第2潜 涙の過去とめんだこ1号の誕生 ②
旅のスケジュールは完璧だった。
夏休み初日の夕方、神津島の前浜港を出港する東京行きの大型定期船に乗り込み、夜に竹芝桟橋へ到着する。
初日は秋葉原のすぐ近くにあるコンパクトなカプセルホテルに一泊し、2日目は朝から晩まで一日中秋葉原のディープなジャンク屋街を巡り倒して必要なパーツをかき集め、今度は少し綺麗めのビジネスホテルでもう一泊のんびりする。
そして3日目は、流行の最先端である渋谷や原宿の街を遊び尽くして、夕方の船で島へ帰る――という、高校生にとっては夢のような2泊3日のプランだった。
出港の日の夕方。
岸壁で見送る島民たちに手を振りながら、揺れる定期船の広々とした共同スペースのソファに腰掛ける3人。
テーブルの上にガイドブックや東京のマップを広げ、あれこれとノートに書き込みながら、菜月と凪はテンションが最高潮に達していた。
「ねえねえ、東京に着いたらさ、夜は何食べる? やっぱり王道にもんじゃ焼き? それとも、本場のガツンとくる家系ラーメンとかもいいよね!」
「私は、人混みに疲れたら普通に静かで落ち着いたカフェに行きたいかなぁ……。そういえば、朱音ちゃん、東京に住んでたときによく行ってたおすすめの場所とかある? 美味しいお店とか知ってるなら、いろいろ案内してよー!」
菜月がパッと明るい笑顔を向け、向かいの席に座る朱音に元気よく話しかけた。
しかし、朱音は返事をしなかった。
いや、できない様子だった。
うつむいたまま、テーブルの下でぎゅっと膝の上のスカートを掴み、両のこぶしを白くなるほど強く握りしめている。
表情は驚くほど青白く、呼吸は浅くなり、肩全体が小刻みに震えているように見える。
「……あれ? 朱音? どうしたの、体調悪いの?」
凪がスッと身を乗りだし、心配そうに眉をひそめながら顔をのぞき込んだその瞬間。
朱音は耐えきれなくなったように自分の口を両手でガッと押さえ、椅子から跳ね上がるように立ち上がると、言葉を発する間もなくトイレめがけて一直線に走り出した。
「ちょっ、朱音ちゃん……ッ!?」
予想外の事態に、菜月と凪は顔を見合わせ、慌ててその背中を追いかけた。
客船の薄暗い通路を駆け抜け、女子トイレの前で待つこと数分。
ガチャン、とドアが開き、青白い顔をして冷や汗を浮かべた朱音がフラフラとした足取りで出てきた。
「どうしたの朱音! 船酔い? それとも、さっき食べたお弁当があたっちゃったの!?」
凪が心配そうに背中を優しくさすりながら声をかける。
しかし、朱音はかぶりを振った。
唇がブルブルと震えている。
「ううん……船酔いなんかじゃないの……」
「じゃあ、どうしてそんなに顔が真っ青で震えてるのよ? ねぇ、何か隠してるの?」
朱音は潤んだ大きな瞳をゆっくりと上げ、決心したように、絞り出すような声でポツリと言った。
「私……東京が、怖いの」
「え……?」
菜月と凪は、あまりの意外な言葉にぽかんと口を開けたまま、言葉を失った。
「だって、朱音ちゃん、東京に住んでたんでしょ? 昔の家も、学校も、全部東京にあったんでしょ?」
「うん、そうだよ……。でも、私ね、中学のとき……東京にいた頃、学校で……いじめられていたの」
震える声で、朱音は堰を切ったように、これまで誰にも言えなかった過去の記憶を語り始めた。
「周りの目を過剰に気にしすぎて、息をするのも苦しくて……自分の意見を言うたびに嘲笑われて、教室の空気が針のむしろのようで……それがもう精神的にも肉体的にも耐えられなくなって、人間関係も、学校の勉強も、部活も、何もかも全部投げ出して逃げ出したの。
……それで、家族全員でこの神津島に引っ越してきたの。だから……またあの街の喧騒に戻るなんて想像しただけでも……あのときの恐怖が蘇ってきて、胸が締め付けられて、息ができなくなって……」
