘇承鈞は手を離した。
「哥哥がそういうことで困っているなら、俺でよければ好きに使ってください。俺は逃げませんし、哥哥以外と話すこともほとんどない。ただ、女人ではないので、そこは希望に沿えませんけど」
真面目な顔だった。悪意も、揶揄も、嫌悪もない。帳簿に不備を見つけたときと、まったく同じ顔だった。
「……貴様は、俺を何だと思っている」
声が低くなり、飛知微の襟を掴んで、睨みつける。
この男は、自分が宮刑を受けた身で欲を持て余し、手近な相手で始末をつけようとしていると思ったのだ。ひどく屈辱的で、だが確かに、そう見えておかしくないことを二日続けて自分はやった。
息が詰まって、喉が低く鳴った。それを怒りと捉えたのか、飛知微の眉尻が下がっている。
「すいません」
飛知微が言った。
「俺が勝手に、そういう相手ができると思ったのが失礼でした。哥哥なら、今でもそういう相手に困りませんよね。出過ぎたことを言いました」
驚くほど、噛み合わなかった。
「二度と、聞きたくない」
蘇承鈞はつかんだ襟を突き飛ばすように放して、部屋を出た。憐れまれた。
飛知微に屈辱を与えたかったのに、今それを味わわされているのは自分の方だった。こめかみが痛んだ。何より腹立たしいのは、それでもあの唇の感触が消えないことだった。
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寿康宮に着いた時にも胸のうちはまだ治まっていなかったが、漂う薬の匂いが気持ちを無理にも静めてくる。
太上皇の熱は十日下がっていないと聞いていた。医坊から回した医官が、毎日交代で詰めている。蘇承鈞は寝所に礼だけとって、偏殿へ向かった。
姉の蘇承瑛は窓際に座っていた。きつく結い上げた髪には飾りも少なく、化粧の薄い姿は疲れ切っているように見えた。今の自分と並べば姉弟だと誰にでも分かる顔で、幼い頃は二人とも母親似といわれて育った。太陽の下でばかり過ごしていた時分は似ていると感じることも減っていたが、今また互いの写し身を見るように似ている。
だからこそ、今の顔をこの人に見せるのが嫌だった。
「承鈞」
「姉上、ご無沙汰しておりました。ご心労が深い中、お慰めにも伺えず、申し訳ありません」
そう挨拶したところで、奥から子供が走り出てきた。五つになる皇子は、くっきりとした大きな目をしていて、自分たちより今の皇帝に似ている。小さな両手に紙を一枚持って、真っ直ぐこちらへ向かって来る。
「舅舅、これ、見て。わたしがかいたの」
「殿下、走ってはいけません」
乳母が追いかけてくる。紙には子供らしい字が二十ばかり並んでいた。太い線と細い線が混ざっていて、下のほうは墨が足りていない。
「筆を立てて持つと、お上手に書けますよ。ですが、すでにとってもお上手ですね」
蘇承鈞は膝をついて、子供の手に自分の手を重ね、筆の持つ形を作ってみせた。皇子は真面目な顔で頷き、それから紙を取り返して奥へ走っていった。
「お前は、相変わらず子供の扱いが上手ね。私の小さな殿下は、褒められると同じ字ばかり書くのよ」
承瑛が笑って、乳母に下がるよう合図をした。二人になると、笑いは消えた。
「太上皇は、もう長くていらっしゃらない。お前も分かっているでしょう」
「はい」
「あの方がいなくなれば、私の殿下は、陛下からどう見えるかしらね」
「弟君ですね」
「とぼけないで。こう言っていいのよ、陛下の唯一の弟ですってね。他のご兄弟方がどうなったか、知らないとは言わせない」
蘇承鈞は否定しなかった。姉の見立ては正しいが、だからと言って彼に口に出せることではなかった。
「私は、私の殿下ためなら何でもする」
承瑛は窓の外を見た。庭に人はいなかった。
「……あの時、あの男が余計なことさえしなければ、蘇家が後ろ盾になってくれたのに」
「──姉上、これは蘇家が罪を犯した結果です」
