19 打ち上げ
【主なⅭAST】
劇団どろだんごオールスターズ
メ―(八木):二年 看板娘ズ二号
千穐楽の翌日、部室棟裏の片付けを終え、大量の差し入れを手分けして運び込んだ合宿所で打ち上げが開催された。乾杯に先立ち、一列に並べられたのし紙や短冊が付けられた品々をカメとメーが次々と紹介していく。
「ではまず、OBOGの皆様方から日本酒をいただきましたー!」
カメの読み上げに続いてメーによって品物が掲げられると、拍手と差し入れをいただいた方の名前のコールが上がる。観客数の集計は初日のマチネが七十二、ソワレが九十一、千穐楽のマチネが七十八、ソワレが六十四で、合計は記録が残っている限りどろだんご史上最高の三百五となった。それに対して差し入れの数は五十二件、六人に一人がという計算だが、グループでというものも多かったので、その倍くらいの方からありがたいお気持ちをいただいたと推測された。普段の公演では十件そこそこが標準なので、身内や知り合い以外からの提供がいかに多かったのかを物語っており、全ての紹介を終えるまでにたっぷり十五分ほどかかった。
「大トリは常連中の常連、いつも大変お世話になっております学生支援センターの山内さんから学食の食券をいただきました。メッセージカードが付いてます『肉食え、肉!』以上です」
一段と大きな拍手と「わかってるな~山内さん!」の声が合宿所内に響き、コロが立ち上がって看板娘ズをねぎらう。
「これだけの数、よくさばいたね~えらいえらい!二人に拍手!」
大仕事を終えた二人は拍手を受けながら宴会の輪の中に入った。演劇公演の差し入れで多いのは「軽い・小さい・残らない」を満たすもの。自前の劇場を持っている劇団ならまだしも、「公演が終わったら劇場から持って帰る」ことの手間を意識すると自然にその傾向となる。公演の合間に食べられる小分けの食品などはその場で消えるし、楽屋にいくらあってもいい水やお茶などもありがたいものだ。大きな劇団の固定ファンのついている役者などは好みに応じたものをもらうこともあるそうだが、どろだんごにはあまりそういう差し入れはない、あったとしても手作りお菓子などは衛生上の問題もあり遠慮していただいている。今回は「打ち上げ用」という申し添えをしていたので、お酒や肴になるおつまみ類が多かった印象だ。差し入れ品のラインナップから考慮して追加で各自が購入した飲食物を加え、全員で乾杯の準備をする。
「では、乾杯のあいさつを演出のチャーシューさんから」
コロの促しにチャーシューが紙コップを手にしてすくっと立ち上がる。
「おう!えーテーマパークの待ち時間とスピーチは短い方がいい、ということでね。皆さんお疲れさまでした。どろだんご史上初の追加公演と最多観客数、取材記事も出てと大忙しではありましたが、けがや事故もなく公演を終えられたのも、全員の頑張りと日頃の行い……と真摯な反省の態度によるものと感じております」
例の件で劇団として謹慎していたことが頭によぎったのか、若干歯切れがよくない。
「ともあれ、今日は疲れを癒やし、大いに語らい、互いを讃え合いましょう。それでは、飲み物を高く掲げて~乾杯!」
全員が「乾杯!」と声を上げ、左右やテーブルの向こうと紙コップを触れ合わせる。
「アンケートは多いんで差し入れの横に四回分に分けて置いてありまーす」
「差し入れの食べ物と飲み物は随時取ってってね」
「ドラとカメ、もうお世話はいいから食べなって」
コロが二人を気遣い、自分のそばへと座らせた。そこにはQとナギもいた。話をしたい、聴きたい相手の所へ自由にコップとつまみを持って移動するのがどろだんごの宴会スタイルであるがゆえに、酔いが入ってくると足がふらつき飲料ぶちまけ事故も多発するので雑巾とバケツも完備されている。
「コロさんって今回役者を希望しませんでしたよね、私は裏方専任希望ですけど……その、よかったんですか?」
「確かにあたしの最初の入団動機はね、役者をやってみたいなってことだったよ。それは去年の研修公演と本公演でがっつりやったし、今年の新歓も研修公演も少しセーブしながらも出たけど、本公演は舞監としてやることの量も質も違うから、専任でやりたかったのよ。別に役者をやりたいのを我慢してるわけじゃないよ」
カメの心配の混じったような疑問にコロは優しい表情と口調で答えた。
