第1話:理不尽な世界と、湖の再会
(人は弱い。僕は八歳の年にして、それを痛感した。)
「おい! 炎。なんで学校に来てやがるんだよ!」
休み時間の喧騒に混じって、いつもの怒声が飛んできた。逃げる暇もなく、
ドカッ、と鈍い衝撃が走った。
腹部を蹴り上げられ、視界がぐにゃりと歪む。顔をコンクリートに打ちつけ、頬に食い込んだ砂利が焼けるように痛んだ。鼻の奥へ土埃が入り込み、思わず咳き込みそうになる。けれど、声は出さない。声を上げれば、もっとひどくなることを、炎はもう知っていた。
いつものことだった。
(僕に対して、こんなことをするのはわかっていた。……そして、誰も助けてくれないことも。)
倒れたまま、炎はぼんやりと視線を上げる。校舎の窓の向こうで、何人かの同級生がこちらを見て、すぐに目を逸らした。誰も声をかけない。誰も近づかない。それが、いつものことだった。
「おい、何をしているんだ?」
聞き覚えのある声がした。担任の教師だ。いじめっ子たちの動きが止まる。炎は、土まみれの顔のまま、わずかに胸の奥が緩むのを感じた。けれど、次の言葉に希望などなかった。
「別に炎に何をしてもいいが、バレるようなヘマはするなよ。私の責任になるんだからな」
「はーい」
教師は何事もなかったかのように踵を返し、その場を離れた。靴音が遠ざかっていく。背中に向けられる冷笑。炎は地面に手をつき、ゆっくりと身を起こした。膝も、肘も、擦り傷でじんじんと熱い。それでも、誰かに縋ろうという気持ちは、もう湧いてこなかった。
(僕に安全な場所はない。それは、家や通学路でも同じだ。)
下校中、夕暮れに差しかかった空は、橙色と灰色がまだらに混じり、どこか息苦しい色をしていた。道端で立ち話をしていた近所の人たちが、炎に気がついた途端、嫌悪感を隠そうともせずヒソヒソと囁き合った。
「いつ見ても不気味な子ね。あんなに薄汚れて……」
「ええ、あの顔。まるで自分が世界で一番不幸だと言わんばかりじゃない。見ているだけで気分が悪くなるわ」
そんな棘のある言葉が、雨のように降り注いだ。炎は俯き、ただひたすらに歩き、アスファルトに落ちる自分の影だけが、黙って隣を歩いてくれているような気がした。しかし、学校や外での出来事は、彼にとってまだ「マシ」な方だった。
「ただいま……」
玄関の引き戸に手をかける瞬間、いつも一拍、心臓が縮んだ。
今日は何を言われるだろうか、と。
「おい! 炎! 帰ってくるのが遅いぞ!」
扉を開けた瞬間、家中に怒号が響いた。声の主は、実の母親だ。玄関に立った炎の肩が、びくりと跳ねた。
「さっさと洗濯と掃除、晩飯の用意をしろ。ぐずぐずするな、役立たずが」
「はい」
炎は一切の反抗をせず、素直に従った。靴を脱ぐ手も、上着を置く手も、慣れた動きで無駄がなく、考えるよりも先に、体が動いてしまっていた。
空腹で目が眩み、体中のあざが痛んだが、この生活が当たり前だと思えるほど、彼は長い間、この地獄の中に閉じ込められていた。
水道の水は冷たく、洗濯物を絞る指先がじんと痺れる。雑巾を握る手の甲には、新しい傷と古い傷が重なり合っていた。
「おいおい、また母さんに怒られたのか?」
台所で忙しく立ち働く炎の背中に、兄と弟が嘲笑を投げかけきた。鍋をかき回す手を止めず、炎はその声を背中で受け止めた。
「ほんと、お前って怒られない日がないよな。要領が悪いんだよ」
「僕たちは一度も怒られたことないのにね。……血がつながってるなんて思いたくない。本当に『きょうだい』なのか疑いたくなるよ」
唇を強く噛む。血の味が口の中へ広がっても、炎は鍋をかき混ぜる手を止めなかった。込み上げる言葉も涙も、すべて喉の奥へ押し込み、ただ黙々と手だけを動かし続けた。
やがて夕食の支度が整うと、食卓には母親、兄、弟のほかに、父親と姉も顔を揃えた。湯気の立つ料理の匂いが部屋に満ちる。本来なら、誰もが顔をほころばせるはずの匂いだった。
温かい料理を囲む家族の中で、炎だけが一人、壁際で立っていた。誰の視線も炎に顔を向けないが、唯一の救いでもあり、何より惨めなことでもあった。
「そういえば炎、今日はテストが返ってきたか?」
不意に父親が問いかけた。冷徹な声に、炎の背筋が凍る。箸を持つ父の手が止まり、ぎょろりとした目だけがこちらに向けられた。
「算数と国語……算数は百点、国語は七十五点だった」
次の瞬間、父親が食卓を激しく叩いた。食器が跳ね、凄まじい音が響き、汁物が跳ねて、テーブルクロスに染みを作った。
「小学生のテストなら九十点以上を取れといつも言っているだろうが! 情けない奴だ!」
