17
演習場の中央に引かれた白線の向こうで、雷の気配が膨れ上がっていた。
観客席からの歓声は、ざわめきというより波だ。
上位ランカー同士の対戦が始まる前の、落ち着かない熱気が肌を刺す。
視線は中央に集まっている。
序列第八位――ライゼル・ヴォルトレイグ。
そして、序列第九位――シオン。
だが、注目を集めているのは俺だけではない。
むしろ、あの得体の知れない“九位”に向けられた好奇の目の方が、数が多いかもしれない。
それが、どうしようもなく気に食わない。
あの模擬戦で、王級相手に胸も借りず、意味の分からない棒読み演技で降参したこと。
逃げたのか、守ったのか、どちらでもいい。
問題は、周囲がそれを勝手に“意味のある行動”として扱い始めたことだ。
こちらは王族だ。上位だ。秩序を保つ側だ。
それなのに、あんな中身の読めない男に空気を支配されるのは我慢ならない。
さらに言えば、ライゼルは“守る”立場の人間だった。
帝国の順位も、皇子の体面も。
だからこそ、不確定な芽は早めに摘む。
今回は、ちょうどいい機会だ。立場を使って組ませた。正当な手続きの範囲で、正当な顔をして。
(……くだらない言い訳だ)
そう言い聞かせないと、自分の苛立ちが幼稚に見えるのが分かっている。
ライゼルは舌の裏で息を殺し、前へ出た。
視線の端で、高台の貴賓席にアリアたち王級の姿が見えた。
見られている。
それは快感でもあるし、強烈なプレッシャーでもある。
だからこそ、完璧に勝つ必要がある。
圧倒して、黙らせる。
それが王族の、ヴォルトレイグの戦い方だ。
◆
「――顕現せよ。雷帝・ヴォルティノーグ」
名を呼んだ瞬間、空間が裂けた。
オゾン臭が濃くなる。乾いた、焼けた金属の匂い。
膨大な魔力が地面の砂を震わせ、重力すら歪んだように粒が跳ねる。
光が集まり、巨大な輪郭が立ち上がる。
現れたのは、3メートルを超える巨体。
全身が雷光で編まれた鎧のような筋肉に覆われ、頭上には王冠のように稲妻の角が揺らめいている。
【雷帝・ヴォルティノーグ】。
上級精霊の枠組みの中では、間違いなく最上位。王級には届かないが、並の上級精霊では束になっても敵わない“帝王”だ。
観客席の生徒たちが召喚していた精霊たちが、恐怖で一斉に距離を取った。
人間のざわめきが、悲鳴に近い歓声へと変わる。
ライゼルはそれを背中で聞きながら、苦く笑った。
従えている? いや、違う。
従わせている? それも違う。
『付き合ってもらっている』が一番近い。
ヴォルティノーグの格は、本来ならライゼルごときが使役できる範疇を超えている。
それでも、こいつは従う。
俺が“面白い”から。
そういう気まぐれな精霊だ。
だからこそ、ライゼルは常に全力を強要される。
つまらない主だと見切られたくない。
主従の形を保つために、主が必死になる。
笑える話だが、それが事実だった。
ライゼルは息を吐き、腕を前へ突き出す。
ヴォルティノーグの指先から雷が垂れ、地面の砂が黒くガラス化する。
「準備はよろしいですか」
教師の声。
対する九位――シオンは、妙に気が抜けて見えた。
緊張していないわけではない。ただ、その緊張が表に出てこない。
その“普通さ”が、ライゼルを余計に苛立たせる。
「よろしくお願いします」
シオンは礼儀だけは崩さず、軽く頭を下げた。
馬鹿にしているのか。
そう疑ってしまうほど、隙のない所作。
そして、次の瞬間。
シオンの足元に、金色の粒子が集まった。
小さな黒猫が、ふわりと砂地へ降り立つ。
【精霊実体化戦闘】。
奇しくも、二人は同じ戦闘スタイルを選んだ。
ここまでの戦いを見ていた観客が、遅れて息を呑む。
「……あの猫か」
ライゼルは内心で吐き捨てた。
また、あの時のように意味のない演技を見せられるのか。
焦燥と怒りがライゼルの中で渦巻く。
だが、ヴォルティノーグは違った。
雷帝の纏う雷が、一瞬だけ鳴り方を変えた。
――興味。
まるで、同格の獲物を見つけた猛獣の反応。
ライゼルにとっては、それがさらに気に食わなかった。
◆
「開始!」
教師の合図が落ちる。
「蹂躙しろ!!」
ライゼルの咆哮に合わせて、雷帝が前へ出る。
自分がこの場の支配者だと言わんばかりの威圧感。
雷帝は自身の魔力で形成した雷の大剣を担ぎ上げ、眼下の『敵』を見下ろした。
瞬間、雷光が地面を走り、会場全体が白く染まる。
「行けッ!」
ライゼルの短い命令と同時に、ヴォルティノーグが大剣を振るう。
雷の刃が空を裂き、小さな猫へと降り注ぐ。
直撃すれば炭化すら残らない一撃。
だが。
金色の猫が、ひらりと跳ねた。
紙一重。
ただ避けるだけではない。
雷の落ちる角度に合わせて、体毛の表面で電気を受け流し、軌道をずらしている。
