第六話:ケント育成計画、始動!
目が覚めた瞬間、ケントは反射的に体を丸めた。
(やばい、遅刻……!? また殴られる……!)
固く目をつぶり、いつか来るはずの衝撃に備える。心臓が早鐘を打ち、全身の筋肉が強張った。……けれど、数秒経っても痛みは来なかった。
代わりに感じたのは、頬をなでるシーツのさらさらとした感触と、部屋を満たすお日様の匂い。そして、お腹の上にある「重くて温かいもの」だった。
「……ん、ケント……おはよ」
耳元で聞こえた微かな声に、ケントはおそるおそる目を開けた。
そこには、昨夜見た豪華な天蓋付きのベッドと、隣で丸まって眠る四女・ノノの姿があった。ノノはケントの腕をぎゅっと抱きしめたまま、幸せそうに寝息を立てている。柔らかな寝息のリズムが、腕越しに伝わってきた。
「え、えええ……っ!?」
「あ、起きた? おはよう、ケント!」
驚くケントに追い打ちをかけるように、勢いよく扉が開いた。
入ってきたのは、すでに着替えを済ませた元気いっぱいの三女・雅だ。その後ろには、ケントの着替えを持ってきた凪と、穏やかに微笑むシオンも続いている。朝の光が、開け放たれた扉から差し込んだ。
「ノノ! また先回りして一緒に寝たわね! ずるいんだから!」
「……ケント、あったかい。……渡さない」
ノノは目を閉じたまま、さらに抱きしめる力を強める。腕に伝わる体温が、じんわりとケントの胸の奥まで広がっていくようだった。
朝起きて、怒鳴られるのではなく「おはよう」と言われる。
疎まれるのではなく、奪い合われるほどの愛情を向けられる。
「あはは……ノノ姉ちゃん、苦しいよ。……おはよう、みんな」
ケントは照れくさそうに笑った。まだ、この「当たり前の幸せ」には慣れないけれど、今日という一日が始まるのが怖くない。ケントにとって、それは何よりも奇跡のような朝だった。
朝食を終えたケントが案内されたのは、天井まで届く本棚が壁を埋め尽くす、圧倒されるような書庫だった。窓から差し込む光に、微かな紙の匂いが踊っている。古い紙とインクの匂いが、不思議と心を落ち着かせた。
「……すごい」
「ふふ、気に入ってくれた? ここにある本は、ケントが読みたければどれでも自由にしていいのよ」
凪に促され、ケントは一冊の本を手に取った。表紙はずっしりと重く、指先に革張りの硬い感触が伝わる。しかし、すぐにその手は止まってしまう。
(……文字が読めない。どうして? 言葉はわかるのに……)
ページをめくる手が、宙でぴたりと止まった。
戸惑うケントの様子に、凪が優しく問いかけた。
「ケント、もしかして文字が読めない?」
「……あ、……その、ごめんなさい。僕、せっかく見せてくれたのに……っ」
ケントは慌てて本を戻そうとした。指先が震え、本の角が棚にぶつかって小さな音を立てる。
前の家では、できないことがあると「役立たず」と罵られ、暴力の対象になったからだ。
「謝らなくていいのよ、ケント。顔を上げて?」
凪は膝をついて目線を合わせると、ケントの小さな手をそっと包み込んだ。その手は、本よりもずっと温かかった。
「一緒に、お勉強しよっか」
「うん!」
ケントは弾けるような笑顔で頷いた。
こうして、ケントの一日は「三時間の勉強」が日課に加わった。
なぜ三時間なのか。それは、姉たちがケントの「学びたい」という意欲を尊重しつつ、決して無理をさせないようにと決めた、特別な時間だった。
「じゃあ今日は、この文字から覚えましょう」
凪は紙に大きく一文字だけ書いた。
「これは『あ』よ」
「……あ」
「そう。書いてみて」
慣れない手つきで鉛筆を握るケント。線は曲がり、形も少しいびつだった。
「……できた」
「ええ、上手よ」
その一言だけで、ケントは目を丸くした。
失敗しても怒られることなく、できなくても叩かれない。
それだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
昨日は一文字、今日は二文字、明日は短い言葉。
そうして毎日少しずつ積み重ねた時間は、やがて三ヶ月という月日になっていて、三ヶ月が経った頃には、簡単な絵本なら一人で読めるほどに成長したケントであった。
「……『そして、王子さまとお姫さまは、いつまでも幸せにくらしました』。……読めた、凪姉さん!」
ケントが絵本を閉じると、隣で見ていた凪が、こらえきれないといった様子でケントを抱きしめた。
「完璧よ、ケント! たった三ヶ月で一冊読み切るなんて……。約束通り、何でも願いを叶えてあげる。何がいい? 欲しいおもちゃでもある?」
しかし、ケントの答えは意外なものだった。胸の奥に小さくくすぶっていた思いを、ようやく口にする。
「……姉さんたちの、特訓を見せてほしい。いつも僕が行くと、やめちゃうから」
凪は少し困ったように眉を下げたが、ケントの真剣な瞳を見て、覚悟を決めたように頷いた。
「……わかったわ。でも、約束して。シオンの側から絶対に動いちゃダメよ?」
凪は他の姉たちに事情を話し、特別な「特訓」を公開することにした。
案内された演武場。そこには、いつもの穏やかな雰囲気とは正反対の、肌を刺すような緊張感が漂っていた。空気そのものがピンと張り詰め、息をするのも躊躇われるほどだった。
「いい、ケント。よく見ておきなさい。これが私たちの『特訓』よ」
