お嬢様 『その名は、軽くない』
「このままじゃ、私たちの青春が終わってしまいますわ。
そう思いませんか?」
突然、琴音が言い放った。
休憩所のベンチに腰を下ろしていた面々は、缶コーヒーを手にしたまま彼女を見る。
「最近、裏レースばっかりでしたものね」
「青春って言葉、ちょっと忘れてたかも」
「でも、美味しいもの食べて、みんなで走ってるなら、それも青春じゃない?」
「それ、食い気だけで言ってません?」
誰かの軽口に、小さな笑いがこぼれる。
その緩んだ空気を受け止めるように、雅が缶コーヒーを置いた。
「それなら、箱根にでも行きましょうか」
皆の視線が、一斉に雅へ向く。
「ただし、いつもの格好では目立ちますわね」
梓がすぐに頷いた。
「バイクを変えましょう。ツナギもライダースーツも禁止。フルフェイスもなし。私服に近い格好で、普通のツーリング客として行けばいいだけですわ」
「身分を隠して、普通の休日を楽しむ。悪くありませんわね」
雅が微笑む。
こうして、アルテミスとルナゴスペルの面々は、身分を隠して箱根へ向かうことになった。
私服に近いラフなツーリングスタイル。
バイクも二百五十cc以下の控えめなモデル。
いつもの戦闘モードとは違う。
肩の力を少しだけ抜いた、久しぶりの休日だった。
箱根の休憩所で缶コーヒーを手にしていると、五台の小型バイクが駐車場に入ってきた。
百二十五ccから二百五十ccほどの車体。
派手な改造はない。けれど、どのバイクも丁寧に磨かれていた。
乗り手のバイク愛が、そこに出ていた。
ライダーたちは高校生くらいの少女たちだった。
まだあどけなさの残る顔で、互いに笑いながらヘルメットを外している。
美奈子が、にやりと笑って声をかけた。
「へえ。あんたらも走ってきたんだ? 仲良いな」
リーダー格らしい少女が、少し驚いたように振り向く。
だが、美奈子の表情に敵意がないと分かると、警戒を解くように笑った。
「はい。でも……ちょっと悩んでるんです」
「悩み?」
梓が首をかしげる。
少女は視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。
「この間、“アルテミス”と“ルナゴスペル”の人たちに絡まれたんです。すごく有名で、強い人たちで……でも、『お前らみたいな弱小は道を走るな』って、ひどいことを言われて……」
アルテミスとルナゴスペルの面々が、静かに顔を見合わせる。
「私たちの名前を騙ってる連中がいる……?」
誰かが小さく呟いた。
少女たちは、それに気づかない。
むしろ憧れを隠しきれない目で、言葉を重ねた。
「でも、あの人たちは有名人だから仕方ないんです。私たちみたいな小さいチームじゃ、相手にならないし……」
「アルテミスさんとルナゴスペルさんは、やっぱり格好よくて、私たちとは住む世界が違うんですよね」
無垢な信頼だった。
だからこそ、本物たちの胸に刺さった。
雅は、手の中の缶コーヒーを握りしめる。
「……私たちの名を使って、弱い子たちを苦しめるなんて」
美奈子の目も、もう笑っていなかった。
「アタイらの名前を騙って好き勝手か。腹立つねぇ」
それでも、彼女たちはすぐには名乗らなかった。
高校生たちは、目の前の女性たちが本物だとは気づかない。
ただ、優しい先輩たちに出会えたと思っているだけだった。
「ありがとうございます。やっぱり、先輩方って優しいですね」
「先輩って……まあ、年上もいますけど、私たちも高校生ですわよ」
梓が苦笑する。
昼下がりの箱根。
観光客で賑わう駐車場の一角で、彼女たちはしばらくバイク談義に花を咲かせていた。
その時だった。
耳障りな排気音が、駐車場に割り込んできた。
数台の大型バイクが、わざと音を響かせながら滑り込んでくる。
無駄に派手なカスタム。
大きすぎる排気音。
特攻服まがいの上着。
そして、アルテミスとルナゴスペルを模したカラーのヘルメット。
高校生チームの少女たちが息をのむ。
「……き、来た……! アルテミスさんとルナゴスペルさんだ!」
彼女たちは、すぐそばにいる雅や美奈子たちには気づかない。
駐車場の隅に現れた一団を、本物だと信じていた。
アルテミスを名乗る女が、観光客にも聞こえるように高笑いする。
「ハッ! また会ったな、小娘ども。あたしたちアルテミスに逆らおうなんて百年早いんだよ!」
ルナゴスペルを名乗る女も、負けじと声を張る。
「お前らみたいなチビチームは、せいぜい原付でも乗ってろ! この神奈川の道路はアタシらが仕切ってんだ!」
高校生たちは萎縮し、下を向いた。
少し離れた場所で、雅たちはその光景を見ていた。
梓の眉間に、深い皺が寄る。
「……あんな安っぽい連中が、私たちの名を」
仲間たちの何人かが、今にも飛び出しそうになる。
梓が、それを制した。
「まだですわ。ここで正体を明かせば、どちらが本物かでもめます」
美奈子も、血の気の多い仲間たちを視線で押さえる。
「落ち着け。まだ出番じゃない」
雅は目を細めたまま、名を騙る者たちを見つめていた。
「ええ。今はまだ……でも、あの子たちに手を出すなら、話は別です」
美奈子が、低く笑う。
「その時は派手にやろうぜ。本物の名にかけてな」
駐車場の視線が集まる中、偽物たちは高校生チームを囲むようにバイクを並べた。
マフラーから爆音を吹かし、威圧する。
「どうした? 口もきけないのか?」
「“アルテミス様”に挨拶もできねぇとはな。お嬢ちゃんたち、育ちが悪いんじゃねえか?」
ルナゴスペルを名乗る一人が、少女の肩へ手を伸ばす。
小突くような仕草だった。
高校生の一人が、震える声で言い返す。
「わ、私たちは……ただバイクが好きで……!」
偽物たちは、一斉に笑った。
「バイクが好きぃ? そんなの誰でも言えるんだよ!」
「アタシらに土下座して“通してください”って言えば、少しは許してやるけどな」
「通行料払うってんなら、子分にしてやってもいいぜ」
遠巻きに見ていた本物たちは、怒りを押し殺していた。
だが、偽物の一人が少女たちのバイクに手をかけた。
そして、蹴り飛ばすように足を上げる。
「壊されたら……もう走れなくなる……!」
高校生の一人が、泣きそうな声を漏らした。
その瞬間だった。
「やめてください!!」
一番小柄な少女が、声を振り絞った。
偽物の腕を、必死に振り払う。
「なぁに? ガキのくせに逆らう気か?」
アルテミスを名乗る女が、指を鳴らしながら近づく。
それでも、小柄な少女は逃げなかった。
震えながら、仲間のバイクの前に立つ。
「たとえ勝てなくても……バイクを壊されるくらいなら、あたしが止める!」
その言葉に、仲間の四人が顔を上げた。
雅の手の中で、缶コーヒーの缶が小さく軋んだ。
美奈子が、ゆっくりと立ち上がる。
さっきまでの休日の色は、もうどこにも残っていなかった。