あの小さな体で、あり得ないほど精密な魔力操作。
どよめきが起きる。
その声が、ライゼルの神経をやすりで削る。
「逃げるだけか?」
ヴォルティノーグは踏み込み、さらに大剣を叩き込む。
二撃。三撃。
人間の目には同時多発的な落雷に見えるほどの超高速連撃。
だが、猫はまた躱す。
大きくは動かない。
最小限のステップで、致命の線だけを外す。
まるで舞踏でも踊っているかのような優雅さ。
猫が地面を蹴り、金色の尾が残像になる。
その瞬間、ライゼルの頬を何かが撫でた。
痛みはない。
だが、冷たい。
光の粒が散り、そこだけ世界から切り取られたように空気が薄くなった気がした。
「……っ」
ぞくり、とした。
雷でも水でも火でもない。
この世の属性(理)に当てはまらない、根源的な違和感。
ライゼルはそれを“気のせい”として押し潰した。
いや、押し潰さなければ立っていられなかった。
「ヴォルティノーグ、もっと出せ!!」
雷帝が、低く笑う気配を返した。
応えるように、雷が太くなる。
空気が震え、観客席の生徒たちの髪が逆立つ。
ライゼルの肺が熱くなる。
分かっている。無理だ。
【精霊実体化戦闘】は、維持するだけで術者の魔力も体力も削る諸刃の剣。
相手を潰す前に、自分が削れていく。
それでも止められない。
王級の視線が背中にある。
勝たなければならない。
勝ち方も大事だ。圧倒して、黙らせなければならない。
雷帝が地面を蹴った。
巨体が動く。
砂が吹き飛び、雷の軌跡が残る。
「終わりだ」
ライゼルは宣告し、残る全魔力を一点に収束させる。
ヴォルティノーグの大剣に魔力が集まり、太陽のような魔力球へと変わる。
放てば、演習場の結界ごと吹き飛ばしかねない威力だ。
短期決戦の切り札。
ここで決める。
そう思った瞬間。
猫が、楽しそうに跳ねた。
逃げるのではない。
雷の球へ、真正面から突っ込んだ。
「正気か――」
ライゼルの思考が追いつく前に、金色の粒子が雷を“撫でた”。
撫でる。
そんな言葉が一番近かった。
雷の球が、爆ぜない。
消えもしない。
ただ、力の出力が狂う。
パンッ、と軽い音がして。
必殺の雷球が四方へ霧散し、ただ会場を明るく照らすだけの照明へと変わった。
「――なっ…!」
ライゼルは息を呑んだ。
相殺ではない。干渉だ。
しかも、乱暴な力技ではない。
数式のプラスとマイナスを書き換えるように、余計なエネルギーだけを削ぎ落とし、結果だけを変えた。
その瞬間、ヴォルティノーグの動きがほんの一拍遅れた。
雷帝が、猫を見ている。
面白がっている。今にもスタミナ切れで倒れそうな主を置いて、目の前の未知なる存在に心を奪われている。
胸の奥が冷えた。
見限られる。
精霊に。観客に。世界に。
ライゼルは焦りを憎悪に変え、自ら踏み込んだ。
「ふざけるな……!」
息が荒い。
肺が焼けるように熱い。
「直接やってやる…!」
実体化を解除し、雷帝の姿が消える。
代わりに、ライゼルの手には雷帝と同じ形状の雷の大剣が握られていた。
最後の賭け。自身の肉体を使った特攻。
身体は鉛のように重く、足取りはおぼつかない。
それでも、足を止めない。まっすぐとシオンに向かっていく。
魔力を絞り出し、反応速度を限界まで上げ、大剣を振り上げる。
だが、シオンは受けない。
避ける。
最小限の動きで。
あまりにも落ち着いている。
そして――
ライゼルは気づいた。
自分が追い込んでいるのではない。
自分が“追いかけさせられている”。
短期決戦のつもりが、いつの間にか主導権を完全に奪われている。
自身を取り巻く雷が、制御を失って荒れ狂う。
限界だ。
ライゼルの身体が悲鳴を上げている。
それでも止められない。止めた瞬間、負けを認めることになる。
次の攻撃で決める。いや、決めなければならない。
そう思って大剣を振り抜いた、その瞬間。
視界が揺れた。
足元がずれた。
雷で強化しているはずの脚が、言うことを聞かない。
息が吸えない。
胸が詰まる。
全てにおいて他者を圧倒してきた彼の人生において、それは初めての経験だった。
魔力切れ。すなわちガス欠。
「……っ、はっ……」
膝が折れる。
そこで、シオンが初めて前へ出た。
シオンとともに、猫がふわりと跳ね、ライゼルの視界の端を横切る。
金色の瞳と目が合った気がした。
次の瞬間、攻撃が来ると思った。
それは決定打になりえる大きな攻撃だ。
だから構えた。最期の意地で。
だが、衝撃は来なかった。
ただ、意識だけがプツリと途切れた。
まるで、最初からそうなることが決まっていたかのように。
光の粒子がキラキラと瞬いていた。
――そこで、ライゼル・ヴォルトレイグの世界は暗転した。
「――勝者、シオン!」




