第七話 名簿(9F→10F)
九階の踊り場は、机一つで景色が変わった。誰かの部屋から引きずってきた小さなダイニングテーブルを中央に置き、濡れたモップで床の水を一方へ寄せる。机の脚はがたついて、紙に薄い波を作った。波が消える前に、灯は名簿の紙を広げる。角はもう柔らかい。砂原が隣でクリップを渡し、四隅を留めた。
ペン先が紙に触れる音が、雨より近い。灯は一行目に大きく書いた。
胎児
次に、すぐ下へ。
母
間を空けずに、続ける。
子ども
介護者
体力のある者
墨はじわりと広がり、列の目がそこに吸い込まれる。異論は出る。出るが、出し切る時間はない。誰も完全な別案を持っていない。優先順位の議論は、命の数を一時的に増やしもしないし、減らしもしない。ただ、次の扉を開けるときの躊躇いを薄くする。
「条件を追加する」
灯がペンを離さずに言う。
「優先は“誰がいないと他が死ぬか”で決める。単独の弱さでなく、つながりの強さで考える」
陸が机の縁に腰を預け、膝に巻いたテープを引き直しながら、わざとらしく咳払いした。
「ぼくがいないと、笑いが死ぬ」
誰かが苦笑し、誰かが肩で息をしながら笑う。笑いは短い。短いのに、空気は一瞬、軽くなる。軽くなったぶんだけ、手が速く動く。
「欄外に、犬の名前」
砂原が言った。誰かが顔を上げ、犬を抱く少女の視線と交わる。少女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、小さく微笑んだ。
「ヨリです」
砂原は迷わず、名簿の端に小さく書き足した。名簿は人を救うための表で、同時に人を外すための装置でもある。その矛盾を、紙は無言で受け止める。紙は人間より強い。破れるまでは。
「進む」
灯が線を引くように言い、机の端を持ち上げる。鴫原が反対側を持って踊り場の壁際へ寄せた。名簿はそこで開いたまま、列と一緒に息をする。
十階へ向かう階段は、音が鈍く響いた。下で逆流が歯を磨くみたいに段鼻を削っている。削る音が骨に残って、足裏の感覚を少しずつ奪う。紗耶は父の肩を抱き、数を数える。
「四で吸って、六で吐く」
父の胸は、数に従って小さく上下した。状態は悪くない。悪くないことを確認するために、彼女は何度も同じ言葉を使う。同じ言葉は、祈りの形に似てくる。
途中の踊り場で、糖尿の女性が膝を折った。目の焦点がほどけ、口元から色が消える。灯がすぐに駆け寄り、頬を軽く叩いて呼びかける。
「名前、言える?」
女性は答えない。舌が重い。灯は熊谷に合図を送った。
「砂糖。水」
熊谷は保冷箱を開け、未開封のペットボトルを一本取り出す。砂原がポケットから飴玉を出した。包装紙は湿っているが、中身は硬さを保っていた。灯は飴を砕き、ペットボトルのキャップに水を注いで混ぜる。白く濁った液が、ほとんど儀式の飲み物に見える。意味を持たせられるものは、道具に変わる。
「口を開けて。少しでいい」
灯は女性の頬を支え、息の合間にキャップ一杯ぶんを流し込む。二回、三回。女性の喉が動く。わずかに色が戻る。海斗が脈を取る。指先の下で、弱いが途切れない拍が伝わる。
「戻ってる」
灯は短く言い、女性の目の高さに顔を近づけた。
「ここは九階と十階の間。あなたは上がれる」
階段の隅で、紗耶は父の尿取りパッドを取り替えた。恥の感情は、階段に置いてきた。置いてきたふりではなく、置いてきた。湿った袋を結び、消臭剤のボトルを軽く振る。その匂いは、さっきまでの部屋と日常を思い出させる。思い出はよく効く。効くが、長持ちはしない。だから、今は短時間だけ借りる。
「配分、共有」
砂原が名簿を持ったまま言う。
「水は一人一本の半分まで。砂糖は残り一袋。低血糖の疑いがある者に優先。飴玉はあと三つ」
「三つなら、二つ半」
陸が口を挟む。
「半分は予備。余白。余白は、人を助ける」
砂原は陸を横目で見て、名簿の余白に小さく丸を書いた。冗談に見せかけた考えが、理屈に変わる瞬間だ。
結衣が壁に手をついた。呼吸は整っている。三分ごとに美桜の腹の上のバッテリ位置をずらし、温かさを確かめる仕事を続けている。配信の光は消えて、代わりに手の仕事がそこにある。視線の先、空き家のドアが半開きになっていた。灯が短く頷く。熊谷が先に入り、床を踏んで安全を確かめる。
