第8話「俺は、誰のことを考えていたんだろう」
文化祭の翌日、教室はどこかぼんやりしていた。
昨日の疲れが残っているのか、朝のホームルームまでの時間が、いつもより静かだ。窓から差し込む光が、少し低い角度になっていた。十月になっていた。
悠が席に着くと、白瀬が隣に座っていた。
いつも通りだった。まるで昨日のあの廊下が、なかったみたいに。
「おはよ」
「ああ」
白瀬はスマホを取り出して、何かをスクロールした。悠は教科書を出した。
昨日の続き、は言わないのか。そう思いかけた悠の横で、白瀬が静かに口を開いた。
「昨日の続き、やっぱり今日言う」
悠は動きを止めた。
「……聞こうか」
「今じゃなくていい。放課後でいい」
「放課後」
「うん」と白瀬はスマホを置いた。「家庭科室、今日も使える?」
「使えるが、料理はしない」
「してくれなくていい。話すだけ」
白瀬はそれだけ言って、また前を向いた。
悠は教科書を開いた。文字が、少しだけ頭に入らなかった。
◇ ◇ ◇
昼前にスマホを確認すると、昨夜送ったメッセージへの返信が、凛からまだ来ていなかった。
既読はついていた。
昨夜十時頃に送ったメッセージだ。「文化祭の後片付け、手伝ってくれてありがとう」——それだけ。返信するほどでもない内容だとは思う。でも凛は、普段なら短くても返す。
昼休み、悠はいつものぼっち聖域で一人で弁当を食べた。
今日は誰も来なかった。白瀬は友人グループと食べると朝に言っていた。橘は一年の教室。凛は——生徒会室だろうか。
静かだ。
一人の方が落ち着く、はずだった。なのになぜか、今日の静けさは、少し違う種類のものに感じた。
◇ ◇ ◇
放課後。
間宮に「今日屋上行くか」と言われて、悠は少し迷った。
「今日は……少し予定がある」
間宮の眉が上がった。
「予定? お前が?」
「なんだ、その反応は」
「いや、珍しいから。誰かと約束?」
「白瀬と」
間宮は一秒間、完全に動きを止めた。それからゆっくりと、ものすごく満足そうな顔になった。
「へえ」
「その顔をやめろ」
「お前から誘ったの?」
「向こうから言ってきた」
「話す約束? 何の話?」
「知らない。向こうが話したいと言った」
間宮はしばらく悠の顔を見てから、「そっか」とだけ言った。
「行ってこい」
「なんで急にあっさりしてる」
「そういうときもある。ただ——一個だけ聞いていい?」
「なんだ」
間宮は少し表情を変えた。からかうでもなく、分析するでもなく、珍しく真顔で。
「お前は今、誰のことが一番気になってる?」
悠は答えようとした。
——答えられなかった。
喉のところで、言葉が引っかかった。「白瀬が話したいと言っている」「凛から返信がない」「あの一瞬の凛の表情」「白瀬の頬が赤かったこと」——それらが同時に頭の中で重なって、うまく整理できなかった。
「……わからない」
間宮は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
「そうか」
「なんだよ、その『そうか』は」
「いや、お前が『わからない』って言ったのが初めてだったから」
「俺はいつでもわからないことはわからないと言う」
「恋愛の話でわからないって言ったのが、だよ」
悠は黙った。
「行ってこい」と間宮がもう一度言った。今度は少し違う声音で。「ちゃんと、自分の答えを出してこい」
◇ ◇ ◇
家庭科室に着くと、白瀬はすでにいた。
椅子を二つ向かい合わせにして、一方に座っていた。悠が入ると、白瀬は少し背筋を伸ばした。
「来た」
「ああ」
悠は向かいの椅子に座った。家庭科室は静かだ。昨日まであったにぎやかな試作の空気が、もうない。
「緊張してる」と白瀬が言った。「私が」
「見ればわかる」
「そんなに顔に出てる?」
「出てる。さっきから指が動いてる」
白瀬は自分の指を見て、止めた。小さく息をついた。
「……ちゃんと言う」
「聞いてる」
「やっぱり少し待って」
「待つ」
白瀬は目を閉じて、開けた。悠をまっすぐに見た。
「成瀬くんのこと、好き」
悠は——何も言えなかった。
言えなかったのは、驚いたからではない。どこかで、わかっていた気はしていた。でも実際に言葉として聞いた瞬間、その言葉の重さがうまく処理できなかった。
「……今すぐ答えなくていい」と白瀬が続けた。声が、少しだけ震えていた。「考えてほしいだけ。答えは後でいい」
「……わかった」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嫌?」
悠は少しだけ考えた。
「……嫌じゃない」
白瀬は小さく息を吐いた。緊張が少し解けたような、でもまだ何かを抱えているような、そういう顔だった。
「じゃあそれだけで、今日はいい」
「それだけ?」
「それだけ」
白瀬は立ち上がった。椅子を元の場所に戻した。
「帰ろう」
「ああ」
二人で家庭科室を出た。廊下に夕方の光が入っていた。昨日と同じ光。でも昨日とは違う空気で。
昇降口で別れる前に、白瀬が言った。
「また明日も、隣座っていい?」
悠は少し間を置いた。
「好きにしろ」
白瀬は笑った。最初に会ったときと同じ、「ありがとう」の代わりみたいな笑顔だった。
◇ ◇ ◇
家に帰った悠は、ベッドに倒れ込んで天井を見た。
静かだ。いつも通り一人だ。
でも頭の中は、全然静かじゃなかった。
白瀬に言われた言葉が、頭の中で繰り返された。「好き」——それは意味が一つしかない言葉だ。受け取り方の解釈の余地がない。
嬉しいか、と問われれば——嬉しい、のかもしれない。
でも悠の頭の中には、もう一つの映像があった。
昨日の家庭科室の扉が開いた瞬間の、凛の顔。
あの一瞬だけ変わった表情。何かをこらえるような、飲み込むような——
(俺は、誰のことを考えていたんだろう)
答えは出なかった。
出ないまま、悠は天井を見続けた。
スマホが光った。凛からだった。
「ごめん、返信遅くなった。途中で連れて行っちゃって、後片付け一人でやらせちゃったね」
悠はしばらくその文面を見ていた。それから返信した。
「一人の方が捗るから」
すぐに既読がついた。数秒後に返信が来た。
「……そうじゃなくてもありがとう、って言いたかっただけ」
悠は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
(ありがとう、か)
それだけの言葉なのに、胸の中で何かが引っかかった。
白瀬の「好き」より、凛の「ありがとう」の方が——
悠はそこで、自分の思考を強制的に止めた。
まだわからない。考えるには、まだ早い気がした。
でも、止めようとしても止められないくらいに、その言葉は胸の中に残り続けた。




