第7話 高橋真一(凜花パパ)のNY出張
《《ミネソタ、セントポール》》
ミネソタのホテルのチェックアウトを済ませ、真一はタクシーに乗り込んだ。
目的地はセントポール国際空港。ここからニューヨークへ飛び、ようやく彩花に会える。
タクシーが市街地に入ると、進みが極端に遅くなった。
前方の通りが、派手な色彩と騒音で埋め尽くされている。
「……なんだ、これは」
真一は眉をひそめた。
窓の外では、虹色の旗を掲げた集団が、大音量の音楽に合わせて踊り狂っている。
露出の激しい格好をした男たちが抱き合い、女たちがプラカードを掲げて叫んでいる。LGBTのパレードだ。
真一には、彼らが何を主張しているのか理解できなかった。
ただ、その異様な熱気と、生理的な違和感だけが胸に込み上げる。
日本で真面目に働き、家族を養ってきた彼にとって、この光景はただ「狂っている」としか言いようがなかった。
「……まったく、アメリカという国はどうなっているんだ?」
彼は窓から目を逸らし、膝の上のカバンを強く握った。
彩花は、こんな「狂った連中」とは違う。
彼女は、高橋家の誇りであり、清潔で、知的な、自慢の娘なのだ。
タクシーがようやく人混みを抜け、速度を上げた。
真一は安堵のため息をつき、ニューヨークにいるはずの、自分の理想通りの娘の姿を思い描いた。
彼が今しがた「異常」として切り捨てたその世界の最先端に、彩花が立っているとも知らずに。
《《ラガーディア空港》》
ミネソタからニューヨークへの国内便はラガーディア空港に降りた。
到着ロビーを出ると、彩花が立っていた。紺のコートに黒いパンツ。空港の雑踏の中で、ひとりだけ静止しているように見えた。
「彩花」
「パパ、お疲れ様」
抱擁はなかった。彩花は軽く会釈して、スーツケースに手を伸ばした。「こっちよ」
駐車場に向かいながら、真一は娘の背中を見た。背筋が伸びている。歩き方が変わった、とは思わなかった。ただ、なんとなく——遠い、と感じた。
駐車場に停まっていたのは、見たことのない車だった。
白い巨体。流線型のボディ。彩花がキーを操作すると、ファルコンウィング・ドアが、翼のように上に自動で開いた。
「……彩花、この車は、どうしたんだ?」
「テスラよ。モデルX、プレイド」彩花はさらりと言った。「私の研究に賛同してくれる財団があるの。話の分かる財団で、その補助金で購入したわ。パパの会社よりも金回りが良いみたいよ」
真一は胸にざわめきを感じた。奨学金やバイトで買える車じゃない。
真一は助手席に乗り込みながら、眉を寄せた。財団。その言葉が、どこかに引っかかった。しかし、何も言えなかった。
エンジン音もなく、車は滑り出すように動き出した。
《《マウントサイナイ医科大学付属病院》》
彩花が向かったのは、彼女のコンドミニアムではなく、マウントサイナイ病院だった。
「彩花、おまえの部屋じゃないのか?」
「今は研究室の方が近いから。パパに見せたいものがあるの」
真一は自分の部屋を見せたくないのか、と思った。また汚部屋になっているのか。それとも——見せたくない何かが、あるのか。
付属病院は、アッパーイーストサイドのマディソンアベニューに面した正面玄関。ガラスと石材で構成された重厚なエントランス。
案内板には「The Mount Sinai Hospital」の文字。訪問者が列をなし、白衣の医療スタッフが行き交っている。
彩花は受付でIDを見せ、真一を「家族」として通した。
「治療棟へ行きましょう」彩花が先導した。
治療棟の廊下を歩いた。消毒液の匂い。規則正しい足音。彩花は迷いなく進んだ。
ある治療室の前で、彩花が立ち止まった。小窓から中を覗くように、真一を促した。
父母と、十代前半と思われる女の子が、医師と向き合って座っていた。医師が注射を準備し、母親が娘の手を握っている。
「パパ、この患者は」彩花がカルテを看護師から受け取り、説明した。「性同一性障害のある11歳の子よ。両親と本人の同意を受けて、第二次性徴を抑制する治療を行っているの。私たちのグループが開発した薬剤を使った定期投与よ」
「せ、性同一性……」真一は小窓から目を離した。「それは、病気じゃないのでは?精神科の方じゃないのか?」
「脳と身体の性が一致していない状態を、身体の側から調整する治療よ」彩花の説明は淀みがなかった。「GnRHアナログとシプロテロンアセテートの複合投与。思春期の性ホルモン分泌を抑制することで、本人の性自認に合った身体発達を可能にするの。骨密度低下や成長抑制のリスクを最小限に抑えつつ、思春期の身体的変化を止める」
真一はわけがわからなかった。
「……つまり、この女の子は、女の子じゃなくなる?」
「そうとも言えるわね。次の部屋も覗きましょう」
彩花はすでに次の部屋に向かって歩き始めていた。
別の治療室。今度は父母と、十代前半の男の子だった。やはり、定期投与の処置を受けている。
「彼は10歳で、自分が男性とは思えないと感じ始めたの」と彩花が言った。「さっきの子とは異なる薬剤だけれど、同じ方向性の治療よ」
「この子も……男の子じゃなくなる?」
「そうとも言えるわね」
真一の脳裏に、ミネソタで見たLGBTパレードの光景が浮かんだ。虹色の旗。
大音量の音楽。「狂っている」と切り捨てた、あの熱気。
彩花は今、その「狂った世界」の中心に、白衣を着て立っている。
(彩花は何をしようとしているんだ?)
