第25話:入学式までのそれぞれ
「――姉さんたち、もういいよ。行こう?」
世界が崩壊するかのような絶望的な殺意の中、ケントがいつもと変わらない穏やかな声で、シオンたちの袖をそっと引いた。
ピタッ、と。
その瞬間、正門前を支配していた凍りつくような威圧感が嘘のように霧散した。
「……ええ、ケントがそう言うなら、ね」
シオンがすっと視線を外し、凪も
「ふふ、そうね。お腹も空いてきちゃったわ」
とおっとりとした笑顔に戻る。雅はフンと鼻を鳴らし、ノノはケントの腕にぎゅっと抱きついた。ケントの一言で、4人は一瞬にしていつもの「優しいお姉様たち」へと戻ったのだ。
周囲の受験生たちが
「は、助かった……」
と激しく安堵の息を漏らす中、ケントたちの視線の先では、ギルバートが完全に事切れたように白目を剥いて倒れていた。
先ほどの姉たちの底知れぬ殺意の圧力に精神が耐えきれなかったのだろう。彼は完全に泡を吹いて気絶しており、あろうことか、その豪華な衣装の股のあたりは無様に濡れそべっていた。大貴族のプライドも、一目惚れの淡い恋心も、文字通りすべてを失っての完全な失禁敗北だった。
「うわぁ……。じゃあ、早く帰ってケーキ食べよう」
ケントは苦笑しながら、気絶したギルバートには二度と視線を向けることなく、姉たちに囲まれて歩き出した。
その日の夜、ベルトラン伯爵家の邸宅では、怒号と重苦しい空気が響き渡っていた。
学園の正門前で気絶し、馬車で担ぎ込まれたギルバートは、目を覚ますなり父親であるベルトラン伯爵に泣きついた。
「父上! お願いです、あの無礼極まる平民のガキと、その姉だという女4人を今すぐ捕らえて処刑してください! 僕にあれほどの屈辱を与えたのです、ベルトラン伯爵家の名にかけて、絶対に許しておくわけにはいきません!」
屈辱と怒りで顔を真っ赤にしながら叫ぶ息子に対し、伯爵は慰めるどころか、冷徹な視線を投げ下ろしただけだった。
「……阿呆め。何を血迷ったことを言っている」
「父上……?」
「お前が泣いた場所はあの学園だぞ。あそこは国から特別な独立を認められた、いかなる権力者の介入も受け付けん独立組織だ。学園内にいる者が何者なのかを我が家が調べることすらできんし、万が一わかったところでどうする?」
伯爵は大きなため息をつき、書机の上の書類に目を戻した。
「気配だけでお前を失神させるような実力者どもだ。そんな化け物相手に、我が家の私兵を動かしたところで無駄死にに終わるのが関の山よ。そもそも――」
伯爵の目が、鋭くギルバートを射抜く。
「学園の正門前という公衆の面前で、恐怖のあまり失禁して気絶しただと? ベルトラン伯爵家の嫡男として、あるまじき醜態を晒してきたのはお前の方だ! 我が家の名を泥に塗った愚か者が、被害者面をして吠えるな!」
父親からの烈火のごとき叱責を受け、ギルバートはそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「ひっ……!」
父親からの烈火のごとき叱責を受け、ギルバートはそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「ひっ……!」
あまりの恐怖に身をすくませると、這うようにして自室へと退散した。
自分の部屋の重い扉を閉め、ベッドへと倒れ込んだギルバートは、悔しさと恥ずかしさで歯をガチガチと鳴らした。シーツを強く引きちぎらんばかりに握りしめ、枕に顔を押し付ける。
父親にすら怒鳴られ、すべてが狂った原因。それは、あの場にいた女たちではない。自分をあの場所で、あのタイミングで軽蔑し、見下したあの小さなドブネズミ――ケントのせいだ。
「ケント……ケント、ケント、ケントォッ……!!」
暗い部屋の中、ギルバートの瞳にドス黒い炎が灯る。
それは歪んだプライドから生まれた、逆恨みに限りなく近い、激しい『固執』の感情だった。入学すれば、否が応でも同じ学園で顔を合わせることになる。
「絶対に許さないぞ……学園に入ったら、僕のすべてを賭けて、お前を地獄に叩き落としてやる……!」
合格発表の喧騒を離れ、ケントはいつもの見慣れた我が家の扉をそっと開けた。
「ただいま、みんな」
「おかえり、ケント」
ケントは手にした合格通知と用意する物品のリスト資料をテーブルに置くと、少し困ったように眉を下げて報告した。
「みんなのおかげで、無事にSクラスに入れたよ。総合点は1486点だったんだ。……それとね、ボクが今期の首席になっちゃったみたいで、入学式で新入生代表の挨拶をしないといけないんだって。辞退したいって言ったんだけど、キッパリ断られちゃったよ」
「1486点? ふふ、さすがは私たちのケントね。あの難易度の試験でそれだけ取れば、首席になるのは当然だわ」
シオンは笑みを浮かべ、誇らしげに頷いた。
「あら、新入生代表の挨拶なんて素敵じゃない。ケントならきっと立派にこなせるわよ。さあ、挨拶の準備を始めましょうか」
凪が嬉しそうに微笑み、ノノも
「ケント…かっこいい!」
と無邪気にパチパチと手を叩いた。
姉たちの温かい応援に背中を押され、ケントは早速、もらった資料に目を落として入学の準備を始めようとした。しかし、そのリストに書かれている内容は、流石は国から独立した特権を持つ学園というべきか、非常に独特なものだった。
