第二話:偽りの揺り籠、魂の片割れ
「あなたは雪月ケント……私『たち』の、たった一人の弟よ」
「弟って……。僕があなたの弟だなんて証拠、どこにあるの?」
その問いに、女性は困ったように眉を下げた。
「……ないわね。正直、ここはあなたの精神世界なんだけど、あなたからしたらそれすら信じられないでしょう?」
その言葉に、炎は疑いの目を向けた。
「……うん。いくらそんなこと言われても、あなたの言うことは信じられない」
「そうよね……」
「それに、僕はあなたの名前だって知らないんだ」
ハッとしたように、女性が顔を上げた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったわね。私の名前は雪月シオン。あなたの本当の姉よ。……信じられないとは思うけど、これだけは言えるわ。あなたが今『家族』だと思っている人たちは、絶対にあなたの家族じゃない」
「っ!! ……なんで、そんなひどいことを言うの!?」
「考えてみて。他にもきょうだいがいるのに、あなた一人だけあんな仕打ちをされるのよ。むしろ、血の繋がった家族だって言われる方が無理があるわ。……それは、『その肉体の持ち主』にとってもね」
炎はその言葉に違和感を覚え、思わず聞き返した。
「肉体の持ち主にも言えることって……どういうこと? この体は、僕のじゃないの?」
「ええ。その体はあなたのものではないわ。あなたはある出来事で魂だけの状態になり、彷徨ううちにその肉体に入り込んだの。そして、本来の持ち主の魂は、今も眠ったまま……」
あまりの情報に、炎は困惑を隠せなかった。言葉を詰まらせながら、必死に問いを重ねる。
「……あなたの言う通り、あの人たちと僕が家族じゃないとしても……。でも、元々の体の持ち主とあの人たちは、本当の家族のはずだよ。なのに、どうしてあの子も家族じゃないなんて言えるの? そんなのおかしいよ!」
シオンは淡々と答えた。
「おかしくないわ。だって、彼――元の肉体の持ち主は、あの人たちに拾われただけの『他人』なんだもの」
炎は激しく首を振った。何もかもが信じられない。自分の体ではないことも、どれだけ酷い目に遭っても大切に思おうとしていた家族が偽物だということも。炎は、怒りと悲しみに声を震わせた。
「……じゃあ、その『本当の持ち主の子』はどこにいるの? どこで眠ってるっていうんだよ!」
シオンは静かに、炎の足元を指差した。
「見て。あなたのすぐ下に」
言われるがまま、透き通った湖の底を覗き込んだ炎は、息を呑んだ。
澄んだ水底のずっと深く――。そこには膝を抱えて丸くなり、殻に閉じこもるようにして眠る、一人の少年の姿があった。
「……あの子が……」
それは、自分のものだと思っていた手足。鏡を見るたびに映っていた、自分の顔。すべてが自分のものではなく、たった一人の居場所すら奪ってしまった「借り物」だった。炎はその光景に絶望し、その場に崩れ落ちた。無理もない、彼はまだ8歳の男の子なのだ。虐待やいじめに耐えるための心の支えが「偽物」だったと知った衝撃は、計り知れない。
炎は泣きながら、溜め込んできた感情をこぼした。
「……ふざけるなよ! じゃあ、今までの僕の頑張りは、全部無駄だったってこと!?」
目から溢れたのは、悲しみよりも激しい「怒り」の涙だった。
「褒めてほしくて……お母さんたちに笑ってほしくて、家事だって勉強だって、あんなに一生懸命頑張ったのに! 学校で叩かれたって、バカにされたって、ずっとずっと耐えて、耐えて耐えて耐えて耐えて……!! ずっと耐えてきたのに!!」
炎は湖の面に拳を叩きつけた。波紋が、眠る少年の顔を歪ませる。
「全部、僕の体じゃないから意味ないなんて、そんなの勝手すぎるよ! 家族じゃないから叩いてもいいなんて……じゃあ、僕はなんのために頑張ればよかったの!? どこまで頑張れば、みんな優しくしてくれたの……っ!?」
