第6話「文化祭前日、彼女は何かを言いかけた」
文化祭まで一週間を切ると、学校の空気が変わる。
廊下に出れば垂れ幕の材料を抱えた生徒とぶつかりそうになるし、放課後の教室は毎日がやかましい。悠は本来こういった喧騒が苦手なのだが、今週に限っては自分もその「やかましい側」に含まれていた。
クラスの喫茶店準備は、最終段階に入っていた。
メニューの量と仕込みのタイムラインを悠が担当し、備品の調達は委員が担当し、告知ポップと席のレイアウトは別の数人が受け持った。分業は悪くない。ただ、全員が「料理の最終確認は成瀬に聞け」という雰囲気になっていて、昼休みのたびに誰かが寄ってくる。
「スコーンは前日に焼けばいい?」
「当日の朝でいい。前日だと乾く」
「クロックムッシュのハムってどのくらい用意する?」
「一人前三十グラムとして、一日四十食なら計算しろ」
「プリンって冷蔵で何時間もつの?」
「作った日を含めて二日。前日仕込みで当日提供なら問題ない」
答えながら悠は思った。これはぼっちライフではない。完全に戦力として機能している。
(一人の方が捗る、と言いたいところだが——)
今週に限っては、そうも言い切れなかった。
◇ ◇ ◇
「私、接客係に立候補した」
木曜の昼、白瀬がそう言った。
「聞いた」と悠は答えた。「一番前に出るポジションだぞ」
「わかってる」
「お前、人に合わせるのが疲れるんじゃなかったのか」
白瀬は少し間を置いた。
「……文化祭くらいは、ちゃんとやりたいと思って」
「そうか」
「あと」
「なんだ」
白瀬は視線を少し逸らして、また戻した。
「成瀬くんが作ったものを、一番先にお客さんに届けられるから」
悠は三秒考えた。
「それは効率のためか」
「……そう、効率」
白瀬はそう言って、ノートに何かを書き始めた。悠はそれ以上聞かなかった。
隣で間宮がそっと悠の肩を叩いた。小声で「お前……」と言って、天を仰いだ。
「なんだ」
「なんでもない。どこまでもなんでもない」
◇ ◇ ◇
金曜の放課後。
家庭科室での最後の試作が終わり、全員で仕上がりを確認した。スコーンは狙い通りのさっくり感で、クロックムッシュは量産できる手順が確立し、プリンは橘が一人でも作れるようになった。
「完璧じゃないですか!」と橘が両手を合わせた。
「あと一歩。明日本番仕様で通し練習する」
「え、明日も?」と白瀬が言った。
「前日だ。念のため通しておく」
「成瀬くんって、思ったよりしっかりしてるんだね」
「思ったより、ってどういう意味だ」
「ぼっちって言ってた割に、すごく面倒見がいい」
「これは料理の話だ。個人の問題だ」
「一緒じゃん」と野中が言った。今日も来ていた。「成瀬くんって、自分では気づかないうちに世話してるよね」
「してない」
「してる」と白瀬が言った。
「してる」と橘が言った。
「してる」と凛が少し遅れて言った。
間宮は笑いをかみ殺していた。
「……みんな、そろそろ帰ってくれ」
「やだー」と野中が笑った。
◇ ◇ ◇
その夜。
悠は自室で翌日の段取りをノートにまとめていた。仕込みの順番、道具の配置、各担当への指示出しのタイミング。ぼっち主義者のはずなのに、いつの間にかこういった段取りが得意になっていた——料理を続けてきたせいで、段取りを組む習慣がついたのだろう。
スマホが鳴った。
白瀬からだった。明日の朝早く来てもいいか、手伝えることがあるかもしれないから、という内容だった。
悠は少し考えてから返した。七時半に家庭科室へ。道具の準備を手伝ってもらえるなら助かる、と。
すぐに返信が来た。わかった、行く。
それだけだった。
悠はスマホを置いて、ノートに続きを書いた。
◇ ◇ ◇
土曜日——文化祭前日。
家庭科室は朝から動いていた。仕込みを担当する数人のクラスメイトと、悠が中心になって作業を進める。橘は自分のクラスの準備があるからと、短時間だけ手伝って帰った。凛は生徒会の最終確認で朝から職員棟に詰めていた。
白瀬は、約束通り七時半に来た。
「おはよ」
「ああ。道具はあっちの棚に——」
「わかった、並べればいい?」
「種類ごとに分けて。明日使う順番に手前から」
「了解」
白瀬はエプロンをつけて、手際よく動き始めた。三週間の練習が生きている。
昼前に通し練習が終わり、仕込みも目途がついた。クラスメイトたちが解散していくのを見送って、最後に残ったのは悠と白瀬だけになった。
後片付けをしながら、白瀬が言った。
「明日、たのしみだな」
「準備はできてる」
「そういう意味じゃなくて」
白瀬はシンクで手を洗いながら、少し笑った。
「なんか……こういう時間が好きだったんだって、最近思う」
「どういう時間が」
「みんなで何か作ってる時間。うまくいった時の達成感とか。前は、こういうの苦手だったんだけど」
「なんで苦手だったんだ」
白瀬は少し考えてから答えた。
「みんなと一緒にやってるのに、どこかで一人でいる感じがしてたから」
悠は手を止めた。
「それは」
「成瀬くんみたいに、一人が好きってことじゃなくて——みんなと同じ方向を向いてるつもりなのに、どこかズレてる感じ」
白瀬はそう言って、蛇口を止めた。
「でも最近は、そういう感じがあんまりしなくて」
「なぜ」
白瀬は振り返って、悠を見た。
「……成瀬くんと料理してると、ズレてない気がするから」
悠は何も言えなかった。
何を言えばいいのかが、わからなかった——というより、白瀬の言葉の意味を、悠はまだ正しく受け取れていなかった。ただ、何か大事なことを言われている気は、かすかにしていた。
「……そうか」
それが悠の精一杯だった。
白瀬は少しだけ笑って、エプロンを外し始めた。
◇ ◇ ◇
帰り支度をして、家庭科室を出た。廊下に夕方の光が差している。
昇降口に向かって歩きながら、白瀬が少し歩みを遅くした。
「成瀬くん」
「なんだ」
「……あのさ」
白瀬は前を向いたまま、ゆっくり言葉を探すように、口を開いた。
「私、なんでここに来るようになったか、最初は自分でもよくわからなかったんだ」
「田中から逃げてきたと聞いた」
「最初はそう。でも——」
白瀬は少し止まった。
「——でも、それだけじゃなかったと思う。今は」
悠も立ち止まった。
白瀬の横顔を見た。白瀬は少し俯いていて、夕日が当たった頬が——さっきよりも、少しだけ赤かった。
「白瀬」
「……うん」
「続きは」
白瀬は少し笑った。困ったような、でも嬉しいような、不思議な笑い方だった。
「明日、言う」
「明日?」
「文化祭が終わってから」
それだけ言って、白瀬は歩き出した。
悠は一瞬だけ立ち止まってから、後を追った。白瀬の横に並んで、二人で昇降口まで歩いた。
悠には、白瀬が何を言いかけたのか、まだわからなかった。
ただ——明日が、いつもより少しだけ遠く感じた。