「ねえ、雅ねぇ。この用意する物品のリスト、なんだか面白いことが書いてあるんだ」
「どれどれ……?」
雅がケントの隣から資料を覗き込む。そこには、以下のような規定が記されていた。
『一、武器は各自、自分に合う種類の武器を用意すること』
『二、教科書は指定のものは存在しない。各自、自分が本当に必要だと思った本を手に入れて持参すること』
一般的な学校のように「これを買いなさい」と指定されるのではなく、すべては生徒の自己責任と裁量に委ねられているのだ。
「……ねえ、これ。武器も教科書も、僕たちで新しく買いに行かないとダメかな?」
資料を見つめながらケントが首を傾げると、お姉様たちは顔を見合わせ、楽しげにフッと微笑んだ。
「新しく買う必要なんてないわよ、ケント。うちの書庫にはあんたが読むべき本が山ほどあるし、武器だって、あんたが今使っているものが一番馴染んでいるもの」
雅が当然のように言うと、シオンも「ええ。わざわざ市井の安物を買い足す必要はないわ」と静かに頷いた。
「そっか。じゃあ、今持っているものを用意すればいいんだね」
ケントはホッと胸を撫で下ろしたが、ふと、これから始まる新しい生活に思いを馳せ、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「……でも、学園に入学したら、姉さんたちとはあんまり一緒にいられないんだよね。今まで毎日ずっと一緒にいたから、なんだか変な感じがするなぁ」
12歳の少年らしい、ちょっぴり甘えるようなケントの言葉。
しかし、それを聞いた姉たちは、寂しがるどころか、どこか怪しげで意味深な笑みを浮かべた。
「ふふ、どうかしらね? そんなこともないと思うわよ?」
凪が頬に手を当てて微笑んだ。
「そうよ、ケント。あんたが思っているほど、私たちはあんたから離れたりしないわ」
雅がニヤニヤと笑い、ノノも
「ノノ…ケントと…ずっと…一緒!」
と嬉しそうに声を弾ませた。
「えっ……? そうでもないって、どういうこと……?」
国から完全に独立した学園は、原則として生徒と教職員以外の立ち入りは厳しく制限されているはずだ。姉たちの不穏な言葉の意味が気になり、ケントがさらに詳しく質問しようと口を開きかけた、その時だった。
「さあケント、そんなことより今は新入生代表の挨拶の準備よ。大事な弟が全校生徒の前で恥をかかないように、私たちが原稿のチェックをしてあげるわ」
シオンにパンと優しく手を叩かれ、促されるようにそちらへ意識を向けられる。
「あ、うん! 分かったよ、じゃあまずは最初の挨拶の部分から考えてみるね!」
ケントの気はすっかり挨拶の準備へと移ってしまった。
そして迎えた――学園の入学式当日。
麗らかな春の陽気の中、ケントは仕立て上がったばかりの新品の学生服に身を包んでいた。
12歳の平均より少し小さな体躯に、少し大人びたデザインの制服。愛らしさと凛々しさが絶妙に同居したその姿は、姉たちにとってあまりにも破壊力が抜群すぎた。
「……ちょっと、ケント。あんた、可愛すぎるわよ。学園の悪い虫に目をつけられないか、私は本気で心配になってきたわ」
雅が顔を両手で覆いながら悶絶し、シオンは無言のままカメラの魔導具を構えんばかりの勢いでケントを凝視していた。
「ふふ、本当によく似合っているわ。格好いいわよ、ケント」
凪がうっとりとした表情で何度も襟元を直しては、なかなかケントを家から出そうとしない。
「ケント…お人形さん…みたい! ノノ…ずっと…見てられる!」
ノノにいたってはケントの腕にがっしりと抱きついて離れず、結局、姉たちがケントの制服姿に見惚れて大騒ぎしたせいで、出発が大幅に遅れる羽目になってしまった。
「わわっ、もうこんな時間!? 姉さんたち、ボク本当に行かなきゃ遅刻しちゃうよ!」
ケントは慌てて姉たちをなだめて家を飛び出し、全力で学園へと向かって走った。
* * *
「はぁ、はぁ……。あぶない、なんとか遅刻しかけたけど間に合った……」
息を乱しながら学園の厳かな正門をくぐり、ケントは式典が行われる巨大な講堂へと滑り込んだ。
会場内には、すでにSクラスからFクラスまでの新入生たちが整然と並んで座っており、張り詰めた緊張感が漂っている。ケントが小走りで自身の席へと向かうと、周囲の生徒たちから「なんだ、あのチビは?」「遅刻しかけるなんて、どこの不届き者だ」と、ヒソヒソとした囁き声が向けられた。
その視線の中には、当然、あの男の姿もあった。
(……ケント。やはり来たか、ドブネズミめ)
Sクラスの席に座るギルバートは、遠くからケントを睨みつけ、その瞳にドス黒い執念を燃やしていた。
あの合格発表の夜以来、ケントへの恨みを募らせてきた彼は、この学園生活でケントを見返す機会を虎視眈々と狙っていた。
「これより、入学式を執り行う――」
教壇に立った教員の声が響き渡り、いよいよ式典が開始される。
新入生たちの緊張が最高潮に達する中、胸ポケットに入れた「首席の挨拶」の原稿をそっと触りながら、心臓をドキドキと高鳴らせていた。
次回からついに学園編になります。今後のお話が気になる人はブックマーク、評価などをしてくれると執筆の励みになります。