「一般の人が演劇って聞いて抱くイメージって、ステージで衣装とメイクと照明によってキラキラ輝く役者の姿だと思うのね。華やかなものに勇気づけられたり幸せをもらったりする人は多いわ、でもね、そのためには表舞台に役者が存在するだけではダメなのよ」
Qが身を乗り出して話の続きに食い付いていく。
「本番のステージで観客が全身で受け取る舞台の魅力は、それを届けるために誰かが舞台裏で必死こいて走り回って、汗を流しているからこそ伝わるのよ。そこにはスタッフの舞台への愛とかがあってさ、親愛とか、情愛とか、偏愛とか、まあいろいろで、その想いも含めて観客に届くだろうし、伝わる何かに厚みが生まれると信じてるのよ」
熱のこもったコロのスタッフ論にナギがうんうんという感じで深くうなずく。
「今のうちには役者をやらないメンバーはいてもスタッフをやらないメンバーはいないよね。あたしとしては、自分が支えた舞台が、光り輝いて、誰かの心に何かが届けばそれで十分満足なんだけど、裏方をやることで得られるそんな充実感をみんなにも味わってほしいのよ。まあ役者もある意味スタッフの一部門、舞台の一つのパーツとも言える存在ではあるし、将来すんごい役者の才能がある子が入ってきたらそれはそれで専任もありだと思うけどね」
「なんか、わかるよ。あたしやカメは直接舞台作りをしている部門のスタッフじゃないけど、それぞれの役割を任せられて、補い合って、高め合ったからその責任を果たせたっていう手応えがあると思う」
ドラは舞監としてこの公演を支えたコロの思いに感じ入っているようだ。
「役割というか機能だけを求めるならプロに外注したほうが効率的でスピードは早いし、質も高いだろうけど、目指してるのはそうじゃないのよね。不格好な大道具や、不器用なスタッフワークも、あたしは愛おしいと思う、泥臭い姿の中にある温もりや手触りに用があるのよ」
「もったいないですよね、せっかく面白くてやりがいがあることを手放しちゃうのは」
ドラと共に動いてきたカメもその思いには共通するところが大いにある様子だ。
「まあ、時には『おまえら何してくれとんじゃー!今度やったらブチ殺す、いや、今ブチ殺す‼』ってなることもあるけど、それも含めて楽しいわけ。プロの世界なら許されないだろうけど、うちらはサークルだからね、できた作品のクオリティさえ高ければいいんじゃなく、ひとりひとりが豊かな時間を過ごすことが大切なわけよ」
この打ち上げ会場ではじけている笑顔もその一部だ、そう感じている様子でくいっとワインをやや乾いた喉になじませる。
「楽しいばっかりじゃなく、苦しいことも忙しいことも悩むこともあるわ。でも、自分という器の中には、表面にキラキラしたものばかり浮かんでいるように見えても、それを浮かせるために下で支えているものや、底に沈んでいる誰にも見せない苦労や後悔があってこそ、器全体が豊かになるもんだからね」
頼もしきコロの味わう美酒がとても美味しそうに見えた周りの四人だった。
「なんだた高級な味だしますね~」
(?)
ピョン吉の様子が何やらおかしいぞと最初に気付いたのは隣に座っていたザワだった。口調がふざけ気味で珍しいと思って振り返ったところ、明らかにその顔が赤い、体調不良かなと思ってその額に手をやるも熱はなさそう。まさかと思い、ピョン吉が手酌をしていた瓶に顔を近づけるとアルコールの香りがした。
「ピョン吉!これ、りんごジュースじゃないよ、お酒だよ!」
どうやら林檎のイラストがあしらわれたお洒落なラベルのスパークリングワインをジュースと思って飲んでしまったらしい、これは確実に酔っぱらっている。
「え~違いますよぅほあぁサイダーれすよ、シュワシュワするひ~」
「これ、サイダー(Cider)じゃなくてシードル(Cidre)って読むのよ。ああっ、輸入品だから日本語でお酒って書いてないじゃん」
コロとともワイン派であるゆえの知識を備えるザワが(あちゃ~……)という表情を浮かべながら確認すると、すでに七五〇ミリリットル瓶の中身はほとんど空になっている。アルコール度数はさほど高くはないようだが、初めて飲むには量が多い。心配をよそにその横で、ピョン吉が紙コップの中身を一気に飲み干し、自分の座っている座布団に勢いよく垂直に拳を打ち下ろした。
「わら(た)しはぁっ!からっぽなんれ(で)すぅっ!」
