第3話 ミネソタの闇
真一、優子が彩花のことを話している9月下旬から半年前、まだ凜花の補欠入学の知らせが届く前の夜。
《《2026年3月27日(金)》》
夕食のテーブルで、彩花は淡々と肉を切り分けながら言った。高橋家には、今、母の優子と彩花の二人しかいない。
「じゃあ、土曜と日曜日で凜花の提出書類を記入して、チェック、月曜日に凜花と一緒に郵便局へ朝行けばいいのね、ママ?」
「……ええ。渡米前でドタバタしているのに申し訳ないけれど、お願いね」
「お茶の子さいさいよ」
彩花は表情ひとつ変えずに答えた。
優子は娘の顔を伺うように言った。
「そういうのは彩花得意だものね。でも、NYのマウントサイナイに行ったら、食事とか掃除とかどうするの?」
「バーガーキングもKFCもあるから無問題。掃除は……悠真みたいなのを見つけようかしら?」
「彩花!悠真くんに失礼よ!」
「大丈夫よ。失礼のないように、我が愛する妹に彼を『あげた』んだから。……四月からは学生妻、なんて凜花は今頃浮かれてるわよ。あの小娘は」
彩花の冷めた視線に、優子は思わず箸を止めた。
「『我が愛する妹をあげた』……彩花、あなた変わった……」
「ママは気にすることはないわ。あなたのせいじゃない。時代が私を産んだのよ」
短い沈黙が流れた。彩花はグラスの水を飲み干し、カレンダーに目を向けた。
「月曜日に事務局に出せば、翌日配送。あっちは準備しているはずだから、火曜日の夕方には『諸手続書類』が届くわね。火曜日に最後のお別れで、夜、悠真の部屋に行くわ。凜花との約束もあるから」
「凜花との約束?」
「凜花も悠真も遥も私のミネソタの話を聞きたがっているから、話してあげるのよ」
「彩花!」優子の声が裏返った。しかし、彩花は動じない。
「心配しないで、ママ。ミッシェルが白人と黒人の豚野郎に階段教室で強姦された。私が黒人のナイフを奪って、あいつらの太ももを刺した。それで、過剰防衛と言われたけど、豚野郎は未成年、私もそうで、無罪放免。それがトラウマになって、私はおかしくなっちゃった、ってそれだけを説明すればいいのよ。三人は納得するわよ」
「……それだけ?本当に、それだけを話すの?」
「まあ、脚色してもいいかな?本当は太ももじゃなくて、ミシェルのナカに突っ込んでいた、あの豚野郎どもの汁の垂れた陰茎を、ナイフで根元から切断してやろうと思ったけれど、気が変わったの……阿部定みたいにね、とか」
「彩花……!」
「……それだけよ。他に、何かあったかしら?」
彩花の瞳が、氷のような冷徹さで優子を射抜いた。優子の肩が小さく震える。
「ママは黙っているのよ。絶対に。パパも知らない、あなたと私だけしか知らないあのことを。二人で墓場まで持っていくのよ。……ママ、しっかりして」
「彩花……私は……っ」
優子は声を押し殺し、顔を覆った。
彩花は椅子から立ち上がると、震える母親の肩を一度だけ、ひどく冷たい手で叩いてから部屋を出た。
《《3月31日夜 四谷》》
夕方、「諸手続書類」が高円寺の実家に届いた。ママから電話が来た。「届いたわよ」。それだけだった。それだけで十分だった。
私は悠真の部屋のソファで、膝を抱えて泣いた。声を出して泣いた。遥が隣で背中を叩いてくれた。悠真は黙ってお茶を淹れた。
それで、全部終わった。
夜になって、彩花姉ちゃんが来た。
インターホンが鳴って、悠真が開けた。ドアの向こうに、コートを着た彩花が立っていた。手にはコンビニの袋。
彩花は迷わず靴を脱いで、勝手知ったる様子で部屋に入った。
四人でテーブルを囲んだ。コンビニのビールと唐揚げ。
「凜花、手続き完了おめでとう」と彩花が言った。
「……ありがとう」
「明日の深夜には出るから、今夜が最後ね」
「うん」
しばらく、誰も喋らなかった。
「聞きたいんでしょ、ミネソタのこと」と彩花が言った。私と遥と悠真が、顔を見合わせた。
「聞く」と私は言った。
私が答えると、姉ちゃんは手元のビールを一口飲み、結露した缶をゆっくりとテーブルに置いた。
「2018年12月。ミネアポリスのアンソニー・ミドルスクール。……吐く息が白く固まるような、酷く寒い日の放課後だったわ。ミシェルという金髪のバービードールみたいな女の子が、私のクラスにいたの。陽気で、不器用で、よく笑う典型的なアメリカン・ガール。私は隣のクラスだったけれど、その日は忘れ物を取りに、校舎の奥にある階段教室の前を通りかかったのよ」
姉ちゃんの声は、平板で感情がなかった。まるで報告書を読み上げるように。
「ドアの隙間から、獣の唸り声みたいなのが聞こえた。……中を覗くと、階段教室の冷たい床の上で、二人の豚がミシェルに覆いかぶさっていたわ。別のクラスの白人と、黒人の豚ども。同じ学校の、それも『優秀』だと評判だった連中。ミシェルは、猿ぐつわを噛まされたみたいに声も出せず、ただ、死んだ魚のような目で天井を見つめていた」
