第5話「幼馴染は、いつも少しだけ遠い場所にいる」
水瀬凛という人間は、滅多に感情を表に出さない。
幼い頃から知っている悠の観察によれば、凛は怒っても泣いても、顔の表面がほとんど変わらない。代わりに、少しだけ言葉が減る。少しだけ歩くペースが変わる。そういう小さな変化で、凛の内側を読むしかない。
だから悠は、今朝の異変にすぐ気づいた。
廊下で凛とすれ違ったとき、凛は「おはよう」と言わなかった。
言わなかっただけじゃない。悠の方を見なかった。視線がわずかに逸れて、前を向いたまま通り過ぎた。
ほんの二秒の出来事だ。
でも十年以上の幼馴染の勘が、静かに警告を出した。
(何かある)
◇ ◇ ◇
一時限目の休み時間に、悠は凛のクラスをのぞいた。
凛は席にいたが、クラスメイトと何か話していて、悠に気づいた様子はなかった。いや、気づいていて気づかないふりをしているのか——その判断が、悠にはできなかった。
声をかけることができずに、悠は廊下に戻った。
二時限目の間中、なぜか集中できなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
悠が凛のクラスに行くと、「今日は生徒会室にいます」と隣の席の子に言われた。
生徒会室は職員棟の二階だ。行けば会える。
悠は三歩進んで、止まった。
(何を言いに行くんだ)
凛を心配して会いに行く。それはわかる。でも何を聞く? 「なんで避けてる」と直接聞くのか。そんなことを聞ける間柄だろうか。というか、そもそも本当に避けられているのか。自分の思い込みかもしれない。
悠は三十秒考えて、結局引き返した。
教室に戻ると、間宮がいた。
「水瀬さんのとこ行ってきたのか」
「……どうしてわかる」
「顔に書いてある。で、行けたの?」
「生徒会室にいると言われた」
「行かなかったんだ」
「……何を言えばいいかわからなかった」
間宮は珍しく、笑わなかった。
「お前がそれを言うのは、かなり進歩だぞ」
「何が」
「『何を言えばいいかわからなかった』って、ちゃんと考えたってことじゃないか」
悠は答えなかった。間宮はそれ以上追わなかった。
◇ ◇ ◇
放課後、家庭科室にて。
試作三回目は、順調に進んでいた——最初の十分間は。
「やっほー、お邪魔しまーす」
扉を開けて入ってきたのは、野中美咲だった。エプロン持参で。
「なんで美咲がエプロン持ってる」と白瀬が固まった。
「桜が毎日楽しそうにしてるから、理由を確かめに来た」野中はきょろきょろと室内を見渡した。「あ、プリン作ってる。かわいい」
「見学だけにしろ」と悠が言った。
「えー、一緒に作りたい」
「一緒に作ると試作にならない。邪魔になる」
「ひどい。じゃあ橘ちゃんとかいう後輩ちゃんはいいの?」
「橘は試作メンバーに入ることで了承済みだ」
「私も了承します!」
「了承するのは俺だ」
「……了承してください」
野中は両手を合わせた。白瀬が横からそっと言った。
「成瀬くん、一人増えてもそんなに変わらないから」
「変わる。俺の管理できる人数を超える」
「管理て」と野中が笑った。「成瀬くん、桜に対してもそんな感じなの?」
「そんな感じとは」
「なんか……先生みたい」
白瀬が少し俯いた。
「……先生、かな」
「違うの?」
白瀬は答えなかった。その沈黙を、野中はじっと見ていた。
悠はプリン液を温めながら、鍋の方を見ていた。
「白瀬」と悠が言った。
「なに」
「火、弱すぎる。もう少し上げていい」
「……うん」
白瀬はガスの火を調整した。それだけだった。
野中は小さく息をついて、白瀬の隣に並んだ。
「ねえ桜」と小声で言った。「好きなの?」
「……な、なんのこと」
「なんのことって言いながら顔が赤い」
「料理してるから暑いだけ」
「家庭科室、そんな暑くないよ」
「……うるさい」