言葉を詰まらせ、大粒の涙をポロポロと畳みかけるようにこぼす朱音。
強がりな彼女が、ここまでボロボロになって怯えている姿を見るのは、これが初めてだった。
「ごめんね……こんなこと言ったら、面倒くさい女だって思われるよね、せっかくの楽しい旅行なのに私のせいで台無しにして、嫌われちゃうって思ったから……今までずっと、怖くて言えなかったの……!」
震えが止まらない朱音の細い肩を、菜月は迷うことなくガッと力強く、自分の胸に引き寄せるように抱きしめた。
「バカだなあ朱音ちゃん! そんなことで嫌いになるわけないじゃん!」
「そうよ。私たち、もうガレージで一緒に泥だらけになって、油まみれになりながら『めんだこ1号』を作ってる仲間でしょ? 最高の友達だよ! 東京がどうとか、昔がどうとか、そんなの今の私たちには全然関係ないから!」
凪も優しく微笑みながら、朱音の頬をつたう温かい涙をそっとハンカチで丁寧に拭き取ってあげた。
朱音は、二人のあまりにも温かく、見返りを求めない優しさに触れ、「ぅ……っ、ありがと……う……本当に、ごめんね……」と声を上げて子供のように泣いた。
胸の奥に何年も溜まり続けていた冷たくて重い氷の塊が、二人の優しさによって少しずつ、確実に溶かされていくのを感じていた。
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――そして翌日。
カプセルホテルをチェックアウトした3人は、いよいよ目的の地である秋葉原へと足を踏み入れた。
駅を降り立った瞬間から、目の前にそびえ立つ巨大なビル群、視界を埋め尽くすほどの電子看板、あちこちから大音量で流れてくるアニメの主題歌や宣伝音声、そして地平線の果てまで続いているかのような途方もない数の人々の多さに、島育ちの菜月と凪は「うわっ、人が多すぎて目が回る……!」「ビル高っ! 空が狭い!」と圧倒されっぱなしだった。
しかし、雑踏を抜けて目的のジャンク通りに入った途端、朱音と菜月の目の色が一瞬で変わった。
「あ、これ……! この電源基板、型番は古いけど、状態めちゃくちゃいいよ。これなら定電圧回路として使えるかも!」
「こっちの防水用コネクタなんて、ネットで買うより全然安いジャンク品があるよ!」
先ほどまでの怯えが嘘のように、3人でワイワイと狭い通路の店先を代わる代わる覗き込み、お目当ての掘り出し物のパーツを見つけては「やったー!」とハイタッチを交わす。
東京の街の雰囲気に怯えていた朱音も、大好きな電子パーツの海に囲まれ、3人で夢中になってパーツを漁り合ううちにすっかり自然な笑顔を取り戻していた。
生き生きとした表情で、専門的なパーツの性能や配線の仕組みを解説しはじめる朱音の横顔は、すっかりいつもの頼もしい彼女に戻っていた。
秋葉原のビジネスホテルでもう一泊した翌日、3人は今度は原宿・渋谷のストリートへと向かった。
「うわあ……! 人、人、人すごすぎ!」
渋谷の代名詞である巨大なスクランブル交差点の海の波に飲まれかけながら、菜月と凪は「流されないようにしっかり手繋いで!」とキャッキャとはしゃぎながら歩く。
流行りのファッションショップを覗いて可愛い服を見たり、原宿の竹下通りで甘いクレープを頬張ったりと、都会の休日を全力で満喫していた。
しかし、その楽しくて穏やかな時間は、唐突に現れた過去の悪夢によって切り裂かれた。
それは、原宿の、とあるお洒落なテナントショップの並びが続く大きなビルのフロアを歩いていた時だった。
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