シオンの声と共に、凪と雅が距離を取る。
先に動いたのは雅だった。
「いくわよ、凪姉ぇ!」
雅が指を鳴らした瞬間、彼女の背後の空間が黄金色に歪み、そこから数え切れないほどの剣、槍、斧が姿を現す。それらは意志を持つ弾丸となって凪へ降り注いだ。
「……甘いわ、雅」
凪は剣を抜き放つと、一太刀で正面からの「武器の嵐」を切り裂いた。
迫りくる何十本もの武器を、最低限の動きで弾き、叩き落とす。空中に突き刺さった剣を足場にして跳躍し、さらに高所から迫る武器を空中で斬り伏せる。
爆音、火花、鋼と鋼がぶつかる甲高い音が、何度も演武場に響き渡った。
絵本の中に書かれていた『はげしい戦い』という一言が、これほどまでに恐ろしく、美しく、暴力的なものだったなんて、ケントは知らなかった。風圧が頬を打ち、土埃が舞い上がるのを、ケントはただ立ち尽くして見ていた。
(……文字が読めるようになっただけで、満足してた……)
自分が覚えたばかりの「剣」や「魔法」という文字が、目の前で世界を壊さんばかりの力として振るわれている。
やがて演武が終わったとき、ケントは足の震えを隠せなかった。膝が小さくがくがくと音を立てそうなほど、興奮と恐怖が入り混じっていた。
駆け寄ってくる、いつもの優しい姉たち。けれどケントは、その手を取る前に深く頭を下げた。
「お願い……。僕にも、教えて。文字だけじゃダメなんだ。僕も、みんなの隣にいても恥ずかしくないくらい、強くならなきゃいけないんだ!」
ケントのお願いを受けた姉たちは、驚くほど迅速に、そして驚くほどノリノリで準備を進めていた。
まだ八歳のケントに無理はさせられない。けれど、彼の「強くなりたい」という瞳を曇らせたくもない。そうして決まったのは、午前中に文字の勉強、午後は日替わりで姉たちが交代で教官を務めるという特別なスケジュールだった。
まず、週の始まりである月曜日は、長女シオンによる魔法・魔術の講義だ。
「魔法と魔術はね、イメージと知識、そして魔力の三つが必要なの」
そう教えられ、ケントはまず「魔力を高める訓練」に励んだ。体内で魔力を循環させ、それを周囲の気配を探るために使い切る。空っぽになった器が自然回復で満たされるたび、魔力の最大値が少しずつ増えていくのをケントは肌で感じていた。胸の奥で何かがじわりと温かく満ちていく、不思議な感覚だった。
一転して、翌日の火曜日は、次女・凪による「動」の修行だ。凪の指導は、まず走ることから始まる。
「はい、限界まで! 止まっちゃダメよ!」
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら走るケントは、何度も転びそうになる。
「まだ立てるでしょう?」
凪は叱ることなく、ただ静かに手を差し伸べた。
「……うん!」
ケントはその手をぎゅっと握り、立ち上がると、もう一度走り始めた。
本人がキツくなるまで走り続け、限界が来たら元気になるまで休憩し、また走る。息が上がり、肺が焼けるように熱くなっても、立ち止まることは許されない。その単純で険しい繰り返しが、ケントの細い体に確かな芯を作っていった。
そして週の真ん中、水曜日に待っているのは、三女・雅との錬金術だ。雅はケント専用の小さな窯を用意してくれた。
「まずは一つ完成させてみて。できたら次は、素材は同じままで、生成する『数』を増やす練習よ」
「うん!」
ケントが一生懸命魔力を流し込む。
次の瞬間、
ボンッ!
白い煙が勢いよく吹き上がり、ケントの顔は煤だらけになった。
「げほっ、ごほっ!」
「あっははは! 大丈夫大丈夫! 最初はみんな一回は爆発させるから!」
雅は笑いながらハンカチでケントの顔を拭く。
「そう……なの?」
「もちろん! 失敗した分だけ上手になるんだから!」
その言葉に安心したケントは、もう一度窯へ向き直った。
効率と増幅を学ぶこの時間は、午前中の文字の勉強が最も活かされる時間でもあり、ケントは夢中で窯と向き合った。窯から立ち上る独特の薬品めいた匂いも、いつしか心地よいものに感じられるようになっていた。
しかし、木曜日の護身術だけは、ケントにとって別の意味で試練だった。
担当のノノは、とにかく「やりすぎる」のだ。
「今日は…後ろを…取られない…ようにね」
「うん!」
そう返事をした次の瞬間だった。
「……捕まえた」
「ひゃあああっ!?」
いつの間にか背後へ回っていたノノに抱きつかれ、ケントは飛び上がる。
「…………成功」
「成功じゃないでしょう!」
そこへシオンが飛んできて、ノノが正座で怒られるまでが一連の流れだ。
半年に二、三回は繰り返されるその光景は、もはやこの家の風物詩になりつつあった。
そうして一週間を終える頃には、ケントはいつも心地よい疲労感に包まれていた。筋肉痛の痛みも、魔力を使い果たした後のダルさも、すべてが自分が変わっていく証。三ヶ月前には想像もできなかったことが、ケントの新しい当たり前になっていった。
ご覧いただきありがとうございます!読み書きを覚えたケントでしたが、お姉様たちの「本気」を目の当たりにして、自ら強くなる道を選びました。姉たちによる「ケント育成計画」、それぞれの個性が爆発した修行内容になっています。皆さんはどのお姉様の教官っぷりが気になりますか?次回からは修行の途中ですが、いよいよ初めて王都へ向かいます!