隣で遥が息を呑んだ。悠真が緊張して聞いている。
「白人の男がミシェルに馬乗りになっていた。黒人の男が次に彼女を押さえつけようとした。私は背後から近づき、彼のポケットからナイフを奪った。……気づいた時には、黒人の男の太ももに刃を突き立てていた。返り血が飛び、ミシェルはただ震えていた。垂直にね」
彩花がまたビールを飲んだ。
「返り血が、ミシェルの頬にかかったわ。豚の悲鳴が教室に響いて、もう一人が逃げようとしたけれど、私は逃がさなかった。そいつの太ももの、一番太い動脈のすぐ横を、一突きで貫いた。……二人とも、一歩も動けなくなったわ。床には汚い血とミシェルの涙が混ざり合って、どす黒い水溜りを作っていた」
「……」
「学校側はパニックになった。校長のレイチェルが、人種問題に発展するのを恐れて、血の海だった現場をすぐに掃除させてしまったわ……過剰防衛だ、殺人未遂だと騒がれたけれど、結局は全員未成年。私も、豚どもも。事故に近い正当防衛で、全員無罪放免……ミシェルはその後、壊れた人形みたいになって、どこか遠い州へ転校していったわ」
「……」
「警備係が豚どもをどこかに連れて行った。私はミシェルと一緒に医務室に連れて行かれた。しばらく、彼女の手を握っていた。校長が州警察のポールという巡査と一緒に来た」
「巡査が私に『アヤカは署に行かないとな。未成年事件でガキどもは知らんが、彼女は初犯だろうから、すぐ放免するが、一応、決まりなんでな』と言った。私は巡査のパトカーに豚どもと一緒に乗って、警察署に行った。小一時間、巡査の聞き取りを受けたわ。それで、方面。無罪。校長から連絡されたママが来て、家に私を連れ帰った」
姉ちゃんは残りのビールを飲み干した。喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえる。
「それだけよ。……これが、私が『あの日』に捨ててきたもの」
「……姉ちゃん」
「ああ、もう一つあったわ。巡査が『なぜ、太腿を刺したんだ?背中でもいいだろ?』って聞いたから、私は彼に言ってやった。『……ポール巡査、太腿じゃなかったら、ミシェルに突っ込んだ豚どものアレを、細切れに切り刻んだ方が良かったんですか?』ってね」
「……姉ちゃん」と私は言った。
「なに」
「怖くなかったの」
「怖かった。でも、止まれなかった。手が先に動いた」
悠真が静かに言った。「彩花が研究課題を選んだ理由は、それか」
「そう。男の暴力性を、化学的に制御できないか。同意なしに。強制的に。倫理的に問題があることはわかってる。でも、あの時の私には、それしか思いつかなかった」
「……姉ちゃんは、世界を作り変えたいんだね」と私は言った。
「作り変えたい」と彩花が言った。「方法が正しいかどうかは、まだわからない。だから、マウントサイナイに行く」
部屋が静かだった。
彩花が立ち上がった。コートを手に取った。
「じゃあ、明日の羽田で」
「待って」と私は言った。「姉ちゃん、悠真のこと……」
「それは終わった話よ」と彩花が言った。「あなたたちのことは、ちゃんと見てたから」
ドアが閉まった。
《《4月1日(水)・羽田空港》》
深夜便だった。出発は午前一時。
ママと私と悠真と遥の四人で、羽田の国際線ターミナルに来た。彩花は大きなスーツケースを二つ。それだけで、ニューヨークへ行く。
出国ゲートの前で、彩花がママに抱かれた。珍しかった。彩花がママに甘えるのを、私は見たことがなかった。悠真と短く言葉を交わした。何を話したのか、聞こえなかった。
私に向かって、彩花が言った。「T大、ちゃんと卒業しなさいよ」
「する」
「遥ちゃんも」
「はい」と遥が言った。
彩花がゲートに消えた。
しばらく、誰も動かなかった。
帰り道、モノレールの中で、遥が窓の外を見ながらぽつりと言った。
「……昨日の話だけで、メンタルがタフなお姉さんが変わるはずがないわ」
誰も、何も言わなかった。
窓の外に、夜の滑走路が光っていた。
【注意・免責事項】
※本作に登場するすべてのキャラクターは18歳以上です。
※制服・学生風衣装・部活動ユニフォーム等の描写は、すべて演出上のコスプレ要素であり、現実の未成年を描写したものではありません。
※本作に登場する事件・設定・団体等はすべてフィクションであり、実在のものとは一切関係ありません。
※第4章以降では、過去の出来事や医療・倫理に関する重いテーマが語られますが、描写は簡潔に留めています。
※性的・暴力的要素を一部含みますが、過度に詳細な描写は行っていません。
※本作は特定の思想・行為を推奨するものではありません。
※苦手な方は該当章の閲覧をお控えください。
※飲酒・喫煙の描写が含まれます。