白瀬は声を落として最後の一言を言い、それ以上答えなかった。野中は何かを言いかけて、止めた。
◇ ◇ ◇
試作が終わって、全員でできあがりを食べているとき。
凛が来た。
「遅れてごめんなさい。生徒会が長引いて」
全員が凛の方を向いた。凛は室内を見渡し、野中を見て、一瞬だけ表情を止めた。
「……また増えてる」
「野中さん、白瀬さんの友達」と間宮が説明した。
「知ってる。生徒会で顔を合わせたことがある」
「水瀬さん、こんにちは」と野中は愛想よく言った。
「水瀬さんって、成瀬くんと幼馴染なんですよね?」
「そうよ」
「いいですね、幼馴染って」
「……そうね」
凛は静かに答えて、空いている席に座った。悠の向かいの席を選ばずに、橘の隣に座ったのは——悠は気づいたが、意味を考えなかった。
「水瀬先輩、プリンできてますよ! 私が計量したものです!」と橘が元気よく言った。
「……ありがとう」と凛はプリンのカップを受け取った。「計量、ちゃんとできた?」
「今日は完璧です! 先週の反省を活かしました!」
「成長ね」
「えへへ」
プリンを一口食べて、凛は「おいしい」と言った。
「今日は私、作ってないけど」
「悠が作ったから」
「……そう」
また、短い返答。
悠は凛を見た。凛はプリンを見ていた。
◇ ◇ ◇
片付けが終わり、家庭科室の明かりがひとつ消えた。
みんなが帰り始めても、悠は廊下に残っていた。
凛が最後に出てきて、扉に鍵をかける。その横顔に声をかける。
「一緒に帰るか」
凛の手が、鍵を持ったまま止まった。
「……生徒会室に忘れ物がある」
「取ってくる間、待つ」
「いい。先に帰って」
即答だった。
けれど悠は、動かなかった。
「待つ」
凛はもう一度だけ悠を見た。何かを言いかけて、結局、小さく息を吐く。
「……五分かかるかも」
「かまわない」
◇ ◇ ◇
職員棟の廊下で、悠は壁に背をもたせて待った。
夕方の学校は静かだ。遠くから部活の掛け声が聞こえる。廊下に差し込む光が、少しずつオレンジになっていく。
凛が戻ってきた。
二人で廊下を歩き始めてから、悠が先に口を開いた。
「昨日、先に帰ってたな」
「……うん」
「今日も、声かけても来なかった」
凛は少し黙った。
「気づいてたの」
「気づいた。なんかあったか」
「……別に、何も」
「凛」
悠は歩きながら凛の横顔を見た。凛は前を向いたままだった。
「俺が何かしたか」
その問いに、凛の歩みがほんのわずかに遅くなった。
「……してない」
「じゃあなんで」
「してないから、なんでもない」
ぐるぐるとした会話だ。悠にはその意味がわからなかった。
でも凛が「してない」と言ったとき、その声が——ほんの少しだけ、震えていた気がした。
「凛」
「なに」
「怒ってるか」
「……怒ってない」
「ならよかった」
「よくない」
凛は言ってから、はっとしたような顔をした。
悠は立ち止まった。凛も止まった。
「……よくない、って」
「……なんでもない」
「なんでもなくない」
凛はしばらく黙ったまま、うつむいていた。夕方の光が、凛の横顔に柔らかく当たっていた。
「怒ってないし、悠は何もしてない」
静かな声だった。
「ただ——ちょっとだけ、疲れてただけ」
「何に」
「自分に」
それ以上は言わなかった。
悠も聞かなかった。
ただ、「自分に疲れた」という言葉の意味が、何となく、ぼんやりと——悠の胸の中に引っかかった。
二人は並んで歩き始めた。今日の凛の歩くペースは、いつもと同じだった。
◇ ◇ ◇
家の近くの交差点で別れるとき、凛が振り返った。
「プリン、おいしかった」
「ああ」
「次も作って」
「文化祭まで続く」
「じゃあ毎回食べに行く」
それだけ言って、凛は角を曲がった。
悠はしばらくその場に立っていた。
さっきよりも、少しだけ凛が近い場所にいる気がした——気のせいかもしれなかったが。