突然の大声に周囲が何事かと視線を向ける。
「おぎょうぎよく、ききわけよく、じぶんのそとがわをまもってるら(だ)けで、なんにもないんれ(で)すよぅ!」
「う、うんうん、そうなんだね、ピョン吉は自分がからっぽに思えるんだね」
なんとかなだめようと体も気持ちも寄り添って優しく背中をさするザワだったが、ろれつの回らない声の勢いが弱まる気配はない。
「そうれ(で)すよ、ら(だ)ってそうら(だ)もん。からっぽのくせに、びびって、こわがって、うまくやってるかんじら(だ)してるら(だ)けれ(で)、な~んもれ(で)きてない。それら(な)のにぃっ!」
その感情の矛先がピョン吉自身から、そばでお笑いの話で盛り上がっていたQとルーカス、ハッシーに向かった。
「なんれ(で)あんら(た)ら(た)ちは、そんら(な)に、やりら(た)いほうら(だ)いやれるのぉ、いる(つ)もきゃいきゃいきゃいきゃい、ずるぅいぃ〰〰!」
ザワは指差された三人を「反応しないで」と目と手で制しつつ、さあどうしたものかと思案する。根っこのところでは自分も似たような真面目タイプだから、殻を破れずにもんもんとする気持ちはわかる。いっそいい機会と捉えてありったけ吐き出させたほうがピョン吉のためかもしれないとも思えた。
「いいのよ、からっぽで。からっぽだからこそ、自分にはそのまんまの自分自身が必要なんだってわかるんじゃない?」
「そろ(の)まんまぁ?」
「そう、誰かに評価されるとか、認められるとかそういう部分を作って積み上げた自分っぽいものじゃなく、『何にもできない』って思ってるピョン吉そのものが、一番大切で、一番ピョン吉らしくて、一番あたしが好きなピョン吉だよ」
「れ(で)もぉれ(で)もぉ、みんら(な)いろいろれ(で)きるや(じゃ)ないれふ(です)かぁ~らっき~はんもれっろはんもらりもぉ~っ!」
「俺らのこと言ってる?」
レッドが照明・音響チームの二人と顔を見合わせる。
「みたいだね……」
普段は冷静なバッキーもピョン吉の発露させた思いに少し驚いている様子だ。
「らり?ってあたしのこと?」
ナギに至っては自分の名前なのかも聞き取れなかったが、何かを感じたようだ。後方に控えていたタロがすすっと駆け寄り、紙コップに注いだ差し入れのミネラルウォーターをザワに手渡す。ザワはシードルの瓶をピョン吉の手からそっと抜き取りタロにパスする。
「ほらほら、お水飲もうね」
「あーおみる(ず)おいひ(し)い」
ザワが口元まで運んだ紙コップに口を付け、こくこくと喉を鳴らしてピョン吉が水を飲む。
「でしょ、自分に必要なものって、あせってあれこれ考えて探すんじゃなく、もやもやを全部とっぱらったまっさらな自分が欲しいと感じるものなのよ」
「ほえ~」
「ピョン吉~、聞こえてる~?」
タロが声をかけるがまともな反応はない。
「もうこれだめよ、奥で寝かせてくる、ドラ、そっち持ってくれる?」
ザワが紙コップを回収してテーブルに避難させ、ピョン吉の左腕を肩に回す。ドラが反対側に回り、立たせようと試みる。
「ほら、ピョン吉行くよ~」
「ん~もうねんね~?」
「そうそう、ねんねだよ~」
ドラが穏やかな口調であやすように話しかけながらよいしょっと立ち上がった。
「タロ、一個頼んでいい?」
ザワがタロに首だけを向ける。
「何でも」
「ピョン吉、今の会話多分ほとんど覚えてないだろうけど、必要だと思うからリバティーにうまいことタロの言葉として書いといてくれない?」
「わかった、ポエマーズの謎ポエムにしておくよ」
「よろしく、しばらく二人でついてるよ」
「わたし、布団敷きます」
ナギがピョン吉の荷物を持って後に続き、四人は廊下の奥へと姿を消した。
「ピョン吉の、自信がないっていう心の叫びだったなぁ……」
イチがコップに残ったビールを片付けるように飲み干してふっと息を吐く。その心模様を察してタロがその言葉を少し掘る。
「自信かぁ、難しいな。自信がないって、自分を信用できないってことだろう?自分っていうのはちょっと捉え方が大きすぎるから、自分の才能とか適性に言い換えたほうがいいけど、絶対的な自信ってそうそう持てないよ」
「むしろ絶対的な自信を持ってる人の中には勘違いしてるっていうか、周りが見えてない人が多くない?俺が一番魅力的だとか、俺が正しいに決まってるとか、そういう俺様は煙たがられるわよ」