《《レストラン》》
病院から徒歩数分、マディソンアベニューの小さなイタリアンレストランだった。
彩花が予約していた。窓際の二人席。外を路面電車が通り過ぎた。
ワインを頼んだ。料理を頼んだ。しばらく、差し障りのない話をした。美咲と凜花のこと。優子のこと。日本の秋のこと。
彩花は静かに聞いていた。相槌を打った。笑顔も見せた。
真一はカバンの中のプリントを思った。ずっと、このタイミングを測っていた。
ワインを一口飲んで、カバンを開けた。
「彩花、これを見てくれ」
プリントをテーブルに置いた。
論文の表紙。彩花の名前。タイトル。
彩花はプリントを見た。一秒の間があった。
「……凜花から?」
「ママからだ。凜花が持ってきたらしい」
彩花はプリントをテーブルの上で少しだけ動かした。それだけだった。
「読んだの?」と彩花が聞いた。
「全部は読めなかった。でも、概要はわかった」
真一は言葉を選んだ。
「今日、病院で見たものと、この論文は……つながっているのか?」
「ええ」と彩花が静かに言った。「同じ研究よ」
「彩花」真一はグラスを置いた。「パパには、正直に話してくれ。お前は……何を目指しているんだ?」
彩花は窓の外を少し見た。マディソンアベニューの夜の灯り。それから、真一を見た。
「ミシェルのことは、話したでしょう?」
「ああ」
「あの夜から、私はずっと考えていた。なぜ、止められなかったのか。なぜ、ナイフで刺す以外の方法が、私にはなかったのか」
真一は黙って聞いた。
「暴力は、力で止められる。でも、力を使った瞬間に、私も同じ側に立つ。ナイフを握った私は、あの豚どもと同じ方法を使った。それが、ずっと引っかかっていた」
「……だから、化学で?」
「暴力性を、化学的に制御できるなら——誰も傷つけずに済む。ナイフも、銃も、要らない」
真一には、その論理が理解できなかった。でも、否定もできなかった。
「財団のことだが」と真一は言った。「どこの財団なんだ?」
「大きな財団よ。アメリカでは有名な」
「名前は?」
彩花はワインを一口飲んだ。「B&Mよ」
真一にはピンとこなかった。しかし、彩花の答え方が——少しだけ、間があった気がした。
「その財団は、信頼できるのか?」
「研究に口は出さないわ。それだけで十分よ」
真一はそれ以上、聞けなかった。
料理が来た。二人は食べた。話題は変わった。
帰り際、店を出てタクシーを待ちながら、真一は彩花に言った。
「彩花、お前の研究が正しいかどうか、パパにはわからない。でも——」彩花が真一を見た。「無理するな。それだけだ」
彩花は少しの間、真一を見ていた。その目に、何かが一瞬だけ浮かんだ。それが何だったのか、真一には判断できなかった。
「……わかった」と彩花が言った。
タクシーが来た。彩花はドアを開けた。
「パパ、気をつけて帰って」
「ああ」
タクシーが走り出した。
真一は後部座席で窓の外を見ながら、娘の最後の目を思い返した。
あの目に浮かんだものは——諦めだったのか。それとも、何か別のものだったのか。
優子に電話しようとして、やめた。
なんと言えばいいのか、わからなかった。
連絡は明日にしよう。考えをまとめないと……。
【注意・免責事項】
※本作に登場するすべてのキャラクターは18歳以上です。
※制服・女子高生風衣装・部活動ユニフォーム等の描写はすべて演出上のコスプレ要素であり、現実の未成年を描写したものではありません。
※当シリーズの作品はすべてフィクションであり、実在の事件・人物・団体とは一切関係ありません。
※作中に描かれる出来事は、詳細な描写を意図的に抑制しています。
※本作は医療・倫理・社会的テーマを扱うフィクションであり、特定の思想・行為を推奨するものではありません。
※性的・暴力的要素を一部含みますが、描写は必要最小限に留めています。
※苦手な方は閲覧をお控えいただくことをおすすめします。
※本作は法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒・喫煙の描写が含まれます。




