第2話(2) 高橋真一と優
《《高橋家別室、高橋優子》》
スマホを持って寝室に入り、ドアを閉めた。真一に電話する前に、少しだけ立ち止まった。
論文のプリント。彩花の名前。タイトル。
わかっていた。彩花がNYに行った理由が、ただの留学ではないことは、ずっとわかっていた。でも、こういう形で、娘の友人の口から説明されるとは思っていなかった。
遥ちゃんは賢い子だ。説明は正確で、感情が入っていなかった。だから余計に、言葉が刺さった。
発信した。呼び出し音が三回鳴った。
「もしもし」いつも通りの、真一の声だった。
「起こしてごめんなさい」
「いや、もう起きてた。どうした?」
優子は少しの間、黙った。
「彩花のことで」
「……彩花?何かあったか?」
「凜花が来てね。彩花が書いた論文を持ってきたの。留学の許可を得るための論文らしいんだけど……内容が……」
「内容が?」
「トランスジェンダーの子供への性ホルモン抑制薬の研究。倫理的に問題があるって、凜花の友達の女の子が説明してくれた」
電話の向こうで、真一が息を吐く音がした。
「……そうか」
「真一、NYに出張があるでしょ?その時に、彩花に会ってもらえない?凜花が心配してるの。私も……」
「ああ、わかった。会いに行く」
短い返事だった。でも、迷いがなかった。
「ありがとう」
少しの沈黙があった。
「優子」
「何?」
「……彩花が、こういう研究をしようとしていること、お前は驚いていないだろう?」
優子は答えなかった。
「ミネソタのことと、関係があると思ってるか?」
「……」
「優子」
「……わからない」優子はゆっくりと言った。「でも、彩花があの子になったのは、あの冬からだと思ってる。私はずっと、そう思ってた」
「そうだな……俺もそう思ってた」
また沈黙があった。
「真一、彩花に会ったら……あの子の目を見てきて。私には、もう……」
「わかった」
「お願い」
「ああ」
電話を切った。
優子はしばらく、スマホを手に持ったまま立っていた。
あの冬のことを、もう一度、頭の中で繰り返した。
真一には言えないことがある。美咲にも言えないことがある。凜花には絶対に言えない。
それは、彩花と私だけが知っていることだった。
あれらの事件のことは……リビングに戻った。凜花と遥が待っていた。
「パパ、わかったって。来月、NYに出張があるから、その時に彩花に会いに行くって言ってた」
「ありがとう、ママ」
優子は微笑んだ。
この子たちには、絶対に言えない。
彩花がナイフを刺したことだけじゃない。
その次の夜のことも。
私と彩花だけが知っている、もう一つの夜のことを。
《《ミネソタ、高橋真一》》
電話を切った後、真一はしばらくホテルの窓から外を見ていた。
彩花はこの国の遠くマンハッタンのどこかにいる。
あの子が12歳だった冬のことを、真一は何度も思い返してきた。ミネソタから帰国した後の彩花は、確かに変わっていた。でも、真一には何が変わったのか、正確にはわからなかった。
ただ、目が変わった。子供の目ではなくなった。
優子は何かを知っている。
……真一はずっとそう思っていた。でも聞けなかった。聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。
彩花に会う。
あの子の目を見る。
それだけでいい。今は、それだけでいい。
真一はカーテンを閉めた。
【注意・免責事項】
※本作に登場するすべてのキャラクターは18歳以上です。
※制服・学生風衣装・部活動ユニフォーム等の描写は、すべて演出上のコスプレ要素であり、現実の未成年を描写したものではありません。
※本作に登場する事件・設定・団体等はすべてフィクションであり、実在のものとは一切関係ありません。
※第4章以降では、過去の出来事や医療・倫理に関する重いテーマが語られますが、描写は簡潔に留めています。
※性的・暴力的要素を一部含みますが、過度に詳細な描写は行っていません。
※本作は特定の思想・行為を推奨するものではありません。
※苦手な方は該当章の閲覧をお控えください。
※飲酒・喫煙の描写が含まれます。