誰かのことを思い浮かべたような表情でコロが尋ねる。それを受けてタロはもう一段、自信という言葉への考察を深める。
「絶対的な自信を持つのが難しいとしたら、相対的な視点によって自信をつけるのはどうかな?自分の能力と周りの人の能力を客観的に見比べることから始めて、その世界で自分のいる位置をしっかり把握して、自分がどう振る舞うのがベストなのかを判断できるようになるって感じの。そうすればここまでは来た、次に進むにはどうすればいいのかっていうロードマップにおける現在地や足場がしっかりする」
「自分にだけ雑に焦点を当ててると、評価の基準が正しいのかもわからないのに『全然ダメ』とか『俺最強』とかのゼロか百かの偏った認識になりがちだからなぁ。自分をちゃんと見るためにはたくさんの他人をサンプルとして見るのがいいんだろうな」
マリの言うような状況に正にピョン吉は陥っているのかもしれない。
「演技にしても、いろんなタイプの俳優を見て、ここをマネしようとか、これはやらないように気をつけようとか、そうやっていい塩梅にしないと変な方向へ向かっていっちゃうよな。個性っていうのは独りよがりなこだわりの袋小路のどん詰まりじゃなくて、世界にあふれているヒントを自分で消化して身に付けた先にあるんじゃないかな。ま、すごい天才は別かもだけど」
レッドもまた視野狭窄の危険性を指摘する。
「天才こそ学びを怠らないって例もあるよね、周りにいくらもてはやされても、まだまだ先に行きたいって意識で立ち止まらない。常に自分も周りも見てて、あたしみたいな凡人も感化されるよ」
ハッシーのイメージする優れた役者像は社会全般でも通じるところがあると思い、タロも続ける。
「自分の立ち位置を誰かに決めてもらったり、保証してもらったりすれば、その一瞬は安心できるかもしれない。でも、それは限られた狭い世界での安心でしかないから、一歩そこを出たらまた何か別の頼るものを探し始める、きりがないさ」
「舞台上のベストな立ち位置は周りが指示してくれるけど、人生におけるバミりテープは自分でここだと決めて貼らないとってことだな」
ときどきバミりテープを靴にくっつけてしまい、勘で立ち位置を決めるマリの言葉は意味深いものを感じさせる。
「見る側が勝手に決める上だ下だって評価やランキング順位に過度に振り回されず、もっと丁寧に自分と周りに目配りをすれば自分なりの手応えがつかめて、それが自信になるんじゃないか?それをじっくり育てていけばいい。自信の大きい小さいはどうでもよくて、大切なのは確かさだからな」
レッドの落ち着いた物言いに対し、Qが不安を吐露する。
「でも、どうしても周りも気になることはあるんですよ。特に何者にもまだなれてないっていう焦りというか心細さみたいなものがピョン吉にも、あたしとかにもあるんだと思うんです」
「う~ん、どうしてもなりたくて仕方がないなら止めないけど、必ずしも何者かになんてならなくてもいいなあってオレは思うよ。憧れの感情は自分を奮い立たせるエネルギーにもなるけれど、進むべき先への道筋をぼやけさせもするから。未熟な自分が設定した目的地が本当に正解の場所なのかは疑わしい。一歩一歩必死で進んだ先がいつでも目的地でいつでも出発点なんじゃないかな」
諭すようなレッドの返しにハッシーがフォローを入れる。
「大丈夫よ、自分がからっぽだって思ってるって口に出せる勇気がピョン吉にはあるもの。お酒の力に多少後押しされてではあったけど本音を出せたんだから、殻を破る予兆は見えたんじゃないかな。必死にがんばったからこそ大きな壁にぶちあたるのよ、そしてそこにたどり着くまでの過程で壁を乗り越えるだけの心の筋肉はついているはずよ」
「禅の言葉で『啐啄同時』っていうのあってさ、卵の中の雛が自分の力で殻を内側からつついて破ろうとするのと、親鳥が外側から殻をつつく手助けの力が適切なタイミングで合わさることが独り立ちにつながるという考えなんだけど、どろだんごがそういう環境であったらいいね」
タロが劇団全体のあり方について語れば、バッキーがスタッフワークになぞらえて後輩の成長を願う。
「まっさらなところでしか見えないものもある、闇があるから光は際立つし、静寂という音もまた美しい調べの一和音。両方の価値を知っておいてほしいね」
