第1話:理不尽な世界と、湖の再会
(人は弱い。僕は八歳の年にして、それを痛感した。)
「おい! 炎。なんで学校に来てやがるんだよ!」
ドカッ、と鈍い衝撃が走る。
腹部を蹴り上げられ、視界がぐにゃりと歪んだ。コンクリートの地面に顔を打ちつけ、砂利が頬に食い込む。けれど、声は出さない。
いつものことだった。
(僕に対して、こんなことをするのはわかっていた。……そして、誰も助けてくれないことも。)
「おい、何をしているんだ?」
聞き覚えのある声。担任の教師だ。いじめっ子たちの動きが止まる。けれど、次の言葉に希望などなかった。
「別に炎に何をしてもいいが、バレるようなヘマはするなよ。私の責任になるんだからな」
「はーい」
教師は何事もなかったかのように踵を返し、その場を離れた。背中に向けられる冷笑。
(僕に安全な場所はない。それは、家や通学路でも同じだ。)
下校中。道端で立ち話をしていた近所の人たちが、炎に気がついた途端、嫌悪感を隠そうともせずヒソヒソと囁き合う。
「いつ見ても不気味な子ね。あんなに薄汚れて……」
「ええ、あの顔。まるで自分が世界で一番不幸だと言わんばかりじゃない。見ているだけで気分が悪くなるわ」
そんな棘のある言葉が、雨のように降り注ぐ。炎は俯き、ただひたすらに歩いた。しかし、学校や外での出来事は、彼にとってまだ「マシ」な方だった。
「ただいま……」
「おい! 炎! 帰ってくるのが遅いぞ!」
玄関の扉を開けた瞬間、家中に怒号が響いた。声の主は、実の母親だ。
「さっさと洗濯と掃除、晩飯の用意をしろ。ぐずぐずするな、役立たずが」
「はい」
炎は一切の反抗をせず、素直に従った。
空腹で目が眩み、体中のあざが痛む。けれど、この生活が当たり前だと思えるほど、彼は長い間、この地獄の中に閉じ込められていた。
「おいおい、また母さんに怒られたのか?」
台所で忙しく立ち働く炎の背中に、兄と弟が嘲笑を投げかける。
「ほんと、お前って怒られない日がないよな。要領が悪いんだよ」
「僕たちは一度も怒られたことないのにね。……血がつながってるなんて思いたくない。本当に『きょうだい』なのか疑いたくなるよ」
炎は唇を噛み締め、無言で家事をこなした。心臓の奥が冷たく凍りついていくような感覚に耐えながら。
やがて夕食の支度が整うと、食卓には母親、兄、弟のほかに、父親と姉も顔を揃えた。
温かい料理を囲む家族の中で、炎だけが一人、壁際で立っていた。
「そういえば炎、今日はテストが返ってきたか?」
不意に父親が問いかけた。冷徹な声に、炎の背筋が凍る。
「算数と国語……算数は百点、国語は七十五点だった」
次の瞬間、父親が食卓を激しく叩いた。食器が跳ね、凄まじい音が響く。
「小学生のテストなら九十点以上を取れといつも言っているだろうが! 情けない奴だ!」
炎は、震える声で謝ることしかできなかった。
「他のきょうだいのように努力するならまだ許そう。だが、お前が家で努力している姿など、私は一度も見たことがないぞ!」
兄や姉は炎より一歳年上なだけの小学生だ。しかし、彼らの点数は炎よりもずっと低い。四十五点が最高で、零点を取ることさえ珍しくないのだ。それでも、彼らが炎のように叱責されることは決してない。
「ごめんなさい、父さん。でも……家事が、忙しくて……」
「言い訳をするな! 家事はお前に課された義務だ。そんなことで免れると思ったら大間違いだぞ!」
激昂した父親が、炎の鳩尾を深く、全力で殴り飛ばした。
肺から空気がすべて絞り出され、焼けるような熱さが腹の芯で暴れる。視界が白く爆ぜた。
声も出せないまま、炎は床を這い、泥水を吐き出すように激しくむせ返った。溢れた涙が、汚れた床に染みを作った。
「もういい。食器を洗ったら自分の部屋へ行け。顔も見たくない」
言われるがまま、炎は家族の分の食器を洗い、逃げるように自室へ戻った。自室といっても、古びたベッドが入るのが精一杯の、物置のような狭い空間だ。
部屋に入った途端、極限の疲労と痛みが炎を襲い、彼は崩れるように倒れ込んだ。
(やばい、眠気が……。明日の、家事の段取りを……考えないと……)
意識は重い闇へと沈み、炎はそのまま、底の見えない深い眠りに落ちていった。
*
ヒューと、耳元で風が鳴る音がした。
炎は、ハッと目を覚ました。
そこは、信じられないほどの数の星が空を埋め尽くす、幻想的な場所だった。
星々の瞬きはまるで宝石を散りばめたようで、遠くの森が豆粒のように見えるほど、その場所は果てしなく広大だった。
そして何より――。
「あ……」
自分自身が、鏡のような湖の水面に立っていることに気がついた。足元からは波紋が広がっているが、靴が濡れる感覚はない。
「こ……これは、夢……?」
困惑する炎の背後から、静かな足音が近づいてきた。
不思議なほど懐かしく、そして透明な気配。
背後に立った者は、慈しむような、震える声で囁いた。
「久しぶり……ケント」
聞き慣れない名前に心臓が跳ね、炎は勢いよく振り向いた。
そこにいたのは、一人の女性だった。
夜の帳をそのまま紡いだような、深い藍色の長い髪。月明かりを吸い込んだような透き通る白い肌。
そして、吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、まっすぐ炎を射抜いていた。
人間離れしたその美しさに、炎は息を呑んだ。
なぜ、彼女の瞳にはこれほどまでの安堵と、愛おしさの色があるのか。
女性は再び、震える唇で言葉を発した。
「会いたかったよ、ケント」
「……間違っていたらすみません。その、ケントというのは……僕のことですか?」
「ええ、間違いないわ。あなたは雪月ケントよ」
炎は、激しく戸惑いながらも首を振った。
「……どなたか分かりませんが、僕はあなたの言うケントという人間じゃありません。僕は、神崎炎です。……ずっと、そう呼ばれて育ってきました」
炎がそう告げると、女性はひどく悲しげな目をし、静かに首を横に振った。
その眼差しには、炎がこれまでの人生で一度も受け取ったことのない、深い「愛」が宿っていた。
「いいえ、違うわ。あなたは雪月ケント……」
彼女は一歩踏み出し、炎の頬にそっと手を添えた。その掌は、驚くほど温かかった。
「……私『たち』の、たった一人の弟よ」
初投稿です。龍運と申します。
家族から虐げられた炎が、今後どう変わっていくのか……。
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