炎は、震える声で謝ることしかできなかった。膝の裏が小さく震え、握った両手の爪が手のひらに食い込んだ。
「他のきょうだいのように努力するならまだ許そう。だが、お前が家で努力している姿など、私は一度も見たことがないぞ!」
兄や姉は炎より一歳年上なだけの小学生で、彼らの点数は炎よりもずっと低い。四十五点が最高で、零点を取ることさえ珍しくないのだ。それでも、彼らが炎のように叱責されることは決してなかった。
「ごめんなさい、父さん。でも……家事が、忙しくて……」
「言い訳をするな! 家事はお前に課された義務だ。そんなことで免れると思ったら大間違いだぞ!」
激昂した父親が、炎の鳩尾を深く、全力で殴り飛ばした。
肺から空気がすべて絞り出され、焼けるような熱さが腹の芯で暴れる。視界が白く爆ぜた。
声も出せないまま、炎は床を這い、泥水を吐き出すように激しくむせ返った。溢れた涙が、汚れた床に染みを作った。喉の奥が酸の味でいっぱいになり、息を吸うたびに胸の中で何かが軋んだ。
「もういい。食器を洗ったら自分の部屋へ行け。顔も見たくない」
言われるがまま、炎は家族の分の食器を洗い、逃げるように自室へ戻った。流水の音だけが、やけに大きく耳に響いていた。
炎の自室は、古びたベッドが入るのが精一杯の、物置のような狭い空間だ。窓の隙間から、夜風が小さく鳴いていた。
部屋に入った途端、極限の疲労と痛みが炎を襲い、彼は崩れるように倒れ込んだ。薄いマットレスが軋み、埃っぽい匂いが鼻先をかすめた。
(やばい、眠気が……。明日の、家事の段取りを……考えないと……)
意識は重い闇へと沈み、炎はそのまま、底の見えない深い眠りに落ちていった。
*
ヒューと、耳元で風が鳴る音がした。
炎は、ハッと目を覚ました。
そこは、信じられないほどの数の星が空を埋め尽くす、幻想的な場所だった。
星々の瞬きはまるで宝石を散りばめたようで、遠くの森が豆粒のように見えるほど、その場所は果てしなく広大だった。空気は驚くほど澄み、肌に触れる風はひんやりと涼しく、どこからか、かすかに水の匂いがした。
そして何より――。
「あ……」
自分自身が、鏡のような湖の水面に立っていることに気がついた。足元からは波紋が広がっているが、靴が濡れる感覚はない。見下ろした水面には、無数の星が映り込み、まるで自分が宇宙の真ん中に立っているかのようだった。
「こ……これは、夢……?」
困惑する炎の背後から、静かな足音が近づいてきた。水面を踏む音は、現実のものとは思えないほど柔らかく、まるで音そのものが遠慮しているかのようだった。
不思議なほど懐かしく、そして透明な気配。
背後に立った者は、慈しむような、震える声で囁いた。
「久しぶり……ケント」
聞き慣れない名前に心臓が跳ね、炎は勢いよく振り向いた。
そこにいたのは、一人の女性だった。
夜の帳をそのまま紡いだような、深い藍色の長い髪。月明かりを吸い込んだような透き通る白い肌。
そして、吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、まっすぐ炎を射抜いていた。
人間離れしたその美しさに、炎は息を呑んだ。胸の中で、何かが小さく音を立てる。それが何の音なのか、炎自身にもわからなかった。
なぜ、彼女の瞳にはこれほどまでの安堵と、愛おしさの色があるのか。
女性は再び、震える唇で言葉を発した。
「会いたかったよ、ケント」
「……間違っていたらすみません。その、ケントというのは……僕のことですか?」
声がかすかに揺れた。戸惑いと、それ以上の何か――懐かしさにも似た感情が、胸の奥でざわめいている。
「ええ、間違いないわ。あなたは雪月ケントよ」
炎は、激しく戸惑いながらも首を振った。
「……どなたか分かりませんが、僕はあなたの言うケントという人間じゃありません。僕は、神崎炎です。……ずっと、そう呼ばれて育ってきました」
炎がそう告げると、女性はひどく悲しげな目をし、静かに首を横に振った。
その眼差しには、炎がこれまでの人生で一度も受け取ったことのない、感情が宿っていた。あまりにも見慣れないその色に、炎の方が思わず目を逸らしたくなるほどだった。
「いいえ、違うわ。あなたは雪月ケント……」
彼女は一歩踏み出し、炎の頬にそっと手を添えた。その掌は、驚くほど温かかった。指先が頬を撫でる感触に、炎は知らず、息を止めていた。
「……私『たち』の、たった一人の弟よ」
初投稿です。龍運と申します。
家族から虐げられた炎が、今後どう変わっていくのか……。
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