第3話: 二人で一人の約束
「僕の魂を、半分に分けることはできないかな?」
シオンは何も言えなかった。
あまりにも予想外の提案に、思考が一瞬止まり、彼女の顔から、すっと血の気が引いていった。
「……っ、何を言っているの!? 自分の魂を裂くなんて、そんなこと正気の沙汰じゃないわ!」
驚愕に目を見開いたシオンが、ケントの肩を強く掴んだ。それは指先が食い込むほどの力であり、先ほどまでの穏やかな態度は消えていた。
「いい、ケント。魂はあなたの命そのものなのよ。それを分かつということがどれだけ危険か……。もし失敗すれば、あなたは異世界へ行くどころの話じゃない、存在そのものが消えてしまうかもしれないのよ!?」
ケントは一度だけ目を閉じた。
「……。でも、そうしなきゃ、あの子は一人でずっと泣いてる」
ケントはシオンの手を振り払うことなく、ただ静かに、けれど真っ直ぐに彼女を見つめ返した。涙はもう乾いていたが、その目には、決して揺らがない意志が宿っていた。
「僕が今、お姉ちゃんの手を取って逃げるのは簡単だよ。でも、それじゃあ僕は……今までいじめてきたあの人たちと同じになっちゃう。僕だけ助かって、あの子を見捨てるなんて、そんなの絶対に嫌なんだ」
「ケント……」
シオンの声が、わずかに掠れた。
「お願い、お姉ちゃん。……僕を信じて」
ケントの小さな、けれど震えない言葉に、シオンは唇を噛みしめた。星明かりの下で、彼女の瞳が小さく揺れる。
しばらくの間、激しい葛藤が彼女の中で渦巻いていたが、やがてシオンは深い溜息とともに、ゆっくりとケントの肩から手を離した。
「……本当、頑固ね。そういうところ、母さんにそっくりだわ……」
観念したように目を閉じたシオンは、再び目を開けたときには覚悟ができていた。その瞳に、もう迷いはなかった。
「わかったわ。あなたの意志を尊重しましょう。……その代わり、どんなに苦しくても途中で諦めないと約束なさい。今から、あなたの魂を二つに分かつ『分魂の儀』を始めるわ」
そうして、シオンはケントと一定の距離まで離れた。湖面を渡る彼女の足音は、依然として水音一つ立てなかった。
「準備はいい? ……絶対に、意識を手放してはだめよ」
シオンが厳かに告げると、彼女の周囲の空気が震え始めた。肌がぴりぴりと痺れるような、張り詰めた気配がケントの全身を包み始めた。
彼女はケントの胸に向かってそっと両手をかざす。すると、彼女の口から、到底聞き取れない、不思議な響きの言葉が漏れ出した。
『――Ø sielu, jakautukoon kahtia. Sidottu kohtalo, jaettu olemus――』
言葉が紡がれるたびに、シオンの手のひらから白銀の光が溢れ出し、ケントの胸の奥深くへと入り込んでいく。
「……っ、あ、あああああああ!!」
本当の地獄は、その瞬間から始まった。
魂が二つに分かたれる瞬間、ケントの脳内に、これまで耐えてきた「地獄」の記憶が濁流のように流れ込んできた。
それはただ「思い出す」ではない。殴られた箇所の熱い痛み、冷たい言葉を浴びせられた時の恐怖、暗い部屋で一人震えていた夜の孤独――。
八年間積み重なった虐待といじめの記憶が、今この瞬間の出来事のように、何度も、何度も、ケントの精神を蹂躙していた。
「い、いやだ……っ、やめて……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!!」
あまりの苦痛に、ケントの意識はパニックに陥り、魂が霧散しそうになった。
「耐えなさい、ケント! これは魂を分ける際に出る、記憶の残滓よ! 過去に飲み込まれたら、あなたも『彼』も、二人とも消えてしまうわ!」
シオンの必死な叫びが遠くで聞こえてきた。まるで水の中で聞く声のように、輪郭がぼやけ、それでも確かにケントの意識を引き留めようとしていた。
視界が真っ赤に染まる中、ケントは激痛の中で必死に自分を繋ぎ止めた。
(苦しい……。死んじゃったほうが、ずっと楽だ……。でも……)
意識が消えかけるその時、湖の底で丸まっていた「少年」の姿が脳裏をよぎった。
(……これを、あの子一人に味わせちゃ、ダメなんだ。……僕が、半分持っていくんだ。半分、あの子の隣に置いていくんだ……!)
