第7話「文化祭が終わって、彼女と彼女と俺がいた」
文化祭当日の家庭科室改め、臨時喫茶厨房は、朝から戦場だった。
仕込み済みのプリンを冷蔵庫から出す。スコーンを設定温度のオーブンに並べる。クロックムッシュ用のベシャメルソースは常温に戻しておく。コーヒー豆の挽き具合を確認する——これだけで三十分かかった。
接客担当の白瀬が準備を終えて扉から顔を出した。
「準備できてる?」
「五分後に最初の分が出せる」
「わかった。お客さん、もう来てるから」
白瀬はそう言って扉を閉めた。悠はオーブンのタイマーを確認して、次の作業に入った。
◇ ◇ ◇
喫茶店は、想定以上に盛況だった。
文化祭開始から一時間で、席は常に埋まっていた。クラスメイトたちが「こんなに来るとは思わなかった」とざわついていたが、悠には理由の検討がつかないわけではなかった——白瀬桜が接客に立っていれば、それだけで人が集まる。
厨房から時折覗くと、白瀬は人が変わったように動いていた。
いつもの「みんなに合わせて疲れる」白瀬ではなかった。笑顔が、作ったものじゃない。お客さんにコーヒーを運びながら、隣のテーブルに声をかけながら、そのついでに悠の方を一瞬見て——小さく目線だけで「うまくいってる」と言った。
悠は黙って次のプリンのカップを並べた。
◇ ◇ ◇
昼前に、橘ひなたが来た。
一般客として並んで、最前列の席を確保して、メニューを全部頼んだ。
「先輩のごはん、最高です!」
「客として来るなら静かにしてくれ」
「静かにできません! 感動してるので!」
白瀬がくすくす笑いながら紅茶を運んだ。橘は白瀬を見上げた。
「白瀬先輩、今日すごくかっこいいですね」
「え、ありがとう」
「接客、板についてます。先輩の作ったものを一番先に届けてるから、嬉しそうに見えます」
白瀬は少し止まった。
「……ひなたちゃんって、たまに鋭いよね」
「えー、そうですか?」
橘は首を傾げた。白瀬は答えなかった。
◇ ◇ ◇
午後の中頃、凛が来た。
生徒会の腕章をつけたまま、仕事の合間に立ち寄った形だった。接客担当のクラスメイトから「生徒会の方ですか?」と声をかけられ、「知り合いがいるので」とだけ答えて、厨房の扉をノックした。
「悠」
「凛」
「見回りのついで。少しだけいい?」
「二分なら」
凛は扉の隙間から中を見た。忙しそうに動く悠の様子を、少しだけ眺めた。
「……うまくいってる?」
「今のところ。プリンが思ったより出る」
「そう」
凛はちょっとだけ笑った。
「前日に作り置きしといてよかったじゃない」
「凛の提案だったな」
「覚えてた?」
「覚えてる」
凛の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……じゃあ、また後で」
「ああ」
凛は扉を閉めた。悠は次のオーブンのタイマーを確認した。
◇ ◇ ◇
文化祭の閉幕は午後四時だった。
最後の客が帰り、教室の片付けが始まる。テーブルクロスを外す。椅子を重ねる。残った食材を整理する。クラスメイトたちが口々に「楽しかった」「疲れた」「また来年やりたい」と言い合っていた。
悠は厨房の後片付けをひとりでやっていた。
鍋を洗い、まな板を拭き、道具を元の棚に戻す。作業に集中していると、扉の音がした。
「手伝う」と白瀬が言った。
「もうほぼ終わる」
「じゃあ最後まで手伝う」
白瀬はエプロンをつけて、シンクの横に立った。悠が洗った道具を受け取って、布巾で拭く。しばらく、二人ともが黙って作業をしていた。
外から片付けの声が聞こえる。賑やかなのに、家庭科室の中だけは静かだ。
最後の鍋を拭き終えて、白瀬が棚に戻した。
「終わったね」
「ああ」
白瀬はエプロンを外しながら、悠の方を向いた。
「成瀬くん」
「なんだ」
「昨日の、続き——」
白瀬がそこまで言ったとき、扉が開いた。
水瀬凛だった。
「片付け終わった? 生徒会の最終確認が——」
凛は家庭科室に入りかけて、止まった。
悠と、白瀬が、向かい合って立っていた。白瀬のエプロンが、まだ手の中にある。二人の間に、何かが漂っているような空気があった。
一秒か、二秒か。
凛の表情が、わずかに変わった。
それはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはいつものクールな顔に戻っていたが——悠は、見た。
「……ごめん、邪魔した」
「邪魔じゃない」と悠が言った。「もう終わってる」
「そう」
凛は室内に入って、悠と白瀬を順に見た。白瀬は何も言わなかった。凛も何も言わなかった。
「生徒会の最終確認、手伝ってほしくて来たんだけど」と凛が続けた。「時間あれば」
「ある」と悠は答えた。
凛はまた少し間を置いてから、「じゃあ行こう」と言った。
悠は凛と共に家庭科室を出た。廊下に出る前に一度だけ振り返ると、白瀬がエプロンを手に持ったまま、立っていた。
「また明日」と悠は言った。
白瀬は少し笑った。
「……うん、また明日」
◇ ◇ ◇
廊下を歩きながら、凛は何も言わなかった。
悠も何も言わなかった。
でも悠は、一分前の凛の表情を、まだ覚えていた。
あの一瞬だけ変わった顔。何かをこらえるような、あるいは何かを飲み込むような。
悠は隣を歩く凛の横顔を横目で見た。今はもう、いつもの凛だ。
(何を考えているんだろう)
悠にはわからなかった。
でも——わからない、と思うこと自体が、いつもと少し違った。
以前の悠なら、凛の表情が変わったことに気づいても、そこで思考を止めていた。今日は止まらなかった。
「凛」
「なに」
「……さっき、邪魔した、って言ったけど」
「言った」
「邪魔じゃなかった」
凛は少し間を置いた。
「……そう」
「それだけ」
「うん、それだけ」
凛の声は、いつもより少しだけ抑えられていた。
悠にはその違いがわかった。
でも何と声をかければいいかが、やはりわからなかった。
職員棟の扉が見えてきて、二人は並んで中に入った。




