第1話 泡の地図(1F→3F)
◆主要人物
床島海斗(17)…本作の視点軸。最後に責任を引き受けようとする“遅い決断者”。
床島灯(22)…看護学生。現実的だが情の芯が強い。「無理を分割する」が口癖。
鴫原(63)…管理人。規約と現場の狭間で揺れる。鍵①所持。
一ノ瀬美桜(28)…臨月の元助産師。自らの命より生まれてくる命を優先する倫理を持つ。
柏木陸(12)…車椅子ユーザー。状況把握とユーモアで空気を支える。
野々村紗耶(26)…要介護の父と二人暮らし。選べない苦痛と向き合う。
砂原徹(45)…投資家。合理の顔で非情を正当化しがちだが、後半で“数字を壊す”。
結衣(19)…インフルエンサー。視聴から当事者へ転じる転換点が物語の鍵。
熊谷蓮(21)…宅配ライダー。部外者でありながら最もよく動く手。
小早川理事長(不在)…鍵②の管理者。出張中で不在。部屋は停電で物理閉鎖。
住民たち…ペット連れの少女、喘息の青年、糖尿の高齢女性、清掃員の夫婦など。
朝、世界の輪郭がぼやけていた。
湾岸を這い上がってきた濁流は、川と海と下水の境目をあいまいにし、ビル街の低い部分から順に、音もなく飲み込んでいく。水面が光を吸い、色をなくしていくたびに、空の青さが遠のいていった。
床島海斗は、タワーマンションのエントランスホールで立ち尽くしていた。外側の分厚いガラスが、巨大な水槽のように膨らみ、軋む音を立てている。その音は、耳ではなく胸骨の奥に響いた。ガラスの向こうでは、泡が壁に貼りついては形を変え、まるで誰かが内側から合図しているみたいだった。
それが、今日の“地図”になると、彼は直感していた。
管理人の鴫原が懐中電灯を掲げながら、エントランスを横切る。白髪交じりの男は、びしょ濡れの紙を広げ、避難経路図をテープで柱に貼りつけた。
「これは陸の地図だ」
低い声が響く。
「これからは水の地図に書き換える」
マジックペンが紙を走り、階段、吹き抜け、非常扉、屋上ドアの位置が太くなぞられていく。鴫原は段数の横に小さな目盛りを引き、「一段につき約二分」と書き込んだ。非常階段の踊り場には、赤い紐がすでに結ばれていた。水が一段上がるごとに紐は濡れ、彼はそれで上昇速度を読むつもりらしい。
海斗の姉、灯が合流した。看護学生の彼女は救急箱を抱え、髪をゴムで束ねていた。
「呼吸合わせ、確認」
灯が短く命じる。
「腰、支え、声、出す」
淡々とした声で、介助の基本を全員に復唱させる。動作に名前をつけると、恐怖は少し扱いやすくなるのだと、いつか教わったことがあった。
住民たちが集まり始めた。
介護離職中の野々村紗耶は、要介護の父を乗せた車椅子を押してきた。フロントの段差に前輪が引っかかり、体ごと止まる。投資家の砂原徹は、スマートフォンを耳に当てたまま、短く吐き捨てる。
「上層の倉庫に非常食がある。先に行ける者から行くべきだ」
そう言って、何かの取引を続けているようだった。
結衣がスマホを構える。制服のスカートは濡れ、膝に泥がついていた。
「#沈むマンション。タグつけて拡散したら、救助隊見てくれるかも」
配信画面のライトが、一瞬だけ薄暗いロビーを照らす。その光が、誰かの表情を浮かび上がらせ、すぐにまた闇に沈んだ。
熊谷蓮が宅配の保冷箱を背負い、水とパンを配る。
「一人一本まで」
短く言い、箱の中身を確認する。その手つきが無駄に冷静で、逆に怖かった。
ロビーの時計の秒針が水に沈み始める。金属音が鈍く歪み、秒の重さが変わったように感じる。
その瞬間、第一波が来た。
外扉の隙間から、濁流が吹き上がる。足首の冷たさが一気に膝へ、そして腰へ。悲鳴が重なり、誰かの名前が呼ばれた。
海斗は「列」を作ろうとする人々の中で、誰が「優先」かを奪い合う視線を見た。
鴫原が笛を鳴らす。
「要介護と妊婦が先だ!」
声が割れる。
灯は紗耶にヒップリフトの姿勢を指示し、熊谷が後ろから押し上げる。砂原はため息をつきながらも、車椅子のフットレストを外し、実務は早かった。
階段を上がる音が響く。
息が合わない。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが黙っていた。
三階に着いたとき、ようやく一息つけた。
結衣の配信が一瞬だけトレンドに乗ったらしい。スマホの画面に「#沈むマンション」が表示され、数千件のリツイートの通知が流れる。けれどすぐに圏外の表示に変わる。最後に流れたコメントは、意味のない絵文字の列だった。
踊り場の照明が完全に消える。
外の水位が上がるたびに、マンション全体がわずかに軋む。
海斗は壁にもたれ、目を閉じた。階下では、もうエントランスのガラスが割れているかもしれない。
そのとき、鴫原が口を開いた。
「屋上のドアは二重鍵だ。一本はここにある。もう一本は理事長室——砂原さん、あなたの階だ」
沈黙が広がる。全員の視線が砂原に向く。
砂原は小さく笑い、首を傾げた。
「理事長は今、海外だ」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
鍵がないということ。つまり、上に上がっても閉じ込められるということ。
水は、何も言わずに一段上がる。
その音が聞こえる気がした。
灯が唇を噛む。
「三階から上の階段、どれだけ残ってる?」
「あと十八段で四階。そこからはエレベーターホールを抜ける」
鴫原が紙を指差す。インクがにじみ、赤線がぼやけていた。
結衣が小声で言った。
「私のフォロワー、誰か来てくれないかな」
その声は冗談みたいに軽かった。けれど、誰も笑わなかった。
熊谷が鴫原の手から懐中電灯を受け取り、照らす。
壁に映る光の中で、水滴が揺れた。
「上に行こう」
海斗が言った。
その声が、不思議と大人びて聞こえた。
誰も反対しなかった。
水はもう、二階を飲み込んでいる。
その音が、遠くで風のように聞こえた。