そんな炎の姿を見て、シオンは視線が同じ高さになるまで腰を落とした。そして、細い指先で炎の頬を伝う涙をそっと拭い、一つの提案をした。
「ねえ、ケント。そんな場所、もう捨ててしまいなさい。あんな連中のために、これ以上耐える必要なんてないわ。……私たちの世界に来なさい」
炎は涙で濡れた顔を上げ、呆然とシオンを見つめた。
「……お姉ちゃんたちの……世界?」
「うん。そこで私たちと一緒に、幸せに生きましょう?」
「どうやって行くの……?」
シオンはその問いに答える代わりのように、何もない空間へと手を突き出した。
すると、虚空がまるでガラスにヒビが入るようにパキパキと音を立てて歪み始めた。歪みは次第に大きな渦となり、その中心から「夜」を切り取ったような真っ黒な穴が広がっていく。
「ここを通れば、あなたの魂は今いる肉体から離れて、私たちの世界へ行けるわ」
その言葉は、絶望の淵にいた炎……いや、雪月ケントにとって、暗闇に差し込んだ唯一の光だった。しかし、ケントはその光に飛び込むことを躊躇していた。
小さな胸の中に、一つの疑念が生まれていたからだ。
「僕の魂が抜けたら、今いる体はどうなるの?」
「体には何も変化はないわ。ただ……あなたの魂が今の半分以下になれば、精神の中に『隙間』ができる。そうすれば、彼の魂が自由に動けるようになって、自然と目を覚ますわ。」
「……あの子、起きてもびっくりしないかな?」
「大丈夫。彼はね、あなたが今まで体験したことを、すべて自分のこととして記憶しているから。だから目覚めても違和感はないし、言葉が分からなくなることもないわ。……まあ、あなたが身につけた知識や技術までは完全に引き継げないけれど、それは誤差のようなものよ。だから、ケントが気にすることはないわ。」
シオンはケントを安心させるように、穏やかな声で告げた。しかし、その答えでケントは一つの考えに至ってしまった。
(僕がこのまま行ったら、あの苦しみを味わうのはあの子だけになってしまう……。そんなのダメだ! でも、僕だってあの日々に戻るのは嫌だ。どうしたらいいの? ……そうだ!)
ケントは名案を思いついたかのように顔を上げ、すがるような目でシオンを見つめた。
「お姉ちゃ……」
「だめよ」
ケントが提案を口にしようとした瞬間、シオンの冷たい言葉がその唇を封じた。まるで彼の思考をすべて読み取っているかのように、彼女の瞳には一切の迷いもなかった。
「え? 僕、まだ何も言ってないのに……」
「ケントの言いたいことはなんとなくわかるわ。あの子も一緒に連れて行ってほしいんでしょ?」
シオンの指摘に、ケントは大きく頷いた。
「うん! だから、お姉ちゃん……」
「でも、だめなの」
「なんで!? どうしてあの子を置いていかなきゃいけないの!?」
ケントが叫ぶように問い詰めると、シオンは悲しげに目を伏せた。
「このゲートを通る間、私一人の力ではケント一人を守るのが精一杯なのよ。もしあの子まで連れて行って、二人の魂に何かあったら取り返しがつかないわ。それに、この門が開くのは今回一度きり。何度も往復して助け出すこともできない。……だから、申し訳ないけれど、あの子にはここに残ってもらうしかないの」
その言葉を聞いて、ケントの胸にはどうしようもない悲しみが込み上げた。
けれど、その時――ケントの頭に、とんでもない案が浮かんだ。……いや、「思いついてしまった」のだ。
「……わかったよ、お姉ちゃん」
ケントが力なく呟くと、シオンはどこか安心したような顔を見せた。
「なら、このまま一緒に……」
「僕の魂を、半分に分けることはできないかな?」
シオンの言葉を遮って放たれたその問いに、彼女の顔から色が消えた。
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