「おおおおおおおお!!」
ケントは血が出るほど強く歯を食いしばり、襲いかかる過去の痛みを真正面から受け止めた。
その瞬間、弾けるような光とともに、ケントの体から眩い銀の糸が分離し、湖の底へと吸い込まれていった。
銀の糸が水底へと消えた瞬間、ケントを繋ぎ止めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
「あ……、が……っ」
立っていることすらできず、ケントの体は力なく地面へと崩れ落ち始めた。膝を打つ衝撃すら感じないほど、全身の感覚が麻痺していた。魂を半分に分けられた喪失感は、血を流すよりも遥かに恐ろしく、深かった。
倒れそうになるケントの小さな体を、間一髪で温かな腕が抱き止めた。
「よく頑張ったわね、ケント……。本当に、よく耐え抜いたわ」
シオンだった。彼女は膝をつき、ケントを胸の中に抱きかかえた。
彼女の目からは、慈しみに満ちた光が溢れていた。
「……お姉、ちゃん……。あの子、は……?」
「成功よ。儀式は無事に終わったわ。あなたの魂の半分は、確かに彼の精神の『周り』に定着した。……見て、彼の様子が今までと違うでしょう?」
シオンに抱かれながら、ケントはおぼつかない視線を再び湖の底へと向けた。
水底で丸まっていた少年の体は、今や淡い銀色の光の膜に包まれている。冷たく、寂しそうだったその姿は、ケントの魂を分け与えられたことで、まるで温かな毛布を掛けられたかのように穏やかなものへと変わっていた。
「……よかった。これでもう、あの子は独りぼっちじゃないんだね……」
自分の魂を半分失ったというのに、ケントの顔には安心したという感情が浮かんでいた。しかし、シオンはそんなケントの頭を優しく撫でながら、表情を引き締めた。
「ええ。でもケント、忘れないで。魂を二つに分けたとしても、彼の隣に残した『あなたの半身』と今のあなたの魂は、もともと同じ一つの魂……。だから、どちらかの精神に何かあれば、必ずもう片方にも影響する。
だからこそ、彼を一人にしたくないなら、自分のことも大切にしなさい。もしどちらかのあなたの精神が壊れて、あなたの魂が消えてしまえば、彼の肉体には『彼本来の魂』だけが残されることになる。……そうなれば、あなたは二度と彼に寄り添うことも、守ることもできなくなるんだから」
「……うん。わかったよ、お姉ちゃん。僕、あの子のために、自分も大事にする」
ケントはシオンの言葉を深く胸に刻み、水底で微かに光る「彼」と、その周りにいた「自分の半身」を見つめた。
「さあ、行きましょう。あちらでは、他の姉たちもあなたの帰りを待っているわ」
シオンが再びゲートへと手をかざすと、渦はさらにその勢いを増し、大きくなった。冷たい風が、その縁から一段と強く吹き出してくる。
ケントは一歩、また一歩と、その入り口へと歩み寄る。足の感覚はまだ半分以上戻っていなかったが、不思議と歩くことだけはできた。
「行ってくるね」
ケントは水底の炎に向けて、小さく手を振った後、意を決して、ゲートの中へと飛び込んだ。
視界が反転し、重力が消え、足元の感覚も、風の音も、星空さえも光の中へ溶けていった。
背後でシオンが支える手の温もりだけを頼りに、ケントの意識は眩い光へと飲み込まれていった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
第3話では、ケントが自分の身を削ってでも「彼」を守ろうとする過酷な決断を描きました。魂を半分にするという選択が、今後二人のケントにどのような運命をもたらすのか、温かく(あるいはハラハラしながら)見守っていただけると嬉しいです。
そして、ついに地獄のような日々を抜け出し、舞台は異世界へ!
シオンが言っていた「他の姉たち」とは一体どんな人物なのか?
「雪月」という名に隠された秘密とは?
次回、第4話から新章突入です!
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