第3色
第3色
じりじりと陽が責めるような、うだる夏。日本特有のじっとりとした、息も詰まる猛暑。カゲロウの揺れる溶けそうな暑さに、周囲の人間は手で顔を仰ぎ、衣服の襟をはたはたと動かしている。
だから、イノリも周りを真似てみる。手で顔を仰ぎ、衣服をはためかせる。けれど、特に何も変わらなかった。これで暑さが変わるわけではなくて、きっと、おまじないのような気休めなのだろうと、納得した。だって、少女は涼しいとは感じなかったから。
暑いとか、知らなかったから。
一瞬、道路の上を揺らいでいたカゲロウが嗤ったように見えた。怖くなって、周りを見る。周囲の人は気づいていない。あぁ、気のせいだったのね、と安心する。何もおかしなことは起こっていないと。
―――私もまだ、誰にも見えていないのだ、と。
スクランブル交差点。人通りの多い、土曜の昼間。
ショッピングを楽しんでいる、女子のグループ。こんな暑いのに、営業にでも行っているのかと呆れてしまう、スーツ姿の男女。デートの途中か、いつの間にか修羅場に発展しているカップル。酔っぱらった末、警官に連れていかれる中年の人。爆音で通り抜ける改造車。どこかへの遠出だろうか、楽しそうに車内で話している家族。信号待ちに―――。何かの要請で―――。険しい顔の―――。体調不良なのか―――。面白そ―――。浮か―――。
ここにいれば、いろんな人たちを見ることができる。いろんなことを知れる。
そして、誰一人イノリに気付かない。
昨日、鳥が車に撥ねられて死んだ。それが嘘だったかのように、街はそれ以前と変わらない。そうして、理解る。理解って納得する。そう結論付ける。
―――あぁ、私も死んでいるのだ、と。
「イノリー!!」
そんな中、交差点の中央にいたイノリと瓜二つの子供が手を振りながら声を張る。足元には小難しい言葉の羅列をプリントしている紙袋が数個、置かれていた。そんな子供を、周囲の人たちは微笑ましく、あるいは奇異な目で見ていた。……視ることができていた。
「ノゾミ……!!」
イノリは飛び上がるように喜ぶ。地に着いているのか分からない足を運ばせ、ノゾミへ向かって走っていく。それを見て、ノゾミは袋を抱えていつものところへ向かった。
ビルとマンションの間。あるようなないような通路。在って無いような空間。そこが、二人のいつもの場所で、落ち着く場所だった。朝も夜も変わらない、生きていようと死んでいようと構わない、この場所が。
「今日は何を持ってきたの?」
わくわくを隠せない表情でイノリが聞く。ノゾミはそれを楽しむように、勿体ぶりながら袋の一つに手を入れる。
「あわてない、あわてない」
取り出したのは包装された菓子パン二つ。ピーナッツペーストを挟んだコッペパンと、中にサツマイモ餡の入ったクロワッサンだ。封を切れば、甘い匂いが二人だけの空間に飽和する。
「お……おいしそーーー!!!」
「でしょでしょ?! 絶対イノリが好きだと思って買ってきたの!!」
「うん、すき!! ありがとう」
「えへへ」
「じゃあ、半分こにして食べましょ!」
「うん、それがいいね!!」
「食べ比べね!」
誰かが見れば、思わず微笑んでしまうだろう。弾ける二人の笑顔は酷暑すらも吹き飛ばす。
無論、誰か見る……視れる人がいれば、だが。二人の声は街並みの喧騒に掻き消され、その存在は人々の往来に圧し潰される。
それでも二人は良かった。二人でいられれば良かった。互いが互いを識っていれば、朧気でも在ると信じられたから。信じることができたから。人並みだなんて思えなくても、吹けば消えそうなモノでも、二人なら……。
「おや、随分とこの街も荒れたのかな? こんな所に小汚い子供が二人だなんて。それとも、秘密基地だったのかな? それなら申し訳ないことをしてしまったね。あっさりと暴いちゃったよ」
突然聞こえた声に二人は反応を失う。手に持っていた菓子パンを落としそうなくらいに。
「ん? 何かなその眼は。悪魔でも見たのかな? それとも、視られたのかな? まったく、せめて天使でも見たかのような目にして欲しかったよ。まぁ、ただの、人間だけどね!」
性格と性根の滲む笑みを浮かべる、悪魔。もとい女。そいつは確かにノゾミと、イノリを視ていた。イノリを、視ていた。はっきりと。視線を向けて。
「き……」
「き……?」
それは、イノリが初めて他人から浴びせられたものだった。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
その驚きのあまり、イノリは人生で二度目の悲鳴を上げた。……単にこいつの質が悪そうだったから、なんて理由でも良いのだが。
「あはは、元気がいいね。子供らしくて、とてもうざ……かわいらしい」
耳を塞ぎながら女は言う。本音出てるぞ。噛みつかれてしまえ。もしくは呪われろ。
「な、何、あんた!!」
「あっはっは、声も口調も同じだなんて、どう見分ければ良いのかな? 男女の境界もアイマイ。鏡像にすら劣る。だから今にも消えそうなのさ。あ、ちなみに私はクラウスっていう曖昧でも何でもない立派な名前があるけどね!」
「???」
「ああ、そうだね、うん。言葉も在って無い……いや、ないのにあるようなものだった。失礼失礼。う~ん、分かりやすく言うなら……どうすればいいんだろうネっ」
ノゾミもイノリも、この女、クラウスの言葉の意味が分からなかった。いや、クラウスの言を借りるなら、その意味を掴むことも不毛だ。そこに意味はない。あるようで、何もない。勝手に付与しているだけの虚像に過ぎないのだから。……こんなやつから借りたくもなかったが。
「全く、視えているなら手を貸してやるのが人情だよね! ほんとに人でなしだよ……お互いにね!!」
つまり目の前にいながら何もしてやらないということらしい。鬼か、こいつ。確かなことは人ではないというところか。自称通り。ご存知の通り。
風など通さぬ路地裏。日陰とはいえ、真夏の猛暑。普通ならば、いるのが地獄というような場所で三人は平然と立っていた。
「おっと、そうだね」
一人、汗をかき始めた。こちらの理解について来ないで欲しいものだ。何せ、関心が無いのだから。言うなれば、ウザい。クラウスの思考を覗けるのなら99%がイヤがらせの回路になっているのだろう。しかもそれは表に出るタイプのようで、既に二人には引かれている。
それが何だと言わんばかりの佇まいで笑う。まるで、安置所に横たわる死体のように。
「私だけ一方的に話してたら物語にならないじゃないか。何か聞きたいことは無いかな? イノゾミちゃん」
まとめたぞ、こいつ。二人の名前を。
けれど、それに突っ込む余裕は無かった。二人には、名前をまとめられた事よりもその名前で呼んでもらったことに大きな意味があったから。
他者からの認知。それは、二人にとってとてつもなく、途方もなく遥か彼方にあるはずのものだったから。
「おや、随分と人間らしくなったね。声を掛けてみた甲斐があったよ」
だから、二人は普通に、自然に、当たり前に、その大きな瞳から溢れるものを止めることなんて出来なかった。