部屋は濡れて、匂いは薄い。壁に残ったカレンダーは六月で止まっていた。灯は時間を見ていない。必要なものだけを拾う。
「タオル。双眼鏡。未開封のペットボトル二。救急箱」
救急箱の蓋は硬い。砂原がナイフでこじ開け、古いガーゼと黄色い消毒液を取り出す。使えるものと使えないものを分ける。分ける行為は、判断の練習になる。
廊下に戻ると、双眼鏡を構えた少女が小さく声を上げた。
「屋上の方向、黄色い円が見えた。泡で半分隠れてるけど、線はある」
灯は頷き、熊谷に視線を向ける。熊谷は窓際へ行き、外階段に貼られた注意書きの泥を指で拭った。読み上げる声は、やけに落ち着いている。
「ヘリポート使用上の注意。屋上ドア、原則開放厳禁。例外的に開扉する際は、逆流防止のため保持者を置け」
保持者。言葉が、個人に向かって刺さる形になる。開けるだけでは足りない。開け続ける臍の緒を、誰かが自分の体で引き受けなければならない。空気が重くなる。重さは、誰の肩に落ちるかを探している。
「保証はない」
砂原が、ほとんど自分に言い聞かせるように繰り返した。
「ヘリが本当に来る保証は、どこにもない」
「保証がないなら」
結衣が、穏やかに、でもはっきりと返す。
「準備は無駄じゃなくなる。準備は、希望の別名だから」
灯は名簿の端にペン先を運び、小さな字で書き足した。
保持者:未定
書かれた文字は軽いのに、読む目の筋肉が重くなる。未定という言葉は、誰かを救う時間を残す。誰かを傷つける時間も、同じだけ残す。紙はそれを受け止めたまま、濡れた風の中で静かに佇む。
九階と十階の間の廊下は、ところどころで乾いている。乾いた場所は、希望の代わりをする。靴底が鳴り、手すりが濡れた掌に冷たさを返す。犬の鈴が短く鳴る。少女は双眼鏡を下ろし、スリングを結び直した。ヨリは鼻先で彼女の手を押し、静かに丸まる。
「進む。十階の手前の踊り場で、もう一度名簿の確認」
灯が声を立てる。列は自然に形を作る。美桜は腹に布をかけ直し、紗耶は父の足の角度を変えた。陸はテープの端を押さえ、膝でリズムを取る。鴫原は鍵束を腰で鳴らし、砂原は名簿のクリップを押さえた。
踊り場で、机がもう一度役割を持つ。名簿は開き、インクはまだ滲まない。灯は今度は序列ではなく、配列を整える。出る順、支える位置、戻る人。数字と矢印が、紙の上で人の代わりをする。
「胎児、母、子ども、介護者、体力のある者の順で屋上へ。保持者は未定。状況次第で選ぶ。妊婦の保温は継続。低血糖だった方の意識は、灯が二分ごと。喘息の青年は、紙コップのスペーサー継続。陸は自力、ただし段の角度が急になったら後ろから支える」
「了解」
声が重なる。重なることで、誰の声でもなくなる。責任は分けられないが、動きは分けられる。分けた動きが、ひとつの方向へ行く。
その時、階段の下から短い呻きが響いた。逆流がまた一段、段差を食べたのだ。床の水が薄く震え、机の脚が少し揺れた。名簿の端がわずかに浮く。灯がそっと指で押さえ、吸い込むように呼吸を整える。
「いまのを、忘れない」
灯の言葉は、恐怖ではなく注意の形だ。忘れないと口にするとき、人は忘れやすいことを知っている。知っていても、言わなければならない。
十階へ向かう階段は、九階より少し広い。広い分だけ、足音が散る。散った足音は、すぐに集まる。集める役は、言葉のリズムだ。灯は必要以上に喋らない。喋らないかわりに、要る音だけを選ぶ。数、名前、角度、距離。その四つで、列は進む。
途中で、喘息の青年がまた立ち止まった。灯は紙コップのスペーサーを当て、ゆっくり吹かせる。海斗は後ろから背中に手を添え、肋骨の下へ支えを作る。青年の目が灯を見て、少しだけ頼る。頼られると、灯の目は静かに硬くなる。硬さは、強さの形のひとつだ。
階段の角を曲がった先、十階の扉が見えた。枠は歪んでいない。ここまでで一番、正しい形のドアだ。正しい形は、正しい力で開く。鴫原が鍵を選び、差し込み、回す。金属が金属らしい音を出した。扉が少しだけ呼吸して、内側に引かれる。
