第1色
第1色
「たつのおとしご……ですか?」
聞き覚えのある、聞き馴染みの無い単語を聞き返す。
「うん、たつのおとしご。知ってるかな?」
脈絡も何もない。ただ優季を困惑させるだけの問い。かといって、無下には出来まい。優季にとって、ある種の恩人。はたまた元凶でもあるのだから。底が見えない、そもそも底というのが存在するかも怪しい、そんな女なのだから。
「まぁ、多少は。海中生物で、竜に似た形であるからその名がついたとか。あ、あと、雄が卵を育てるのも有名ではありますね」
教養、というよりは脱線した知識。クイズ番組くらいしか出番はないのではないだろうか。
それでも、クラウスは満足気に頷いて見せる。
「うんうん、百点満点の解答だよ! 興味がないなりに概要が言えるのは良いことだ。知識は人生を豊かにする。まぁ、だからと言って知りすぎると面白さの欠片もなくなるのが悲しいねぇ」
全てを知ってしまったが故の業。全てを理解って仕舞うからこその無。そこには、常人では理解の及ばない苦痛と苦悶が存在する。理解るのではない、理解ってしまうのだ。世の仕組みも、他人の思考も、これからの行く末も。何もかもを無くすように。虚しいくらいに。
それでも話を続ける。道すがらに口ずさむ、意味の無い鼻唄のように。
「タツノオトシゴっていうのはね、動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、条鰭綱、トゲウオ目、ヨウジウオ亜目、ヨウジウオ科、タツノオトシゴ亜科、タツノオトシゴ属、学名Hippocampus……の、総称のことだよ。優ちゃん言ったとおり、オスが卵をお腹の中で保護したり、ハート型になる繁殖行為でも有名だよね」
「はぁ……」
長ったらしく説明を受けたのは良いものの、要するに何を言っているのか優季には理解らなかった。先程の採点は不正しか無かったようだ。
と、そこでやっと気付く。境界線を跨ぐ形で置かれた、水槽に。中で浮遊するのは、やはり、たつのおとしごであった。それも、二匹。オスとメスだろうか。
他愛もないはずの光景。だと言うのに、頬を汗が伝う。
「あぁ、そう身構えなくてもいいよ。今回のお話は事件性があっても危険性は無いからね。楽しんでおいで」
知ったような事を言う。けれど、きっとこいつは知らない。何も知らない。理解っているだけ。そうなることも、どうなることも。
これだけが、唯一の体験。私の全てだ。"それなのに"なのか、"だからこそ"なのか。一切を共感し、微塵も興味がない。在るのか無いのか、それすらどうでも良い。こいつを認識するのは、あくまで優季を理解っているが故の副作用だ。
「たつのおとしご、面白い名前だよねぇ。他にも海馬だったり英語ではしーほーすなんて呼ばれてるのに、日本ではこれが一般的なんだから。在るかも分からない幻獣の落とした子供だなんて、いやはや、名付け親の方は竜種より奇異な人かもしれないねぇ。イカれているよ」
どの口が宣うのか。一度こいつの発言を録音して聞かせてやりたくなる。それはそれで「面白いこと言うねぇ、私」等と言ってけらけら哂うのが面倒だが。
さて、変人奇人の話はどうでもいい。話の主題はたつのおとしごだ。場所を考慮して書くとすれば、一般的には「竜の落とし子」だろう。その名の通り、日本や中国で語られる竜を彷彿させる生物だ。
そうして自然と、不自然に湧き上がる疑問が「竜」という存在だ。果たして、竜なる生物は存在していたのか、そしてその他魑魅魍魎怪異怪物妖怪変化伝説伝承神話は真であるか。無いとは言い切れまい。在ると疑っている限り。
「まぁ、どうでもいいんだけどね」
えぇ……。
内心呆れる優季。勿体ぶった物言いも、意味深な水槽も、彼女からすれば何でもないものだ。ただそこにあるだけ。
「よっこいしょ」
だから、たつのおとしごの入った水槽を平気でシンクにぶちまけることに躊躇などしない。
「……は?」
優季がいようといまいと。
「ん? いやぁ、ちょっと邪魔だったからね。何もない水槽を置いていられるほど、広くもないでしょ? ここ」
「いや、え、ちょ……え?」
優季は戸惑い焦り、けれどもあの境界は越えられず、つま先立ちでシンクを見る。ゴボッと呼吸音がシンクからこぼれ、その後、水槽の中身を全て呑み込んだ。一滴残らず、数リットルの水を。水だけを。
たつのおとしごなど、最初からいなかったかのように。
「まるで私がとんでもないようなことをしたかのような顔で見ないでおくれ。それとも、優ちゃんには私が何かしたかのように見えたのかな?」
言われて、気付く。思い出す。クラウスは一度も動いていないことを。この部屋に水槽なんかないことを。シンクは錆びたまま湿ってすらいないことを。
疑問と納得が脳内処理を軽く超える。ボフンという音が聞こえそうなほどだ。それを見てクラウスが大袈裟に笑っているのは書くまでもないだろう。
「相変わらず期待以上理解通りのリアクションをありがとう! その功績を讃えてタネ明かしといこうか」
そんな名誉もひったくれも無いような功績を讃えるな、などとハルが眼で訴えたところで火に油。クラウスのエンジンがよく回るだけだ。
「要は今回のお話の先取りだよ。本当は初めましてでやってもらいたかったんだけど、それだと危険性が出てしまうからね。あぁ、これはどうでも良いところだった。ごめんごめん。で、話を戻すと、さっきの光景がそのまま答えなわけなのさ』
要するに、どういうことなのか。優季が分かるわけもない。いつにもまして、言葉の意図が掴みづらいクラウスに優季が話しかけようとして。
「あ……れ?」
部屋には―――優季一人しかいないことを思い出す。




