第4話「カレシじゃないのに、なぜか釈明に追われている」
噂というのは、種が一粒落ちれば一日で森になる。
悠はそのことを、月曜の朝に身をもって知った。
教室に入った瞬間、視線が集中した。「おはよう」という声が二倍ある。廊下のすれ違いで女子が耳打ちし合っている。何かが変だ。
席に座ると、間宮が隣に来て小声で言った。
「聞いたか」
「何を」
「お前と白瀬さんが付き合ってるって話」
悠は三秒間、間宮の顔を見た。
「……誰が言い出した」
「さあ」
「お前だろ」
「違う違う、俺はちょっと……いや、俺じゃない」
「目が泳いでる」
「気のせいだって!」
間宮は顔をそらした。明らかに後ろめたそうな顔をしていた。悠は額に手を当てた。
「放課後、屋上に来い。話がある」
「こわ! 俺、何もしてないよ!?」
◇ ◇ ◇
一時限目が始まる前に、白瀬が隣に来た。今日は少し顔が赤い。
「聞いた?」
「聞いた」
「どうする」
「否定する以外にない」
「……そうだよね」
白瀬は小さくうなずいた。その「そうだよね」の言い方が、どこか寂しそうだったが——悠はそれに気づかなかった。
「俺から否定しといていいか」
「うん、お願い」
「わかった」
悠は立ち上がり、教室を見回した。数人が明らかにこちらを気にしている。悠はそのうちの一人、男子の目立つグループに近づいた。
「俺と白瀬は付き合っていない。どこから出た話か知らんが、事実じゃない」
教室が少し静まった。間宮が顔を覆った。
「……言い切った」
「他に方法があるか」
「あるよ! もっとやんわり! 『誤解だよ』くらいで!」
「遠回しな否定は肯定と変わらない」
「そういう話じゃなくて!!」
しかし男子グループは「そっか、ならいいや」とあっさり信じた。問題は女子の方だった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
悠のぼっち聖域に来たのは、見知らぬ女子二人組だった。
「成瀬くんだよね? 私、白瀬の友達の野中美咲って言うんだけど」
明るい声。活発そうな短髪の女子だった。その隣に、おとなしそうな女子がもう一人。
「そう」
「桜がいつも放課後に消えてるって思ったら——料理教えてもらってたんだって?」
「それだけだ」
「えー、でも毎日なんでしょ? 毎日会ってたら普通仲良くなるよね?」
「なるとは限らない」
「なってるじゃん」と野中は笑った。「桜、成瀬くんのこと話すときちょっと顔が変わるし」
「どう変わる」
「気になるんだ?」と野中はにやりとした。
「情報として聞いてる」
「情報! ウケる! なんで付き合ってないの、こんなに面白いのに」
「俺たちは料理仲間みたいなものだ」
「料理仲間……」野中は隣の女子と顔を見合わせた。「桜にそれ言ったら怒りそう」
「なんで」
「わかんないんだ、本当に」
野中はため息をついて、しかしどこか楽しそうに立ち去った。隣の女子は一度だけ振り返って、「応援してます」とだけ言った。
悠には何のことかわからなかった。
◇ ◇ ◇
そこに橘ひなたが現れたのは、野中たちが去ってから五分後だった。
「先輩! 聞きました! 白瀬先輩とのご交際疑惑!」
「ない」
「わかってます! だって先輩の婚約者は私ですから!」
「婚約してない」
「公認のお嫁さん候補、ということで」
「公認してない、誰にも」
「間宮先輩に公認してもらいました!」
「間宮に権限はない」
橘は胸を張った。
「とにかく! 先輩に変な噂が出てきたからには、私も本気を出さないといけないと思いまして」
「本気って何をする気だ」
「もっと先輩のそばにいます! 先輩のことが大好きだって、みんなに見せます!」
「逆効果だから止まれ」
「止まりません! 愛は前進あるのみです!」
「愛じゃない、料理の縁だ」
「料理の縁が愛に変わるんです!」
橘はそのまま隣の席に座った。悠は天を仰いだ。
◇ ◇ ◇
放課後。
屋上で、間宮は観念した顔をしていた。
「……ちょっとだけ話しちゃったかもしれない」
「誰に」
「野中さん。『白瀬さん、最近どこ行ってんのか知らない?』って聞かれて、正直に答えたら——なんか話が膨らんだ」
「それが噂の発生源か」
「正確には俺は『料理の練習してる』って言っただけなんだけど、野中さんが『え、成瀬くんと一緒に? 毎日?』って反応してさ——」
「お前が余計なことを言ったせいで俺の一日が終わった」
「ごめん! 本当にごめん! でも実害あった?」
「俺は一日中否定に追われた」
「それだけ?」
「十分だ」
間宮は少し申し訳なさそうな顔をした。が、三秒後には口元が緩んでいた。
「……でもまあ、面白くなってきたじゃん」
「反省しろ」
「してる、してる。片手間に」
「でもさ、一個だけ聞いていい?」
「なんだ」
「白瀬さんと付き合う気、本当にないの?」
悠は少し間を置いた。
「ない」
「なんで」
「向こうが俺を料理の先生か便利な避難場所だと思ってるだけだ。付き合う理由がない」
間宮は目を細めた。
「……それ、本当にそう思ってる?」
「思ってる」
「白瀬さんが毎朝わざわざ早く来て、毎日お昼ご飯を一緒に食べて、放課後も料理の練習してて、それが全部『料理の先生』扱い?」
「そうじゃないなら他に何がある」
間宮は長い沈黙の後、深くため息をついた。
「お前に説明してもたぶん無駄だから言わない。でも一個だけ——水瀬さんのことは気にしてやれ」
「凛が? なんで」
「今日、廊下で噂聞いてる顔見たけど、あんまりよくない顔してた」
悠は少し眉を寄せた。
「……凛に何かあったのか」
「だから、お前は——」
間宮は言いかけて、やめた。
「自分で気づけ。それくらいは」
◇ ◇ ◇
その日の帰り道。
凛は珍しく、一人で先に帰っていた。悠が校門を出たとき、すでに姿がなかった。
ほんの少し、違和感があった。
いつも二人で帰るわけでもない。凛には生徒会の仕事もある。先に帰ることもある。
それはわかっている。
それでも今日は——なんとなく、理由が違う気がした。
悠は一人で夕暮れの道を歩きながら、間宮の言葉を思い出した。
「水瀬さんのことは気にしてやれ」
気にする、とはどういう意味なのか。凛に何があったのか。悠にはわからなかった。
ただ、今日の凛が、昨日の帰り道の凛よりも、もう少し遠い場所にいる気がした。
それだけだった。
(明日、聞けばいいか)
悠はそう結論を出して、夕暮れの道を歩き続けた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
教室に入ると、白瀬が隣に座っていた。今日は少し表情が固い。
「……おはよ」
「ああ」
「昨日、色々否定してくれてたんだって。クラスの男子から聞いた」
「事実じゃないから」
「……そうだよね」
また、その言葉。
また、あの少しだけ寂しそうな声。
今日の悠は、昨日よりも少しだけ、その声の意味が気になった。
でも聞かなかった。
まだ、わからなかったから。