「開ける。閉める。入れ替える」
砂原が順番を口にし、灯が合図する。列が動く。足音の高さが変わる。乾いた床が、靴底に新しい匂いを乗せる。
十階の共用廊下は、風の匂いが薄い。代わりに、古いワックスの匂いがした。誰かが丁寧に暮らしていた証拠だ。証拠は、今の役には立たない。立たないが、人をまっすぐにする。列の背筋が、ほんの少し伸びる。
「名簿、更新」
灯が机代わりの棚を見つけ、紙を広げた。砂原がペンを渡す。灯は一行目の胎児に小さなチェックを入れ、母に印を付ける。次の行に、子ども。犬の名前のヨリの横に、さらに小さな丸を足した。犬に丸を付けるのは、何の役にも立たない。役には立たないが、少女の顔が少しだけ強くなる。その強さは、列の強さに換算できる。
「保持者」
砂原が周囲を見渡す。候補は決まっている。ジャージの男、結衣、鴫原。未定の文字は、まだ消せない。消すのは現場だ。風の角度を見て、扉の癖を掴んで、体で決める。
「動線の確認」
灯が短く打ち合わせをする。扉の位置、屋上までの十段、ヘリポートの黄色い円までの距離。柵の切れ目、風の流れ、泡の高さ。紙の上で、線を引く。線は現実の代わりをする。現実に触れたとき、線は役目を終える。
結衣は立ち上がり、床に置いたままのスマホを見た。拾わない。拾わないかわりに、位置をもう少し壁際へずらす。誰かの靴が踏まないように。踏まれないものは、生き延びる可能性がある。機械にも、余白は必要だ。
熊谷が保冷箱の蓋を開けずに手を置き、重さを確かめる。重さはまだある。あるなら、次へ渡せる。陸は指のテープを巻き直し、膝を打つ。音は小さいが、心の中では大きい。紗耶は父の手を握り、指の温度を測る。温かい。温かい間は、上を目指せる。
「灯」
海斗が呼ぶ。声は平らだが、急いでいる。
「鍵、見えるところに」
「見せ続ける」
海斗は透明容器を胸から目線の高さへ上げた。奪える距離。見える高さ。鍵の在処は金属ではなく、視線の中にある。それを列が理解している限り、裏切りの速度は遅くなる。
「最後に」
灯が名簿の端に目を落とし、小さく息を吸った。
「ここにいる全員の名前は書けない。書かれていないから、いないことにはならない。書かれているから、助かるわけでもない。これは、扉の順番のための紙。人の価値の紙じゃない」
言葉は短いのに、階段の一段ぶんくらいの高さを持っていた。誰かが頷き、誰かが目を閉じる。砂原は名簿の端を押さえ、ペンを置いた。
「行こう」
灯の合図で、十階の奥へ列が伸びる。屋上への最後の内扉は、風の匂いを少しだけ漏らした。外の唸りが、遠くで牙を研いでいる。逆流は下でまた、段差を食べる準備をしている。準備に準備で応える。準備は希望の別名だ。保証はないが、希望は数にできる。名簿の行数で、カウントできる。保持者は、未定のまま書かれている。
未定は弱さではない。未定は、次の瞬間のための余白だ。余白は、誰かの命に変わる。紙はそれを知っている。紙はまだ破れていない。破れる前に、扉を開ける。開けて、閉める。閉めて、また開ける。
十階の最後の踊り場で、風が薄く指を差し入れてきた。灯は名簿を折り、胸に当てる。海斗は容器を掲げ、結衣は扉の縁に手を置いた。ジャージの男が肩を回し、鴫原が鍵を選ぶ。熊谷は保冷箱を押さえ、陸は笑いの筋肉を少しだけほぐした。紗耶は父の耳元で数を数える。四で吸って、六で吐く。少女はヨリの鈴を指でつまみ、音を一度だけ鳴らした。
名簿は、そこにある。救うための表で、外すための装置でもある。矛盾ごと抱えて、紙は前へ出る。紙に従って、列が前へ出る。前に出るたび、下で水が歯を見せる。歯に見せられずに、扉へ向かう。扉の向こうに、黄色い円が半分だけ残っている。半分があれば、十分だ。十分でなくても、行くしかない。
保持者:未定。その黒い文字が、いまは誰の肩にも乗らず、列の真上で静かに浮いている。次の風が来た瞬間、どこかの肩に落ちるだろう。落ちる前に、灯が息を吸った。吸って、止めて、吐く。そのリズムに合わせて、九階から十階へ、十階から屋上へ、まだ続く道のための足音が、濡れた床を叩いた。