「分かっている。そんなこと、何度も言われなくても分かっているわ」
声が少し高くなって、すぐ戻った。
「それでも、あの時でなくてもよかったでしょう。私はあの時、身重だったのよ。父上も兄上たちも一気に捕らえられて、あなたまで引き立てられた。次は自分と腹の子だと思って、毎晩床につくこともできなかった。……私の殿下は月足らずでお生まれになったの。ひと月も早く。今こうしていらっしゃるのが不思議なくらい」
「姉上」
「あんなにあっさり処刑されるなんて、許せるわけがない。もっと苦しんで死ぬべきだったわ。あなただって、あの男のせいで──」
「やめてくれ」
承瑛は口を閉じた。姉は聡明な女性だったが、今は疲れすぎている。ただでさえ、折につけて飛知微への恨みを口にするのに、今日は止まらない様子だった。
姉は興奮して荒い息をついていたが、しばらくして、卓の茶碗を手前へ引いた。
「ごめんなさい」
「いえ。……今はうまくやっています。職も、暮らしも。こうやって姉上に会って、小さいながらも便宜もはかれるでしょう」
「そうね」
それで話は終わるはずだった。だが承瑛はまだ庭を見ていて、独り言のように続けた。
「私は昔から、あの男──飛知微が気味が悪かったの」
蘇承鈞は姉を見た。
「あなたは可愛がっていたわね。拾ってきて、飯を食べさせて、字まで教えて。あんな野良の汚い子供、私は反対だったわ。でも、あなた、言い出したら聞かないから」
「……とても賢い子でした」
汚れて伸びた髪の中から覗く、きらきらと輝く大きな目を持っていた子供を思い出す。
「賢かったわね。何でもすぐ覚えて、異常なくらい。だから怖かったのよ。あの男、あれだけ家の中で殴られ蹴られて、なんで出ていかないのか分からなかった」
「……は」
蘇承鈞は答えられなかった。
「あいつは、俺が弟のように扱って」
「もとは、ただの流人の子供でしょう。あなたが屋敷にいない間はひどかったわよ。私が見た時には、馬番から井戸の中に蹴り落とされてた。その時は流石に人を呼んだけど、今思えば放っておけばよかった」
「それは」
「さっさと出ていけばよかったのよ。お前があんまり可愛がるから、妬まれたんでしょう。厨でも嫌われてたから、碌な食事もなかったでしょうに、居座って、何年も。私はそれが不気味で仕方なかったわ。あれだけのことをされたら、恨みを返そうと普通は思うもの。実際その通りだったわ」
承瑛は茶を一口飲んだ。
「あなたの前でだけ、ずいぶん楽しそうにしていたけれど」
蘇承鈞は黙っていた。姉が、誰の話をしているのか分からなかった。飛知微は幼い頃から、自分が可愛がり、手塩をかけて教育を受けさせ、官吏へと育て上げた。蘇家から出世させ、恩義を感じているはずの身だ。
それが、殴られていた、蹴られていた。屋敷の中で、使用人に、自分の見ていないところで。
小さな頃の飛知微を思い出そうとした。出てくるのは、本を渡したときに口を開けたまま固まっていた顔だ。廊下を歩けば、いつもまとわりついてきた。厨から饅頭を二つ持ち出して分けてやると、両手で受け取って笑った。いくら食べさせても全然肥らなくて、そのくせ食べたがる量は人一倍だった。
庭で蘇承鈞が剣を振っていると、石段に座って目を輝かせ、何刻でも見ていた。そそっかしいのか怪我ばかりしていたけれど、自分の後ろでいつも満ち足りた顔をしていた。
いつも、というのは正しいのか。
思い出せる飛知微の顔は、すべて自分がその場にいるときのものだった。自分がいない時間に、あの男がどんな顔をしていたかを、蘇承鈞は知らない。知るわけがない。
「承鈞?」
「……いえ、追加の医官を、明日までに手配します。殿下の件は、またおいおい」
寿康宮を出て、宮牆に沿って歩いた。北の空はまだ雲が残っていて、地面には昨夜の水が細く流れていて、ここの水は西へ向かっていた。