「自分に大丈夫だって言ってやれるのは、自分だけかぁ。そりゃそうだよな、自分に一番興味があって、深くまで知れるのは自分だもんな。自分を好きになって、信用してあげたほうがいいに決まってる」
「そうそう、自分を信じるための材料は自分の中にしかないってこと。絶対に永遠に大丈夫なんて保証は誰もしてくれないし、求めるもんじゃないわよ」
二年生の中でも年長組にあたるマリとコロの言葉は黙って頷うなずいていたカメとノスケにも響いた様子だった。
「それをくれるのは詐欺師か悪魔だよ、何かしらの腹黒い思惑を後ろに隠しながらね」
「これもリバティーに書いといてあげてよ」
「承知」
タロとイチとのやりとりにて話もまとまり、ぼちぼちいい時刻でもあったので、片付けをしてお開きとなった。議論に加わらず新劇団計画の作戦会議をしていたチャーシューとカッパも早々に撃沈していたので、布団をかけてタロは電気を消した。完璧ではなくとも力いっぱい何かを成し遂げ、全てから解放されている状態でしか出てこない感情や言葉に満ちた、少し前のめりな雰囲気のある打ち上げの夜がタロは好きだった。
「何……これ……?」
翌朝、ピョン吉は目覚めた自分が布団の中でザワにしがみついていることの理由の不明さと、どうしてもたどり着けない途切れた昨日からの記憶と軽い頭痛のトリプルパンチに混乱していた。
打ち上げの翌週には早くも次の新歓についての会議が行われた。少しは休みたいという心の声もあるが、新入生は待ってくれない。その冒頭、レッドから衝撃の報告がなされた。
「今日、休学届け出してきた。四月から俳優事務所に所属して二年間挑戦して目処がつかなければ復学してちゃんと卒業する条件で親と話がついてる。ということで退団する、お世話になりました」
その口からは語られなかったがこの件は本公演の座組をする前に三年生とコロだけに伝えられたとのことで、それぞれができるだけの配慮をしてレッドの花道となる舞台を作り上げたのだと思うと、タロはこの劇団にいてよかったという気持ちになった。突然の報せにぽっかりと心に大きな穴が空いたような面持ちの残りの一・二年生たち。名残は惜しいが、新たな挑戦への勇気を讃えるほかはない「この先もレッドに恥ずかしくないようにやろうぜ!」とマリが叫ぶのにみんなが静かに同意していた。
バッキーは夏の大学院の試験に向けて準備もあるが、新歓まではやるとのこと。チャーシューはやる、カッパも書きたい、残りの二年と一年は全員参加の意思が示された。ルーカスは落研の活動に戻るが、また人が足りなければ手伝いに来てくれるということだ。スタッフ分担もそのまま継続、キャストもカッパとバッキーとカメ以外は希望。脚本出しを再来週までと決めた。また、忙しい日々が始まる。
全国販売されている演劇雑誌「月刊劇場MOOK」(通称「げきむ」)の年間俳優ランキングというものがあり、読者のはがき投票をもとにして集計される。主には有名劇団所属の俳優さんの名前が並ぶのだが、この年のランキングでレッドに複数票が入っておりチャーシューが嫉妬のこもった目で掲載されたページを見つめていた。劇団内で投票した者はいなかったため、指名で差し入れをしてくれる熱狂的なレッドのファンによるものではないかと推測された、その情熱に感服する。所属先として誌上にどろだんごの名前を刻み付け、少し早い春の風のように大学からレッドの姿は消えた。ゲーム大会や飲み会の会場としてたまり場になっていた部屋は引き払われ、部室には愛用のギターが残された。その後、俳優事務所の名前を肩書にしたレッドの舞台をみんなで観に行った際、仲間の晴れ舞台での活躍への誇らしさとともに、どろだんごとは違う空気の中でより洗練された演技をするその姿に、同じ舞台に立つことはもうないのだなという淋しさがタロの胸を突いた。
少しずつ風に温もりが混ざり始める、卒業の季節である。劇団としては卒業公演の時期でもあり、恩返しの気持ちを込めて四年生の最後の舞台の手伝いをして、その雄姿を目と心に焼き付ける。区切りの幕が下りる瞬間を目の当たりにすると、自分たちに残された時間を示す時計の針も少しずつ、そして確実に進んでいるのだと感じざるを得なかった。その切なさを紛らわすように、先輩の卒業式に大学祭で行った仮装パレードを再現して乱入するどろだんご後輩一行であった。




